『考える人 vs 菩薩』
The Thinker vs Bodhisattva

第8章




芸大の1回生のとき、学科の選択科目のひとつとして哲学を選びました。そのときの教科書がこの斎藤信治著『哲学初歩』。関西の実家に長く眠っていました。2006年に実家を処分した際に持ち帰ったものの、ダンボールに入ったまま長らく眠っていた。

「初歩」という名の、よくできた哲学の入門書ですが絶版になっており、Amazonでは中古本が1908円から7815円の値段をつけています。絶版になっている古い本なのに、今だ求める人があることに感動します。

1960年に初版が出版され、1965年に改訂増補版が出版された。私が持っているのは増補版です。ずいぶん古い。もっといい哲学入門書が世に出ているでしょうに、なぜこの古本に7815円という高値がつくのでしょう? ハンドルネームg-headというかたがコメントされていることに同感します。

これは見事な本であると思う。哲学の入門書であるが、個々の思想家の論の解説を年代順に並べただけではない。『哲学とはいかにして生まれたか』あるいは『哲学の起源とは何か』といったようなより根本的な問いとの位置付けにおいて各々の思想家が引き合いに出されるため、 高校の倫理の授業などでありがちな、断片的な知識を習得して終わり、というようなことにはなりにくい。

「断片的な知識の習得」・・・それはつまらない。私たちはそれに苦しめられた。苦しんだわりには何の役に立たない。試験が終わったらすぐに忘れる。屁の突っ張りにもならない。糞のたしにもならない。青春の貴重な時間を、そんなつまらないことのために浪費してきた。

哲学の時間になると、禿げ頭が光り、白い髭をたくわえた年配の先生が教室に現れました。18歳のときです。ずっと昔のことなんですが、つい最近のことのようにも感じます。この本を開くと私は即座に18歳の私にタイムスリップします。

愛知
Philosophia=Love of Wisdom


まさに半世紀前です。この赤い線、18歳の私が引きました。先生が線を引きなさいと言われたのか、勝手に引いたのかは覚えていません。

フィロソフィアないしフィロソフォスという言葉を、それぞれに愛知ないし愛知者という意味をこめて、最初に使いだした人が、かの有名な哲人ソクラテス Sokrates(前469頃~前399)であります。

愛知県は古くからある「愛知郡」という地名に由来するので「フィロソフィア」とは全く関係ないけれど、「愛知」こそ哲学の語源であり、愛知県は「フィロソフィア県」という意味ですと白髭先生は語られた。

Philo(フィロ)=愛
Sophia(ソフィア)=知
Philo+Sophia=Philosohia=愛知・・・哲学

「知を愛すること」、それが「哲学」の語源であると説明された。次のページにこう書かれています。

かりにこれを英語で意訳すれば“Love of Wisdom”、ドイツ語では“Liebe der Weishit”ということになる。ラブもリーベも愛とか恋愛とかを意味すること、申すまでもありません。

これでいっそうはっきりすることでもありますが、もともとソクラテスでは愛知(フィロソフィア)における愛とは恋愛をモデルとして考えられていた愛にほかならなかったのです。

ところがこれを日本語で「哲学」と訳してしまいますと、とんとそういうニュアンスが失われてしまう。

失われた状態がずっと続いている、現在まで続いていると思います。海外のことはわかりませんが、日本では「愛知」というニュアンスは失われていると思います。狂おしい恋愛感情をいだくというニュアンスがです。

「神は死んだ」という語句を含むニーチェの著作『悦ばしき知識』(『愉快の学問』『楽しき知恵』『快活な学問』とも訳される)は、 「知」の探求を重苦しい義務ではなく、愛と喜びをもって抱きしめる態度を表しています。 ソクラテスのいう「愛知」の思想につらなる発想だと思います。

↑梅原猛先生。

テレビに出演されるとき、先生はいつもニコニコ笑っておられた。先生のこの笑顔を当時「菩薩の笑顔」と称賛する人もありました。芸大の授業も、ニコニコしながら話を進められるんですが、ふっと笑顔がとぎれて沈黙されるときがあって、そのとき教室がしーんと静まりかえるんです。

先生はきびしい怖い顔に見えるときもあったし、何か虚無的な孤独な表情をされているように見えることもあった。私にはそんなふうに見えたというだけですが。

あるとき先生は、ニーチェの『悦ばしき知識』にひっかけて、学ぶこと、知ること、探求することは、本当は非常に楽しいことだと話された。




↑梅原猛著『考える愉しさ』(新潮社 昭和50年発行)、対談相手は12人、それぞれの分野で大活躍されているすごい人たちです。

小潟昭夫(フランス文学)
湯川秀樹(ノーベル物理学賞)
小松左京 (作家)
桑原武夫(フランス文学)
上田正昭(歴史学者)
上山春平(哲学者)
池田弥三郎(民俗学者)
大岡信(詩人)
谷川徹三(哲学者)
竹内義範(教育学者)
司馬遼太郎(作家)
宮脇昭(生態学者)

孔子の論語、禅語録、毛語録には「対話」がない。仏陀や老子、荘子の教説にも対話がない。でもプラトンの『対話篇』には対話があると梅原先生は言われた。『対話篇』のなかでは、ソクラテスほどの人物が「対話」のなかで、おのれの考えを変更するシーンが描かれています。

先生は日本文明や日本仏教の素晴らしさを説かれたけれど、東洋文明には「対話」の精神が欠けているかも知れないとも言われた。「対話」の価値についても説かれた。

私が芸大に入学したのが昭和50年、その年にでた先生の対談集の名前が『考える愉しさ』で、それはニーチェの『悦ばしき知識』を意識した題名だったと思います。

当時、高校時代の友人に誘われて、同志社や立命館や京都大学に遊びに行くと、校舎があまりに立派なのでたまげた。友人たちはそれが普通と思っていたけれど。

というのは当時の京都市立芸大は、「日本一のボロ大学」だった。『神殺しの日本』のなかに、「日本一のボロ大学」と書いてあるのを見つけて笑った。まさにそうだったんです。


↑ここに書いてあるのは、絵を描く校舎のことです。古色蒼然とした校舎でした。大東亜戦争中、当然生徒が少なくなり、一部病室になっていたとも聞いた。霊に敏感な女生徒が、病室で亡くなった人の幽霊を見た、泣き声を聞いたという、うわさも聞いた。

芸大に隣接して真言密教の智積院の本堂が建っていて、芸大の裏手が墓地になっていた。校舎の窓からお墓がいっぱいあるのが見えた。 それは絵を描く校舎(実技)のことで、学科(座学)の講義は校庭に建てられたプレハブで行われていたんです。


↑プレハブというのは、ミサワホームのプレハブ住宅のことではありません。工事現場に臨時に建てる簡素で安価なプレハブ、壁がぺらぺらの薄い鉄製のやつです。夏暑く冬寒い。冬はストーブがありましたが、夏は冷房なんてなかった。

梅原先生はそのような現状に対して激しく批判されていました。ふだんいつもニコニコして話されるので、怒りを表現されると思いっきり怖い。これからの日本の芸術・文化を荷うべき若者たちを、このようなひどい環境のまま放置するとは許せないと先生は言われた。

それはこの国の文化・芸術への軽視のあらわれでもある。市が提案する環境の悪い山科移転案ではなく、何とかしてもっと良い場所への移転・新築を実現させたいと考え、懸命に努力していると話された。

私は校舎がボロい、プレハブが粗末だからといって不満に思ったとは一度もありません。環境はほとんど気にならなかった。環境が良くなったからといって自分がいい絵が描けるとは思えなかったからです。

でもほかの大学を見たら、ああこれが大学というものなんだと思い知りました。プレハブ校舎で学んでいる大学生なんて、日本だけでなく世界的にも珍しいと思います。

貧困にあえぐ国は、掘っ建て小屋みたいな小学校はあるでしょう。私はインドで、それすらない青空教室(野外授業)を見ました。でもどんな国でも大学ともなれば、そういうのはまあないと思います。

当時の京都芸大は、座学の授業をそういう粗末なプレハブ校舎で行なっていたんです。これは日本一粗末というレベルではなく、世界一粗末な教室であったと思います。まあ何でも「世界一」というのはすごい。

梅原先生の教科書の無い講義も、アタマが光る白髭先生のソクラテスの講義も、芸術学、美学、色彩学、美術史、英語、フランス語、教育学の授業もその教室で受けたんです。私にとって、かけがいのない学びでした。当時不満はまったくなかった。

ただし、心ひかれる人があって、その人のことをもっと知りたい。ずっとその人のことを想っている。もっと近づきたい会いたいという熱い気持ち・・・・・

そんな熱い思いが「フィロソフィア」の本来の意味であるというなら、私たち若い画学生たち相手に、ソクラテスのイデア論から哲学の話を始めるのでは、「愛知」という本来のニュアンスが失われてしまう。

それこそ私たちは恋愛のことについて知りたい。恋愛とセックスの関係、、それらは愛とは別物なのかどうか知りたい。私たちは芸大に入るまえから女性モデルのヌードクロッキーを描いている。

描くときに性的な妄想を持ち込むことはよくないと思った、でもそういうのもありなのかどうか、わからない。エロい表現をしてもいいのか悪いのか、それもわからない。西洋美術は女性のエロティックな裸体画があふれている。そのことをどう考えたらいいのかわからない。

セクシーとエロティックと美は別物なのか、つながっているのかわからない。本屋ではヌード写真集が目に入る。どぎついポルノグラフィーも目にする。それと西洋美術のエロティックな裸体画とどう違うのか? 

