田能村直入先生

うちから車で5分ほどで江戸時代後期の文人画の大家・田能村竹田( 1777~1835/たのむらちくでん)旧居跡「竹田荘」があります。上の写真の中央部がそれです。2013年3月30日、桜が満開の季節でした。

2006年11月24日、紅葉の季節。

2014年2月10日、雪景色。 ここで多くの弟子が育ちました。田能村直入先生(1814~1907/たのむらちょくにゅう)もそのひとりでした。 直入先生は京都市立芸術大学の前身である京都府画学校の創始者で初代校長。下は晩年のお写真。

自然の雄大さに惹かれ、縁もゆかりも無い九州大分県の内陸部に位置する竹田市にiターンしたら、そこは不思議なことに母校の創始者である田能村直入先生の出身地でした。

芸大に入学したとき、古色蒼然とした小さな講堂に新入生が集められて、九州の山奥出身の先生がこの大学の創始者であると聞いたことを映像として覚えています。なぜ京都ではなく九州の山奥出身のかたがが芸大の創始者なんだろうと非常に不思議だったので印象に残ったのだと思います。

2013/03/30 上の3枚の「竹田荘」の写真は、隣接する「竹田荘公園」と呼ばれる小さな公園から撮りました。その公園に、このような「画神」の石碑が建っています。下はこの拡大です。

画の字は旧字体。 二品朝彦親王久邇宮殿下御筆とあります。明治10年に久邇宮朝彦親王(1824~1891/くにのみやあさひこしんのう)から賜った“画神”の文字を彫った。二品(にほん)というのは、一本から四本まである親王の位。 下が久邇宮朝彦親王。

昭和天皇のお妃であった香淳皇后(1903~2000/こうじゅんこうごう)の祖父です。 下は石碑の右横にある説明パネル。




2013/10/12 画神の石碑の裏側。

建国紀元二千五百四十四歳。 西暦1884年(明治16年)です。この年にこの石碑が建った。 旧岡藩人 阪府士族 京都画学校摂理兼教頭 小虎■人 田能村癡。と、あります。 (※癡はおろかという意味。痴呆、痴人、痴漢の痴)

直入先生が京都府画学校を辞職されたのは明治17年ですから、明治16年の時点では先生はまだ摂理(校長)の職にありました。

つまりこの石碑は、よくあるように偉人が亡くなったあとに故人を顕彰するために建てたものではなく、「画神」を顕彰するために直入先生自身が建立されたのでしょう。

阪府というのは大阪府でしょうか。 先生は京都に移られるまえ、初めは現在の大阪府堺市ついで大阪市で活動されています。それで阪府士族と記されているのでしょうか。 直入先生は雅号をいろいろ変えられています。小虎もそのひとつでした。

直入先生は明治元年(1868年)54歳のときに京都に移住し、明治11年8月に当時の京都府知事・槙村正直に画学校設立の建白書を提出。府は翌明治12年1月21日には開校の布告を出しています。 翌明治13年6月には太政大臣三条実美公により「日本最初京都画学校」と命名され、7月1日には京都御苑内旧准后御殿を仮校舎として開校式を挙行しました。そして直入先生が京都府画学校の初代校長&教頭に就任したのでした。