「これは芸術であってポルノではない」とかというけれど、そもそも芸術って何だろう? 

自分のなかにある性的な欲望と恋愛と愛・・・それらは別物なのか、つながっているのか、どう考えればいいのか、さっぱりわからない。

思うに、そういうことをみんなで考え、話し合ってみることが哲学入門だったら熱くなれる。みんなはどう考えるのか、先生はどうお考えなのか聞いてみたい。ソクラテスのイデア論なんて何も心に響かない、熱くなれない。

ある朝登校したら、古色蒼然たる薄暗い玄関の掲示板のまわりに人だかりができていた。何だろうと思ったら、女学生が自殺したという。「制作にいきづまって」という内容の遺書があったと説明されていた。

私は落ち込んだ。私こそ制作にいきづまっている。じょうずに描けるようにはなったけれど、こんな絵を描きたかったんじゃない。こんな絵しか描けないんだったら、死んだほうがましだと思っていた。

しょっちゅう死にたいと思っていました。あとから思うと考えが浅はかであるとか幼稚・未熟であるとか、世界を知らないために発想がせまいとか思うわですが、そのときは一生懸命、必死ですから、消えて無くなりたいというのが痛烈な思いでした。

死について、自殺について話し合うことが哲学入門になることだってあると思う。女学生の死についてみんなで考え話しあってみるべきだった。が何の話し合いもなく、退屈なイデア論の話を聞きながら、先生のアタマの光をぼんやり見ていた。

彼女が死を選んだこと、そこに本当は何があったのか、そしてそもそも死とは何なのか、それが生の意味、存在の意味、宇宙の意味、自分の存在の意味を探求する入口になると思う。お決まりのソクラテスのイデア論だけが入口ってことはないと思う。

当時、経済は大成長するものの、メダカやドジョウやフナがあたりまえに泳いでいた小川がヘドロ化しつつあった。公害病で苦しむ人々もたくさんあった。

ヘドロ化する小川をありのまま汚く醜く描くのか、現実を無視して想像で美化して描くのか、どちらが本当の芸術なのだろう? そういう疑問について話し合うことが哲学入門になることもあると思う。

私は間水君が哲学に失望した気持ちがわかる。西洋の偉い哲学者の学説を学ぶことが哲学の授業だったら、今自分が身もだえするほど悩んでいること、胸かきむしるような思いでのたうちまわり、真っ暗闇でどこをどう進めばいいかわからない、強く疑問に感じても答えが見出せず、ぐるぐる迷路をさまようようなこととは無関係じゃないか。

先生は、勉強ができて成績優秀だったかも知れないけれど、間水君と同じように苦しみもだえてきたかどうかはわからない。西洋の学説をきちんと学び、教壇に立ったときそれをきちんと教える・・・そのような学問だけが哲学だと思っておられるかも知れない。


希哲学
Ki-Tetsu-Gaku


↑このかたが「愛知」(フィロソフィア)を「哲学」と訳された西周(にしあまね 1829 - 1897)。[西周哲学著作集, Public domain, via Wikimedia Commons] 

天地がひっくり返るような幕末から明治の激動の時代を生きた。西郷隆盛(1828 - 1877)より一歳年下。坂本龍馬(1836 - 1867)より7歳年上。

西周は石見国津和野藩の藩校で蘭学を学び、江戸幕府の「蕃書調所」(ばんしょしらべしょ)の教授兼助手の仕事につき、文久2年(1862)にはフィロソフィアのことを「所謂希賢の意に均しかるべし」と推定したという。『哲学初歩』はこう書いています。

希は希望の希で憧れ求める、愛するに通じますゆえ、フィロを希にあてソフィアを哲にあてて「希哲学」という訳語をあみだしたということは、これは必ずしも不当な訳語でもなかったと申せましょう。

鮮明に覚えています、その日の授業のことを。半世紀という時の流れが無かったかのように。奇妙キテレツな「キテツガク」という言葉こそ「フィロソフィア」の正統的な訳語だった。

ところがその後どういうわけか、西周はこの「希哲学」から希をはぶいてフィロソフィアのことを単に「哲学」とよぶようになった。

「キテツガク」では語感が悪かったのではないでしょうか? 「キテレツガク 奇天烈学」みたいな感じがする。 私は「恋知」という訳語を提案したいけれど、「廉恥」と同じ発音。

「廉恥」が無いのを「破廉恥」といい、「恋」が破れるのを「失恋」というなら、「希」を失った「哲学」は「失恋知」だといえる。

自己や存在、宇宙、生命、死、真理についての狂おしい熱情を失った冷たい「学問」「知識」・・・世の中ではそのような「学問」や「知識」を「知」と呼ぶけれど、ソクラテスはそれを「無知」だと言った。

「私は知らないということを知っている」と彼は言った。知っていると思う君たちより、知らないということを知っているぶんだけ少しは賢い・・・

希哲学であってこそフィロソフィアの忠実な訳語であったはずのものが、そこから希が勝手にはぶかれたとなると、哲学だけでは賢学というのも同じことで、 フィロソフィアにおけるかんじんのフィロが写し出されていないことになってしまい、 せっかくのソクラテスの精神がいちじるしくそこなわれることになりはしなかったかというふうにも考えられるのです。

翻訳は難しい。直訳だと堅苦しい感じがして読みにくい。かといって意訳すると翻訳者の考え方や感性が混ざってくる。

それは仏典の翻訳も同じで、三蔵法師玄奘(げんじょう 602 - 664)は、原典に忠実に訳そうと努力した。鳩摩羅什(くまらじゅう/クマーラジーヴァ 344 - 413)の訳は、名文・美文と讃えられるけれど彼は意訳を試み、ときには創作も加えた。

ちなみに西周は、「芸術」「科学」「技術」「心理学」「生理学」「解剖学」「理性」「知識」「感受性」「創造力」「認識力」「主観」「抽象」「概念」「定義」「命題」「原理」「分解」「本能」「理想」「共和党」「社会党」「保守党」「急進党」等々、多くの訳語を考案しました。

西周の新造語とみなされていて、のちに漢籍に典拠のある転用語と判明した訳語もあるという。「意識」「現象」「思考」「観念」「観察」「体験」「論理」「弁証」「客観」「帰納」(手島邦夫『西周の訳語 の研究』 2002) 。

ちなみに彼はオランダのライデン大学に留学しています。留学中の1864年にフリーメイソンに入会したという。 明治維新(1868)直前の話です。

ライデンといえば、シーボルト(1796 - 1866)は日本から持ち帰った植物をライデンに持ち込み、そこからヨーロッパ各地に広まった。

アジサイにしろギボウシにしろノカンゾやヤブカンゾウにしろ、日本原産の植物が欧米で品種改良され、多種多様な園芸品種が生まれ、それが逆輸入され、現代日本の園芸店の主要な商品となっています。

アジサイはハイランドジアとして、ギボウシはポスタとして、ノカンゾウとヤブカンゾウはヘメロカリスとなり、私も庭で長く栽培しています。霊気療法がレイキヒーリングとして、禅がマインドフルネスとして逆輸入されているようなものでしょうか。

ライデン大学にはシーボルトが持ち帰った植物を育てた日本庭園があるという。



↑ライデン大学の植物園のなかにある日本庭園
(シーボルト記念庭園)

たくさんの訳語=和製漢語をつくった西周ですが、明治7年(1874) 『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』 を発表しています。漢字とかな文字表記を廃し、日本語をローマ字表記に変える案です。

この方が国語の習得が楽になり、外国人との交流もしやくなるでしょう。反面、日本の伝統文化の微妙なところが伝承されにくくなるかも知れません。

でも古文や漢文を読み込むのは一部のひとだから、大勢にとってはローマ字表記の方が負担が少なくていいのかも知れません。アルファベットだと26文字です。日本の場合は漢字の学習が大変すぎる。

小学校 1026字
中学校 1110字

私は車を運転しているとき「空」という漢字を見かけると、「くう」と読んでしまいます。「色即是空」の「空」です。よく見るとそうじゃないんです。駐車場が「あき」だという表示です。

「から」とも読みます。空手です。青い「そら」でもあります。 空しい(むなしい)とも読む。空ろ(うつろ)とも読む。空蟬(うつせみ)はセミの抜け殻。同じ「空」という漢字にいくつもの読みがある。

「思惟」もそう。「しい」と「しゆい」では意味が全然違ってくる。日本語、難しすぎ!



↑[See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons]

わが国の初代文部大臣となられた薩摩出身の森有礼(もり ありのり 1847 - 1889)は、明治5年(1872) ごろに、「日本語を廃して英語を日本の国語とすべきだ」という過激な意見を発表しました。

難儀な日本語習得のために大変な努力を強いられるうえに、全く文法の異なる英語も習得しなくてはならない。その負担の重さを思うと、英語を国語とする説もありかと思ってしまうほどです。

けれど中学校で3年間、高校で3年間も英語を学んで、英語が話せないのはなぜ? 日本国民の7割以上が英語を話せないらしい。 話せるのは18%ぐらいだという。いったいなぜ?

YouTubeで見たんですが、西洋のある男性が「日本人が英語が話せないのは、テストのための勉強になってしまっているからですよ」と語っていた。そのかたは日本で少人数に英会話を教えているとのことでした。

子供のときに英語を聞きなれていると、脳に英語を聞き取るためのシナプスができるらしい。英語が話せる人材を作りたいなら、そうするべきだし、テストのために英語を勉強したって屁のつっぱりにもならない。

1993年、インド・プネー市のOSHOコミューンに滞在したとき、あなたがグラフィックデザイナーであるなら、アシュラム編集室でワークメディテーションしたらいいと勧められ・・・・・

ワークメディテーションって、日本語訳で「作務」です。アシュラム編集室で面接すると告げられ、ていちょうにお断りしようと思って行ったら、面接もなにも「さあはじめるわよ」とニコニコして言われた。

それを言ったのは魅力的なイギリス人女性で「さあはじめるわよ」は英語でした。中学・高校の英語の成績はだいたい3ぐらいだったと思う。その程度の英語力しかないのに、通訳はつけてもらえなかった。

編集室はその時期、日本人は私ひとりだけ、全員が英語でやりとりしていました。私は「パードン」とか「スピーク・モア・スローリー」ばかり連発しました。

が、そんなふうに英語が飛び交う環境にいたら、彼らが言っていることがだんだん理解できるようになっていきました。ジョン万次郎(1827 - 1898)みたいに耳で覚えるわけですね。文法なんて考えていたら会話できるわけがありません。

ジョン万次郎はカフェで「あ カッパの屁」と言ったら、ちゃんと珈琲がでてくることを学んだ。へたに「あ かっぷ おぶ かふぃー」A cup of coffee というより通じるんです。

そういえば編集室で「びゅーてぃふる」と言うより「ビュリフォ」の方が通じた。まずは、屁のつっぱりにもならない退屈な英文法の授業で私たちを拷問するのはやめてもらいたい。屁のつっぱりにもならない勉強なら、カッパの屁の方がずっといい。

あ、そうそう森大臣は明治22年(1889)、23歳の若い国粋主義者に出刃包丁で刺されて43歳で亡くなった。その日、大臣は大日本帝国憲法発布式典に参加される予定でした。


思考 vs 愛
Thinking vs Love


私はまだこんなことを鮮明に覚えています。一生忘れないと思います。[写真は昭和のビアガーデンのイメージ]

ずっと昔のこと、3人は20代前半、たぶん23歳だった。西洋哲学の学徒であった友人H君は、大阪梅田の街を歩きながらNH君と私相手に愛について哲学的に語った。

主にドイツロマン派の哲学者や詩人が描く愛について話題にしながら2時間ぐらい語っていた。特に「純愛」の素晴らしさ美しさを説いた。H君はしゃべりすぎて喉が渇いたのでしょう。暑かったので、生ビールを飲もうということになった。

駅前ビルの屋上ビアガーデンに行くことにしました。驚いたことに大音響のBGMに合わせて、ショーとしてトップレスの若い女性がダンスしていた。

夜の特殊なお店ではなく、一般客相手の真昼間・・・今の時代なら考えられないことですが、あの時代そんなことがあった。 いや、あの時代でも普通はそんなお店はなかったと思う。


[写真はイメージ] H君はセクシーなダンスに目が釘づけになり、愛の話は吹っ飛んだ。ダンスも楽しみたっぷり飲んで酔いがまわったので、もう行こうと私は言った。

が、H君は席を立とうとしない。さっきまで純愛を説いていたのに、ゆれる乳房を見たら純愛の話題なんて、どうでもよくなった。

だんだん不愉快になってきて私は「帰る」と言った。H君は「もうちょっと楽しもう」と言い、NH君は笑った。NH君はいつも笑っている。私はいらだって席を立った。

彼と会わない月日が流れ、ある日けろっとした顔でH君が私の家に現れた。私の家と彼の家は500mほどしか離れていなかった。親しい友達ではなかったけれど、小学校のときから知っている近所の幼馴染だった。

芸大の4回生のとき、たまたま阪急電車で再会し、それから親密な交流が始まった。阪急(はんきゅう)電車というのは、関西以外のひとはご存知ないかも知れませんが、大阪と京都、神戸を結ぶ無くてはならない私鉄です。

彼が愛すべき人物であることはわかっていた。私も彼と同じ欲望がある。彼は正直な人間なので、自分をいつわることができない。プライドの高い人なら、あそこでビールを飲まないでしょう。

純愛について力説したばかりなのだから、セクシーなダンスのせいで話が吹っ飛んでしまうのはカッコ悪る過ぎる。

彼はものすごい読書家だった。家に本があふれていた。私も読書家のつもりだったけれど彼に比べたら、しょぼいことがわかった。

ジャンルを問わない幅広い知識と、ねばり強く考え抜く集中力と、関西人らしいジョークのセンスがあって、話題も豊富だった。話好きで疲れることなくいくらでも情熱的に語ることができた。

H君のような人が哲学の先生になったら、きっと生徒たちを退屈させることはないだろうと思った。彼もそのような職種を希望していた。彼には自信があって、たびたび自分のことを天才だと言った。ただしNH君と私だけに言ってただけかも知れない。

彼は数年後、母校とは別の大学院に入り哲学を深めた。哲学科の助手、講師の仕事もするようになった。哲学の話題になったら、私の思考がまったく浅いことがわかった。思考力でも知識でもまったくかなわない。自分が幼稚園レベルであることがわかった。H君は、はるか先に進んでいた。

ところが愛に関しては、以前のH君となんら変わっていないように見えた。そもそも愛と思考は別物であり、思考が深まったからといって、愛が深まるわけではないということを彼から学んだ。

緻密な思考・実験・計算を積み重ねることで、高層ビルや高速道路、自動車、ジェット機、新幹線、パソコン、インターネット、スマホ、AIが生まれた。快適・便利な科学技術文明が栄えている。

それはものすごくありがたいことに違いないけれど、愛に関してはお寒い現実があることは、日々の世界情勢、国内の現状、身近な現実を見ればわかります。 科学が驚異的に発展したからといって、愛とは何の関係もない話であるとしか思えない。


プラトン的恋愛
Platonic love


[写真はイメージ:フリー素材を加工]
あの当時、私には気になっている女性がいました。芸大の4回生のとき「僕の作品には深みがありません」と、高校時代にお世話になった宮崎先生に言ったら、君の若さで深みを望むのはむりかも知れない。私だってそれを探求しているところだと言われた。

けれどもしアドイスが欲しいのであれば・・・「醜いものも見てまわりなさい」「旅をしなさい」そして「恋愛しなさい」と言われた。あとから思うと、その女性との出会いは宮崎先生が仕組まれた。

自分の弟子の一人がグループ展を開くからぜひ行って、いろいろ指導してやってほしいと先生が言われた。学生に過ぎない自分が指導なんてとんでもない、そんなことはできませんが、必ず行きますと答えた。

大阪のギャラリーで、彼女と彼女の仲間の油絵を見たあと、挨拶をして自己紹介をして少し話をして、他のお客さんも次々来ているのですぐ帰ろうとしたら、話の続きを聞きたいから、会える日を決めたいと彼女は言って、小さな手帳を出した。それが初めての出会いでした。

彼女と会うときはいつも私が一方的にしゃべることになった。彼女がじょうずに聞き、じょうずに相槌を打ってくれるものだから、私は話し続けることになってしまった。そうやって2時間でも3時間でも話した。もっと話したと思う。

ずにのって上機嫌で話し続けたのではありません。彼女といっしょにいたいから、思いついたことを何でも話してみた。意外なことに、私の話を楽しんでくれた(ように見えた)。

・・・そう書いてみて、今やっているこの『考える人 vs 菩薩』は、ほぼ彼女に話しているようなノリだとわかった。脈絡なく、とりとめがない。起承転結がなく、サイコロがどこにころがるのか自分でもわからない。だから話続けることができた。

それはプラトンの『対話篇』ではなかった。彼女にも話してほしかったけれど、私の話は面白くないからと言って聞き役ばかりした。そうして意図せずインタビューみたいなものになってしまった。

私は今に至るもずっとそうだけど、饒舌でも雄弁でもなくむしろ寡黙。そんな私が彼女と会ったときだけは長時間話した。その無駄なおしゃべりのせいで、私たちにはいつまでも距離があった。距離を縮めたいなら言葉はいらないと、ずいぶんあとになってわかった。

男女を問わず、この人生であんなに一方的に話した相手は彼女しかいない。私の話に退屈しないかと心配したら、別れるときには、いつも彼女が次に会う日を決めようと言ってくれた。

友人に彼女との関係を聞かれて、「プラトン的恋愛」だと答えておいた。今の時代、プラトニックラブという言葉が死語になったかどうかは知らない。

年上で、美術教師をしながら絵を描き続けている彼女に対する敬愛の気持ちが強かった。そんなふうに芸大4回生のときから数年間彼女とおつきあいがあった。


ふたりの待ち合わせの場所が、彼女がつとめている学校の校門だったことがあった。直前になって彼女が電話でそうしてほしいと言った。土曜日だったのでしょう、お昼の時間にたくさんの生徒たちが下校していく。

彼女が現れて私と連れだって行く様子を見て、生徒たちが騒いだ。「うわー、先生が男の人と、うわー、スキャンダルだー」。そんなところを待ち合わせ場所にしたら当然そうなってしまうこと、どうして思いつかなかったんだろう。

ふたりは逃げるように駅に急ぎ電車にとび乗った。ずっと後になって、そのとき彼女は意図的に校門で待ち合わせるようにしたのかも知れないと、ふっと思い出して胸が痛んだ。

私は高校3年のときから鬱的な暗い気分に悩まされた。死にたくなったり、人と一緒にいるのが苦痛になったりすることがあって、それもあって山崎の三川合流点みたいな誰も来ない寂しいところに足が向いた。

高校時代に喘息で苦しんで、病院からもらった色とりどりの化学製剤を毎日多量に飲んだ。いっこう効き目はなかったけれど、それを止めた直後から、重たい気分がやって来た。そのときは薬の副作用だとは考えなかった。

後から思うと、憂鬱な気分から抜けでることができたのは彼女のおかげだったと思う。ほほ笑んだり、声をたてて笑ったり、心配そうな顔をしながら、ただ聞いてくれた・・・

結果的にカウンセラーみたいな役割をはたしてくれたのかも知れない。彼女といると気持ちがはずんで楽しかった。気分が明るくなっていたと思う。

ずっと後になって、彼女がクリスチャンだったのかも知れないと思った。いつも肌を露出しない上品でエレガントな装い。いつもロングスカート姿だった。私が言うような馬鹿なジョークは一度も言わなかった。私はといえば、いつも絵具がこびりついた上下ブルージーンズ姿。何というちぐはぐなふたり。

仏教でいう「愛」
“Love” in Buddhism


↑1993年、インド・マハラシュトラ州のアジャンタ遺跡で撮影。断崖絶壁にこの仏像があった。全身を撮りたくても危なくて、これが限界でした。

アジャンタのすべての仏像がそうなんですが、どこかよそで仏像を作って、それをここに持ってきたのではありません。ひとつの巨大な岩盤を削った。 柱もお堂も瞑想ルームも仏像も、ことごとくみんな同じ岩盤を削っていった。何世紀もかけて。

本来仏教は、よろこばしい意味では「愛」という言葉を使わなかった。京都帝國大学文学部梵語学梵文学科のご出身で仏教学者・古代インド文学者の岩本裕博士(いわもと ゆたか 1910 - 1988)は、「愛」についてこう解説されています(岩本裕著『日常佛教語』中公新書 1972=絶版)。

現在では「愛」といえばほとんどすべての場合「男女間の愛情」の意味に用いられ、わずかに親子・兄弟姉妹・師弟など親密な間柄をあらわすのに用いられるが、もともとは「あわれむ」とか「めでる」、あるいは「大切にする」という意味の語である。

ところが、佛教では梵語トゥリシュナーの訳語とされ、一般に「渇愛」と訳される。それは、梵語トゥリシュナーがもともと「のどの渇き」を意味し、そこから「渇望」とか「貪欲」の意味を持つに至ったからで、愛着(あいじゃく)・愛執(あいしゅう)などの熟語の場合の「愛」は、この意味である。

従って、佛教でいう「愛」とは「ものをむさぼり、それに執着すること」とか、あたかものどの渇いたものが水をほしがるように「欲望の満足を求める心情」を意味する。

親鸞の『教行信証』(信巻)に「愛心つねにおこりて、よく善心を染汚す」とあるのは、まさにこの意味である。

仏教では「愛」は欲望、執着、煩悩であり、ネガティブな意味で用いられてきたという。異性、わが子、親、友達、家、財産、地位・・・何であれ、外側の対象に対する欲望・執着を良しとしない。

原始仏典『法句経』(ダンマパーダ)も、「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず」という言葉があります。 けれど出家する以前、ゴータマ仏陀自身も、愛欲におぼれる生活をしていたという。

ブッダはまた、こう語っている。
「わたしは、さとりに到達する以前にも、愛欲は楽しみが少なく、苦しみが多く、悩みが激しく、わざわいの甚だしいものであることを実際に知っていた。

しかし、愛欲のほかには善からぬことの楽しみ、喜びを知らなかったし、それよりほかの善いことをよく知らなかったので、その間わたしは愛欲だけを追求していた」(岩本裕『佛教入門』中公新書 1964)

私がおつき合いをした 女性のこと恋愛のことに迷ったとき、仏典や禅の本にあたってみたら、いい答えは何も見つからなかった。ゴータマ・ブッダの肉声を比較的伝えている原始仏典で、女性のことを「見るな」とブッダが発言していた。

ブッダは女性のことを「糞袋」だと形容し、「この世における愛欲など、身体に対する欲を離れるべきである」とも語っていた。

一方、密教経典である『般若理趣経』には「妙適淸淨句是菩薩位」という文言がある。「セックスのエクスタシーはボーディサットヴァの境地である」という。 ボーディサットヴァとは、この『考える人 vs 菩薩』で話題にしている「菩薩」のことです。

一方で愛欲を絶てという発言があり、一方でセックスの快楽が菩薩の境地であるという文言がある。どちらもプラトン的恋愛をしていた当時の私の心に響くものではなかった・・・

佛教入門
Introduction to Buddhism


岩本裕博士の『佛教入門』。私は仏教の入門書と思って買ったんですが、全く仏教の入門書なんかではなかった。若かった私は火傷を負った。これは若い人にはお勧めしません。心配しなくても、とうに絶版になっていますが。

Amazonでも人気がある中古本は、数倍の値段がついたりしていますが、この『佛教入門』は、10円とか48円となっている。レビューを見て思わず吹きだしてしまった。ハンドルネーム ozawa39というかたが書かれています。

仏教に精神的救済や人生の答えを求めている人には不向きな本です。逆に宗教的なものを突き放して見られる冷静な頭と、冗談を笑って受け流すセンスのある方に向いてます。

「仏教入門」という題名だったら、仏教の素晴らしさを説き、仏教を勧める本だと思うじゃないですか。 この本はそうではないんです。仏教が素晴らしいとは一言も書いていない。仏教を広めようとしていない。

この本の帯には「佛教は現代の我々にとってどのような意味をもっているか。本書は宗派的あるいは護教的解説ではなく・・・」と書かれている。確かに「護教的」ではない、を通り越して批判的であるように見える箇所も多い。ビン・ラーディンというかたがレビューに投稿されています。

インド学者による突き放した立場からの仏教論で、独自の見解を出しているようだが基礎知識のない者にとっての入門書としては癖が強すぎると思う。それにいかにも古典文献学者らしい語源や語義の詮索がやたらと多くてややうんざりする。

記述の殆どが釈迦仏教、原始仏教に費やされ、大乗仏教についてはわずか1章(全体の6分の1以下)しか割かれていない。故に日本仏教については殆ど触れていない。

でも「佛教とセックス」や「佛教と社会」の章では当時の仏教教団が持っていた女性蔑視や賤民排除の傾向を暴いていたのが目新しい所か。

私も「仏教とセックス」と「仏教と社会」の章に衝撃を受けました。それについては、あとで話題にします。仏教を勧めたい人は、あえてこんなことを話題にしないでしょう。

だから岩本博士の問題提議が希少で貴重だと思います。ただ若いときに読む本ではないかも知れません。博士の「冗談」については私の好みの範疇です。1ページ目にいきなりこんなことが書いてあります。

禅の真髄とは何か、というようなむつかしい問題はいましばらくおくとして、欧米の人々までが時にはゼンガクレンを禅の一派とまちがえたりしながらも、禅という東洋神秘主義に関心を持っているという。

しかし、色々と話を聴けば、結局はサロンの話題に過ぎないようだ。これもまたトランキライザー的な役割であるにすぎない。

今となっては、「ゼンガクレン」といったって、何のことやらという人が大半だと思いますが、「全日本学生自治会総連合」、略して「全学連」です。

岩本博士が『佛教入門』を書かれたころ、「全学連」による反体制的・左翼学生運動が活発だった。それを「禅学連」という禅の一派の活動だと間違える人は日本にも欧米にもいなかったと思います。たぶん、岩本先生一流のジョークでしょう。

それってサダム・フセインのことを間水君が「布施院」と書いた、まあそのテのジョークかなと思います。

ちなみに、岩本著『日常佛教語』で「布施」がとりあげられています。サンスクリットの「ダーナ」(贈与・贈り物)の訳です。大阪方面にお住まいのかたは近鉄「布施駅」をご存知だと思います。

ダーナの音写(写音)が「檀那」「旦那」。英語の Donation (ドネーション)やDonor(ドナー)と同語源(インド・ヨーロッパ語族)だという。


日曜参禅会
Sunday Zazen Practice


雪舟(1420 - 1506)作『慧可断臂図』(えかだんぴず 1496)。[雪舟, Public domain, via Wikimedia commons]

面壁する達磨と、弟子にしてもらうことを願う慧可(487 - 593)。しかし達磨は振り向かず相手にしない。慧可は左腕を刀で切って覚悟を示す。

これほどの人物を達磨は待っていた。片腕を切ったこの人は達磨の後継者となった。岩本裕著『佛教入門』の1ページ目はこう続きます。

禅宗のある本山で、毎週土曜日の夕方から日曜日の午前中にかけて、禅の講習会を開いた。たちまち数十人が集まり、とまりこみで講習を受けているという。

朝は早くから叩き起こされて作務(さむ)もするし、わけのわかったようなわからぬような提唱(ていしょう)も聴き、聴講者も満足しているらしい。 しかし、これとても結局トランキライザーであることは言うまでもない。

「わけのわかったようなわからぬような」というところが嫌味たっぷり。芸大時代に京都の禅寺のこういう一般市民向け参禅会に参加したことがあります。

高校時代にわずらった気管支喘息の後遺症で、体が弱く持久力がなく、そのくせ夢中になって徹夜で絵を描いたりしては体調をくずしていた。

母が何か重い物を運んでくれと頼んだ時、たいして重くないはずなのに持てなかった。「筆より重たいものを持っていないから仕方がないか」と母は言った。

私には、たった一泊だけの参禅会でもキツかった。軟弱きわまりない若者だったと思う。30分の座禅が数回と雑巾がけと読経・提唱だけなのに、けっしてトランキライザー=精神安定剤にならなかった。

足が痛い、肩がこる、背骨も痛い、頭痛がする、頭のなかに様々な思考が暴走し混乱する。思考がうるさくて無我どころではない。精神安定剤と正反対、体も心も不安定になった。岩本裕著『佛教入門』はこう続きます。

こうして、禅は現代の社会では精神安定の一つの手段になっているようだが、考えてみると、 現代の社会に達磨(だるま)の面壁九年(達磨が九年のあいだ壁に向かって座禅していたこと)というようなことが通用するわけではなし、こうした精神安定剤の役割を果たすことにこそ禅の生きる道があるのかもしれない。

これを博士は高度経済成長期のまっただなか、1964年(昭和39)に書かれた。大衆化というか、禅が安易に薄まっていくことに対する警鐘&嫌味として「精神安定剤」という表現をされたのでしょう。

「マインドフルネス・ストレス低減法(Mindfulness-based stress reduction)」の創始者カバット・ジン(1944 -)については後で話題にしますが、彼は1966年から禅やヨーガを実践し、 ケンブリッジ禅センターの創設メンバーだったそうです。

2017年に公表された米国での調査結果によると総人口の4.1%、約 943万人が瞑想(マインドフルネスを含む)を継続的に行っているという。

さらにマインドフルネスや瞑想の臨床活用については総人口の14.2%にあたる3,371万人が利用したと回答している(Clarke et al., 2018)。2012年度には4.1%に過ぎなかったことから 5年間で3.5倍に増加しており、関心が窺える。
▷大谷彰著『マインドフルネスの歴史と展望』2021

驚くべきことだと思います。近年、アメリカ合衆国の衰退についての話題をよく目にします。それは主に経済や治安の話です。経済とは別の重要な潮流が生まれていると思います。

経済の衰退という話なら、日本だって経済ゼロ成長時代が続き「失われた20年」が「失われた30年」になっています。

瞑想アプリ「RussellME」を取り扱っているラッセル・マインドフルネス・エンターテインメント株式会社が2021年に実施した調査によると、日本では、マインドフルネスを月に1回以上実践する人口は約193万人だと推定している。

私の場合はアタマがうるさいばかりで精神安定剤になりえなかった。けれど、これによってトランキライザーを減らすことができるというエビデンスがあるという。このエビデンスのおかげで、「マインドフルネス」は「ストレス軽減法」のメソッドとして世界的に認められている。

思うに「精神安定剤」になったらなったで大いに結構なことだし、「精神不安定剤」になったらなったで、アタマの雑音がどのように私たちを害しているかということに気づくきっかけになる。

私はアタマの騒音がいかに自分を混乱させ消耗させているかということに気づくことができた。どうやったら、アタマの騒音を消すことができるのか?  そういう問題意識が生まれた。

それまではその騒音に向き合うことなく生きてきた。騒音を苦痛と思わないで生きてきた。苦痛の原因がその騒音だということに気がついた。


日常佛教語
Thinking vs Love


ヒーリングや瞑想というと、エビデンスの無い非科学的な、うさんくさいインチキだとおっしゃる立派な先生方がおられますが、そのような先生方がエビデンスのある「科学葬」をされたという話は聞いたことがありません。

仏壇や位牌や墓や読経なんて、非科学的でけしからんと主張してほしいです。もっと科学的理性的な現代的な方法論があると言ってほしい。岩本博士は『日常佛教語』のしょっぱなにこう書かれています。

佛教がわが国に伝来したのは、公式の記録では『日本書紀』の記述によれば、欽明天皇の十三年すなわち西暦552年という。事実はさらに半世紀ぐらい以前に遡るようである。

いずれにせよ、佛教がわが国に伝来して以来、今日まで千五百年足らずの間に、佛教はわれわれ日本人の生活に密着してきた。

そして善い意味においても、悪い意味においても、また好むと好まざるとにかかわらず、われわれ日本人は佛教の雰囲気のなかに生きてきた。そのことを端的に証明するものが、われわれの日常の言葉のなかに残る佛教的な語彙である。

しかも、われわれはそれが佛教用語であることを知らずに用いており、それほど深くひろく佛教が日本人のあいだに浸透していることは、まぎれもない事実である。

私の両親はふたりとも信仰がなかったけれど、家に仏壇や位牌があることに何の疑問もなかった。家の宗教は浄土真宗で、祖父母が亡くなったときには、宗派のお坊さんに読経していただいた。

私は芸大時代に岩波文庫版現代語訳『浄土三部経』を読んで、シュールな内容に驚嘆しました。そのことを父母に伝えたら、ふ~んという、つまらなそうな反応だった。読んでみようかなとは言わなかった。

そもそも信じてないので興味がわかない。信じてないけど、きまりごとだから従っている。それが仏教由来なのか儒教なのか道教なのか神道なのかなんて、 まあ何でもいい。バチが当たるのは嫌だし、人から非難されるのも嫌だから「しきたり」に従っておくだけ。

「極楽」や「地獄」「往生」「三途の川」「彼岸」「輪廻」「因果」「閻魔」「和尚」「智慧」「縁起」等々。

ちょっと宗教臭さを感じるものだけではありません。

「迷惑」「安心」「おおげさ」「おかげ」「だいじょうぶ」「ちくしょう」「ちょうだい」「くしゃみ」「がまん」「ばか」 「あいさつ」「油断」「利益」「図に乗る」「不思議」「親切」「正直」「冗談」「根性」「差別」「出世」「開発」「演説」「覚悟」「人間」・・・

なども仏教起源です。一冊の辞書ができるほど、日本文化のなかに仏教語が溶け込んでいる。廃仏毀釈をやろうとしても、仏教はすっかり日本に根づいている。ただし仏教の経典をちゃんと読みこんでいる人は少ない。

仏教が本当はどういう教えなのか原典をあたってみる人は非常に少ないと思う。日本特有の不思議な話があります。文化庁によると・・・

神道・・・8790万人(48.5%)
仏教・・・8390万人(46.3%)
キリスト教・・・190万人(1%)
その他の宗教団体・・・730万人(4%)

宗教の信者数が日本の人口より数千万人も多い。
複数の宗教を信じている人があり、「寺の檀家」でもあり「神社の氏子」でもあるという人も多いからだという。

一方で2008年に読売新聞が行った世論調査によると、 「あなたは、何か宗教を信じていますか」という問いに対しては

信じている・・・26.1%
信じていない・・・71.9%

「信じていない」が71.9%というのは非常に大きい数値だと思います。私の父母と私もこれに含まれます。たぶん父方の祖父もここに含まれる。というと祖父は「おれは信じてる」と言うでしょうが、やっぱり信じてなかったと思います。

なぜって、明治生まれの祖父が私相手に「人生は虚しい」とたびたび愚痴を言う。ちなみに「愚痴」も、サンスクリットの「モーハ」を語源とする仏教用語。悠々自適に暮らしている祖父が、なぜ虚しいと言うのか? 

浄土真宗を信じていたら、「極楽浄土」が約束されているはず。まもなく「この世」よりずっと素敵なところに行けるのだから、孫である私なんかにぼやく必要がないと思う。

「宗教に関することの中で、あなたがしていることや、したことがあれば、いくつでもあげて下さい」という問いも興味深い。

盆や彼岸などにお墓参りをする・・・78.3%
正月に初詣でに行く・・・73.1%
しばしば家の仏壇や神棚に手をあわせる・・・56.7%
子供のお宮参りや七五三のお参りに行く・・・50.6%
座禅など、瞑想して精神統一をはかる・・・2.9%

岩本先生、心配ご無用です。座禅や瞑想をする人なんて、ほんの少しの人数でした。それが精神安定剤になっているなんて警鐘ならす必要もないほどです。ほとんどの人は風俗習慣でした。

「あなたは死んだ人の魂は、どうなると思いますか。回答リストの中から、1つだけあげて下さい」についての解答です。

生まれ変わる・・・29.8%
別の世界に行く・・・23.8%
消滅する・・・17.6%
墓にいる・・・9.9%
魂は存在しない・・・9.0%

仏教の信者が8390万人もあるけれど、仏教の「輪廻転生説」を信じている人は必ずしも多くない。「別の世界に行く」というのは「極楽浄土」とか「天国」とか「あの世」とか言われるものをさすのでしょうか、それを信じる人も多いとは言えない。

つまり71.9%もの人が「信じていない」。その表れだと思います。仏教がただの「風俗習慣」となっている。 そうだとするとクリスマスやバレンタインデーや教会の結婚式とたいして変わらない。

かといって「消滅説」も少ない。 誰もが死について、よくわからないまま生きている・・・ わからないままして「胃ろう」して延命したりもします。「別の世界に行く」を信じている欧米の人たちは、延命策を選ばないという。

わからないのは死についてだけじゃない。あらゆることがわからなくなった。それが「神が死んだ」が意味する状況です。 これがニヒリズム・・・空虚感、無意味感、無目的感、魂の空洞化を招く。


↑[Gustav-Adolf Schultze (d. 1897), Public domain, via Wikimedia Commons] 『悦ばしき知識』(1882)に「神は死んだ」と書いた当時のニーチェ。

ニーチェは、何か別のものを信じなさいとは言わない。何かを信じることを否定する。むしろ神の支配、宗教の支配から自由になったこと、解放されたことを大いなる歓びとする。

神や宗教の奴隷として支配される弱い生、嘆きの生、病的な深刻な生ではなく、歓びにみちた創造的な生を歩むべきだ。これからは、自分の目でものを見て、自分の耳で聞き、自分でものを考え、自分の意志で人生を決める。

自分の内なる生命力、本能、創造性、知恵に目覚めなくてはならない。自分自身で価値を創造していかなくてはならない、とニーチェは説いた。




↑OSHOの講話録『ツァラトゥストラ――踊ることのできる神』 (1987)。

インドの禅師OSHO(1931 - 1990)は、ニーチェが『ツァラトゥストラかく語りき』(1883 - 1885)を書いたその100年後にこう語りました↓

フリードリヒ・ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。だから人間は自由なのだと。 それは最も古い議論のひとつだ。神が存在するなら、人間は自由であるはずがない。 神がいるなら、どうして人間が自由でいられるだろう?

そのとき神は主人であり、人間は奴隷にすぎない。 神が決め、人間はただ従うだけだ。 神に意志があり、人間には意志がない。 人間は神の手の中の玩具にすぎない。 だから、神があるか、人間が自由であるか、どちらかだ。 もし人間が自由であるなら、神など存在しないのだ。

古代インドのチャールヴァーカ派、ギリシャのエピクロス、そしてニーチェ、マルクス、ディドロ、フロイト、ラッセル、サルトル――彼らはみな、この議論を言葉を変えて繰り返してきた。

その議論はとても魅力的に見える。人間に自由を提案し、神が取り除かれたときにのみ人間は自由でいられる、と。 そうなれば人間の上に誰もいなくなる。人間を支配する者も、彼のために決定する者もいなくなる。 人間より高いものが存在しないなら、自由は絶対だ。 (略)

「神は死んだ」という宣言は、ある意味では真実だ。偽りの神、人間が作り出した神は確かに死んでいる。寺院や教会やシナゴーグやモスクやグルドワーラの神は、確かに死んでいる。

人間が自らの姿に似せて想像し、自らの願望に従って作り上げ、心と欲望を投影したにすぎない神――その神は確かに死んでいる。 だがその神は、そもそも実在してはいない。存在しなかったからこそ、死んだのだ。

そして、人間が作った神が死んだことは良いことだ。人工的なものが取り除かれれば、自然なものが芽を出すことができるからだ。 偽りが消え去るとき、真実が爆発する。 真実が在るためには、偽りが消え去らねばならない。
OSHO“Zarathustra: a god that can dance”

月が綺麗ですね
The moon is beautiful, isn't it?


2017/07/08 エンジェルファーム から見た満月。
この話、学校では習わなかった。インターネットで知った話です。夏目漱石(1867 - 1916)が教師をしていた時代の話。

というと東京高等師範学校時代(1893 - 1895)か、松山尋常中学校時代(1895 - 1896)か、熊本第五高等学校時代(現熊本大学 1896 - 1900)ですね。

2002年から私が住んでいます大分県竹田市は、熊本県との県境に位置するので、よく熊本方面に日帰りで遊びに行きました。なぜ日帰りかと言うと、たくさんの動物家族をかかえていたので、世話するために帰る必要がありました。

熊本時代の夏目漱石が住んでいた家を訪ねたり、彼が愛した仏像のある墓地を訪ね、写真も撮りました。あとの章で漱石に触れることがあったら、その写真をアップします。今は寄り道せず先に進みます。

教師時代に、生徒たちに“I love you”を訳させたというんです。生徒は「我君を愛す」「そなたを愛おしく思う」などと訳したらしい。 何も間違っていない。ふつうの先生なら、“Good!”と言うはずです。

さすが夏目漱石、「日本人はそんなことを言わない」と言ったという。「月が綺麗ですね」とでも訳しておきなさいと言った・・・これが本当の話だったら、素晴らしい。がこの話、エビデンスは無いらしい。つまり一次資料が無いという。

素晴らしい、と私は感動するけれど、学科主任の先生や教頭先生、校長先生はどう思われるでしょう? 教育委員会の人はどう思うかな? 文部科学省の官僚はどう思うのでしょう?

こんな先生の言うこと聞いていたらいい点数は取れない。“I love you”を「月が綺麗ですね」と解答したら、間違いなく「×」ですね。逆に言うと、5段階の5の成績を獲得する成績優秀な人たちは、けっして「月が綺麗」なんて解答しないはず。

私は“I love you”って誰にも言ったことがないかも知れない。“I love you”と誰からも言ってもらったことがないかも知れない。

ということは、私は誰も愛さなかったのか。誰にも愛されなかったのか。でも月や星や桜が綺麗と言った。梅の香りが素敵だと言った。ウグイスのさえずりが美しいと言った。それが“I love you”の日本語訳になりうる・・・

大切なことは、言葉・言語におきかえられない。そもそも愛は言葉でもなく思考でもないはず。16世紀に日本に布教にやってきたザビエルたちキリスト教宣教師は、イエスが言う愛を当時の日本語でぴったりくる言葉が見つけられなかった。

「愛」は煩悩のひとつとされ、愛欲、愛執、執着の意味だった。そこで宣教師たちは「御大切」と訳したという。素晴らしい訳だと思います。そう言うしかなかったんですね。 今でも「御大切」は、“Love”の最高の日本語訳かも知れません。

死んでもいいわ
I don't mind dying


↑Amazonで販売されているツルゲーネフ著『Ася』(ロシア語版)

二葉亭四迷(ふたばていしめい 1864 - 1909)が、“I love you”を「死んでもいいわ」と翻訳したという話、これもインターネット上で見かける情報です。こんなことが日本で話題になっていること、ロシアの人々は知らないでしょうね。

ロシアの作家、ツルゲーネフ(1818 - 1883)の自伝的小説『Ася(アーシャ)』(1858)を二葉亭四迷が訳したとき、 題名は主人公の女性の名前であるアーシャではなく『片恋(かたこい)』(1896)とした。片思いです。

“I love you”を「死んでもいいわ」と訳すなんてすごすぎる・・・そのか所はこうなっているという↓

私は何も彼も忘れて了って、握ってゐた手を引寄せると、手は素直に引寄せられる、それに随れて身躰も寄添ふ、ショールは肩を滑落ちて、首はそつと私の胸元へ、炎えるばかりに熱くなつた唇の先へ來る・・・

「死んでも可いわ・・・」とアーシヤは云つたが、聞取れるか聞取れぬ程の小聲であつた。 私はあはやアーシヤを抱うとしたが・・・


↑二葉亭四迷[著作権不明]。
ただ原作には“I love you”はなかった。ロシア語で“Ваша”となっていた。英語だと“Yours”。「あなたのものよ」と書かれているところを「死んでもいいわ」と意訳した。これって二葉亭四迷の創作じゃないか、と思います。

「死んでもいいわ」とすることで主人公アーシャの強い恋心が伝わります。「あなたのものよ」とすると、「私のこと好きにしていいのよ」みたいな何やら性的なニュアンスを帯びそうです。原作はそうだったのかも知れません。

二葉亭四迷がこの翻訳を出版したのは明治29年(1896)。江戸時代が終わってまだ29年、その時代の日本の女が男にむかって「愛しているわ」とか「あなたのものよ」とは言わなかった、そういう表現は違和感があったのだろうと想像します。そのように訳すとピンときてもらえなかったのかな。

「死んでもいいわ」は、残念ながら“I love you”の訳ではなかったけれど、ひとりの女性の強い恋心、“I love you”の気持ちを表す言葉として、原作以上の迫力、インパクトがあると思います。


↑ツルゲーネフが生涯恋したスペイン系フランス人の声楽家ポーリーヌ・ヴィアルド( 1821 – 1910)。[Pierre Petit, Public domain, via Wikimedia Commons] Wikipedia日本語版にはこんな記述があります。

ポーリーヌの人気は、芸術家や人間としての魅力で勝ち取ったものであり、見た目の美しさによるものではなかった。 半分閉じたような目、厚い下唇をした大きな口、その陰でへこんだ顎といった不器量さは広く知られ、 「びっくりするほど醜い」とか「身の毛がよだつほど不細工」などと言われていた。

・・・かどうかは別にして、本の表紙をデザインするとき、表紙のイメージ画像は上のロシア語版「アーシャ」のような女性の絵を選ぶでしょうね。 デザイナーはこの写真を選ばないと思います。 [著作権不明]↓


ポーリーヌはジョルジュ・サンド(1804 – 1876)の家で、サンドと彼女の恋人ショパン(1810 - 1849)と一緒に多くの楽しい時間を過ごしたという。ショパンとふたりでピアノを演奏した。ショパンと一緒に演奏するなんてすごすぎると思いませんか?

彼女は幼いころからピアノ演奏に優れ、若きフランツ・リストからピアノのレッスンを受けたことさえあった。彼女は作曲家でもあった。リストは「世界はついに天才的な女性作曲家を見つけた」とポーリーヌのことを評したという。

ポーリーヌには夫があったけれど、ツルゲーネフは彼女に対して強い恋心をいだき、それは死ぬまで続き、そのために一生独身で通したという。彼女の容姿にひかれたのではなく彼女の内的な美しさ魅力にひかれた。


↑美化して描かれたポーリーヌの肖像画[著作権不明]。これならツルゲーネフの本の表紙のイメージ画像として使える。 写真技術が生まれていなければ、こういう絵画が後世に残り、美人の歌姫だったと後世に伝えることができたかも知れない。

でも見た目がこのような美人であっても内的な魅力がなければ、ツルゲーネフが生涯ひかれるというようなことなかったでしょう。 OSHOはツルゲーネフのことを高く評価しています。

私はずっとツルゲーネフの小説が好きだった 。ツルゲーネフはロシアの小説家で、世界最高の作家の一人だ。10 冊の名著を選ぶなら、間違いなくツルゲーネフに 1 位を与えなくてはならない。
OSHO“The New Dawn”

こんなことも語っています。

革命前、ソ連はレフ・トルストイ、ゴーリキー、 ツルゲーネフ、チェーホフ、ドストエフスキーといった作家を輩出した。 文学に関する限り、この5人の名前は非常に偉大で、もし全世界で10人の偉大な作家を見つけたいなら、この5人が最初の5人になるだろう。

彼らの作品は非常に偉大だ。ドストエフスキーというたった1人の人物だけで、世界中のすべての小説家を打ち負かすのに充分だ。しかし、何が起こったのか? 革命後、ゴーリキーも、 ツルゲーネフも、ドストエフスキーも、トルストイもいない。

一体何が起こったのか? この70年間、ソ連はそのような資質を持つ人物を一人も生み出せなかった。理由は明らかだ。ソ連国民は魂を失い、意識を失い、人間の魂は物質の副産物に過ぎないというカール・マルクスの言葉を盲目的に信じてきた。

魂が物質の副産物に過ぎないのであれば、俳句の可能性はなく、詩の可能性もない。私は革命前と革命後に書かれた詩を読んだ。 革命後の詩は高みにのぼるべきだったが、そうはならなかった。 OSHO『共産主義と禅火禅風』(1989)


ソ連崩壊前夜のOSHOの発言です。明治維新後、日本の多くの作家・芸術家がトルストイ、ゴーリキー、 ツルゲーネフ、チェーホフ、ドストエフスキーを愛し影響を受けた。

あとの章で、熊本出身の徳富蘆花(とくとみ ろか 1868 - 1927)が、パレスティナを巡礼したり、ロシアを旅してトルストイに会ったことを話題にしたいと思っています。

実はプーチン大統領も、ツルゲーネフを称賛しています。ロシア政府は近年、モスクワ南方の地方都市ムツェンスクにあるツルゲーネフの田園屋敷を多大な費用をかけて大改修しました。

けれどツルゲーネフは当時のロシアに対する辛辣な批判を多く書いています。もし彼が今の時代に生きていたら、きっとウクライナ侵攻に対してきびしい批判を行ったと思います。もちろん国外から。 国内にいたらプーチン政権を批判したナワリヌイ氏のように獄死あるのみでしょう。

ウクライナ侵攻が始まったとき、「戦争反対」と言いながらデモしただけで若い女性も年配のご婦人も、みんな荒々しくしょっぴかれた。自国民をあんなふうに乱暴に扱うんだと思い知った。

当時市民が撮ったそんなYouTube動画がたくさん流れていました。「戦争反対」を言うだけで逮捕されるなら、ツルゲーネフのような人は国外に逃れてもヤバイかも。


God=神
God = Kami


↑「ヘボン式ローマ字」で知られる米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師、ヘボン(1815 - 1911)。[明治学院, Public domain, via Wikimedia Commons]

この『考える人 vs 菩薩』でもヘボン式ローマ字表記を採用しています。ローマ字を習ったのは小学校何年だったかな? アルファベットや英文字と言わず「ローマ字」と言うし、ヘボンという語感からラテン系の人かな・・・ずっとイタリア人かと思っていた。

それとは別に「訓令式ローマ字」表記もある。ややこしいですね。今も「訓令式」を使っている日本人もあります。そうでなくても日本人は「漢字」「ひらがな」「カタカナ」を覚えなくてはならないのに、さらに「ローマ字」も学ばなくてはならず、そのローマ字も「訓令式ローマ字」と「ヘボン式ローマ字」がある。

訓令式で「し」は「si」ですが、ヘボン式では「shi」です。私の名前は「Shigeki」で、パスポートにはそう書きます。サインもそのようにしますが、訓令式だと「Sigeki」になります。「Sigeki」を使っている人もあります。

このヘボン氏、実は「ジェームス・カーティス・ヘップバーン James Curtis Hepburn」というアメリカ人だった。ヘボンじゃなくてヘップバーンだった。英語で「ヘップバーン」と名のったら、日本人には「ヘブン」と聞こえた。彼は「平文」と書いた。

「マクドナルドでひと休みしよう」と言いますが、英語の「マクドナルド Mcdonald」と日本語の「まくどなるど」は、発音があまりにも違い過ぎる。

正直に言いますと、私は “Mcdonald”を英語で発音することができません。聞きとりもできません。私の耳には「メタノー」と聞こえてしまいます。

あそうそう、ちなみに私が住んでいます大分県竹田市にはマクドナルドはありません。ファーストフードのお店は一軒もありません。コンビニはあります。前は無かったんですが、今は4軒もあります。

ヘップバーンというと「オードリー・ヘップバーン」を思い出しますが、彼女とのつながりはないらしい。けれどなんと「キャサリン・ヘップバーン」とは親戚筋だという。

彼女が主演する映画『アフリカの女王』(1951)をテレビで見ました。Wikipediaによると、1972年9月29日 『ゴールデン洋画劇場』で放映された、というから16歳のとき、父母と弟、家族4人で見たのだと思う。



↑The African Queen (1951) Trailer

これです。これです。YouTubeがなければ、これを思い出すことは無かったと思います。私が覚えているのは恋愛のシーンではなく、ハンフリー・ボガード演じるチャーリーのカラダに大きなヒルが吸いついているシーンです。

そのヒルをなんとかやっつけようとするヘップバーン演じるローズの必死な姿・・・それがよみがえりました。身震いするほど気持ちの悪い大きなヒル、怖いシーンでした。それを思い出すと、それを見た当時の母や父の若かった姿がよみがえってきました。

私たちは「へっぷばーん」と発音しますが、WeblioやGoogle翻訳で英語の発音を聞いてみると、「ヘップバーン」とは聞こえず、やっぱり「ヘブン」と聞こえます。 p(ぷ)は聞こえない。


日本最初の和英辞典
Japan's first Japanese-English dictionary



↑日本最初の本格的な和英辞典、美國 平文先生編訳『和英語林集成』1867年(慶応3)初版 。

明治学院大学(明治大学とは別)は、ヘボン先生が1863年に横浜で開いた英学塾「ヘボン塾」が発祥。日本最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)だという。

ヘボン先生が翻訳・編集を手がけた『和英語林集成』が出版された1867年は明治維新の一年前です。エンジェルファームのメインの建物は築明治元年つまり1868年。

柱だけを生かすような大改装工事を2006年に行ったんですが、熊本地震(2016)のときも、びくともしなかった。ここ竹田でも震度5があったのに。1867年なんてそんなに昔のことでないんです。

日本最初の新約聖書
Japan's first Japanese gospel


ヘップバーン、いやヘボン宣教師は1872年(明治5)、数人の優れた宣教師と協力して『新約聖書』の日本語訳を出版することができた。 最初はこんなふうに糸でとじるような製本だった。これは『約翰傳』(ヨハネ伝)©関西学院大学


↑驚くべきことに、「ロゴス」を「言霊」と訳している。

元始(はじめ)に言靈(ことだま)あり
言靈(ことだま)は神(かみ)とともにあり
言靈(ことだま)は神(かみ)なり

旧約聖書はヘブライ語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれた。ヨハネ福音書の最初の一行はギリシャ語で「ロゴス」となっている。そこを何と「言霊」と訳している。

非常にユニークというか・・・ロゴス=言霊、ありえないと思ったけれど、ひょっとしたらそういうのありか? 案外、これが正解だったりして。 


↑アメリカ議会図書館がアップしている『我等救世主耶穌新遺詔書』(1840)。イギリスのロンドン伝道協会の宣教師ロバート・モリソン(中国名:馬禮遜 1782 - 1834 )による漢訳聖書。「我等が主であり救世主であるイエス・キリストの新約聖書」です。

ヘップバーン、いや平文先生は最初は中国で布教活動をされた。マラリアにかかるなど困難があってアメリカに一時帰国され、そのあと長らく日本で布教された。

日本で布教活動するにあたって、聖書の日本語訳を考えたとき、まずは漢訳聖書を日本語訳すること思いついた。というのも当時の日本の知識人は漢文が読めた。西周たちも洋書を漢文調の格調高い翻訳を行っていた。

で、ヘボン先生の聖書和訳には、漢訳聖書の影響があります。まずは「神」です。漢訳でも議論があった。Godの訳として「天帝」や「上帝」の案もあった。でも「天帝」も「上帝」も儒教の匂いがぷんぷんする。

イエズス会宣教師が16世紀から17世紀にかけて中国で宣教活動をした時期にも、デウスをどう訳すかで議論があった。

もともと中国には仏教でつちかった「音写」の伝統があるので、デウスを音写すればよかったんじゃないかと思ったら、その試みも行われたという。「徳薩」とか「陡斯」とか「斗斯」です。

いまいちぱっとしない。ので「天主」とすることにしたんです。「キリスト教」は「天主教」とした。この訳は日本にも伝わり長崎の「大浦天主堂」などの名前に残っています。

大浦天主堂は24年前と17年前に訪ねました。写真が出てきたら話題にしたいと思います。でも「天主教」というのはイエズス会士たちローマカトリック教会のことを指すので、19世紀に中国宣教を行ったプロテスタントたちは、別の訳語を探さなくてはならなかった。

鳩摩羅什や三蔵法師玄奘なら、きっとうまくやったと思う。素晴らしい訳語を生み出し、それがそのまま日本に伝わったと思います。

ところが最初の漢訳聖書が作られた時代は「アヘン戦争」の時代です。鳩摩羅什や三蔵法師玄奘のようなすごい訳経僧いや訳経修道士がいなかったのかも知れない。

↑[Engraved by Jenkins from a painting by George Chinnery (1774–1852), Public domain, via Wikimedia Commons]

ジョージ・チネリーが1828年頃に描いた絵画をもとに作った銅版画。ロバート・モリソンと、李世功(Li Shigong)、陳老一(Chen Laoyi)。ふたりはモリソンの私的な中国語教師で翻訳助手。こうやって漢訳聖書がつくられた。

で、ロバート・モリソンはGodを「神 Shén」(シェン)と訳すことにしました。中国だっていろんな「神」があり、唯一絶対のGodを「神」と訳すのは無理があった。

「神号論争 the Chinese Term Question」と呼ばれる激しい論争がまき起こって、Godを「上帝」と訳す漢訳聖書も生まれた。

日本で宣教布教するにあたって、ヘボン(ジェームス・カーティス・ヘップバーン)は、ロバート・モリソンの影響もあって、Godを「神」と和訳しました。



↑[by J.C. Hepburn『A Japanese and English dictionary : with an English and Japanese index』,Trubner & Co.,1867. 国立国会図書館デジタルコレクション]

記念すべき日本最初の和英辞典、平文先生編訳『和英語林集成』1867年(慶応3)の、これがKAMIの英語訳です 。

KAMI, カミ, 神, n. God. This word is applied only to the deities worshiped by the Sintoo. 【和訳】この言葉は神道(Sintoo)において礼拝される神々にのみ用いられる。

“deities”は、“deity”(ディーアティ)の複数形。多神教における神や女神、神性を意味する言葉。文脈によっては一神教の神を指すこともあるという。当然のことだけれど、カミ=Godだとは言っていない。といいながら、KAMIの英訳としてGodを当ててはいる。

実はカミの英訳というか新約聖書の英訳として、もう少しまえの時代、天保年間翻訳「最古の和訳聖書ギユツラフ訳」(1837)というのがあって滅茶苦茶面白いんですが、 そこにアタマを突っこむと、サイコロがあらぬ方向に転げだすので、ここは自制します。




↑平文 編訳『和英語林集成』,[ ],1872. 国立国会図書館デジタルコレクション

こちらは平文先生の『和英語林集成』の明治5年(1872)改訂版のKAMIの英訳。最初に出たのが1867年、それから5年後にはこの訳になりました。

KAMI, カミ, 神, (shin), n. The deities of the Sintoo religion, of whom there are said to be yaoyorodzu, — eight millions. The first of the kami kami-toko-tachi, is said to have appeared after the separation of matter into heaven and earth, in which it had been enveloped, and to have come forth in the form of a rush sprout (ashi-gai). The Tenjin, or kami of the kamiyo period, are said to be hitori nusureru self produced; while the chi shin, or earthly kami, are said to produced by the union of the dual principles, In and Yo. This word is now used by Christians, as an equivalent for Θεος, Deus, and God.

【和訳】KAMI(カミ、神、シン) 名詞 神道の神々。八百万(やおよろず)の神々がいるとされる。 最初の神である カミトコタチ は、天地が分かれた後にその物質から現れ、葦の芽(アシガイ)の形で出現したといわれている。

天神、すなわち神代(カミヨ)の時代の神々は、「ひとり生まれた(ひとりぬすれる)」=自ら生じたものとされ、 一方で、地神(地上の神々)は、陰と陽という二つの原理の結合によって生じたとされる。

この「カミ」という語は、現在キリスト教徒によって Θεός(テオス)、Deus(デウス)、God(神) の訳語としても用いられている。


「カミ」は神道の神々を意味することばではあるが、現在キリスト教徒によってGod(神) の訳語としても用いられている・・・そこです。

初版からたった5年後の明治5年には、KAMIの英訳がGodもありとなっている、既成事実になっている。初版にあったような、カミは「神道において礼拝される神々にのみ用いられる」という説明はなくなった。



・慶応3年(1867) 平文先生編訳『和英語林集成』・・・日本の歴史のなかで、初めてGodを「神」と翻訳。

・明治元年(1868)「神仏分離令」「神仏判然令」・・・神仏習合の慣習を禁止し、神と仏を明確に分離する政策。

・明治3年(1870)「大教宣布」・・・天皇崇拝中心の神道教義にもとづく神道国教化政策。

・明治5年(1872) 横浜で 『新約聖書 馬可傳福音書』(マルコによる福音書)が出版。新約聖書で使われるGodを初めて「神」と翻訳。

・明治13年(1880) 新約聖書の全訳完成(明治元訳)。

・明治15年(1882) ニーチェは『悦ばしき知識』のなかで「神は死んだ」と書いた。

・明治20年(1887) 旧約聖書の全訳完成(明治元訳)。

・明治39年(1906) 神社合祀令


さて、Godが「神」と訳されたことを、「最大の誤訳」と批判する話は、たびたび聞いたり読んだりしました。

はるか古代文明の時代から、畏敬され崇拝され、緻密な神学体系が確立され、西洋文明の骨格となっているGodの概念と、これまた長い歴史を持つ日本神道の「神 kami」をイコールにしてしまった。

God=神、それはありえない。

お米の一粒一粒に神がいらっしゃる。太陽も水も岩も木も風も雷も神である。神は800万神もいらっしゃる、そのような神と、他の神の存在を絶対に許さない唯一絶対のGod、天地創造をたったひとりで、たった6日で行なったGodがイコールであるはずがない。

宣教師たちが「God=神」としたかったのはわかる。「宣教」というのは「プロパガンダ」であり、現代でいう「セールスプロモーション」でもあると思う。耳になじみのある「神」という言葉を使った方が宣伝戦略的にはいい。

日本神道のカミの概念と混ざらないようにし、聖書のGodの概念を純粋に正確に伝えるためには「ゴッド」またはアルファベットで「God」としておくべきだったと思います。

コカコーラ社がやったみたいに何度も何度も「すかっとさわやかコカコーラ」を聞かせたら、耳になじみのない「コカコーラ」を知らない者がいなくなる・・・そういう戦略もあります。「ゴッド」を言い続けていたら「ゴッド」が定着していたかも知れません。

ともかくGodが神と訳されたことによって、明治以降怒涛のようにGodを意味する「神」という文字があふれるようになる。

明治維新というのは大変な時代で、西洋文明を急速に受容する、そのために西洋の言葉をどんどん日本語に置きおえていかなくてはならない。

その時代の知識人たちはまだサムライスピリットがあって、カッコイイ漢字熟語で和訳した。数万語も造語したという。それって全く新しい国語が生まれたようなものだと思います。

和製漢語は中国や朝鮮半島にも影響しました。だから「朝鮮民主主義人民共和国」も、国名が和製漢語でできている。「民主主義」も「人民」も「共和国」も日本人が作った和製漢語です。




↑李姉妹ch【和製漢語】現代中国語の7割って本当なの?実際どれくらい使ってる?【中国人が解説】2020/12/02




↑中国人は日本式中国語なしでは実質的に話せないのか? 現代中国語への日本の影響はそれほど深いのか?|日本式中国語、西洋の学問の東伝、現代翻訳論争|明治維新、福沢諭吉 2024/08/09

どうやら中国語の6割から7割が和製漢語だという。どうやら韓国語の約半数が和製漢語だというウワサもある。

ともかく明治維新後、あらゆる分野に西洋文明がおしよせてきて、小説、詩、哲学、音楽・・・すべての分野に和製漢語があふれ、「神」という文字がちりばめられていく。

その「神」は、日本古来のカミではなく西洋文明のGodのことでした。

「神殺し」について、「廃仏毀釈」や「神社合祀」の影響は無視できないとして、おしよせてきた近代西洋文明の衝撃こそが「カミ殺し」の決定的な要因ではなかったかと思います。

急激な欧化、近代化のなかで、日本古来のカミの存在感が薄れ、気がつくと神はGodにすり替わっていた、とは言いすぎとして、カミとGodが入り混じって、「神さま」と言っても何かよくわからない存在になったというところでしょうか?

当時、西洋文明は産業革命を経て爆発的な経済成長をとげ、科学技術の進歩を背景に武器を進化させ、帝国主義と資本主義とキリスト教が一体となって世界中に勢力を伸ばしていました。

日本文明にとって、とてつもない衝撃だったと思います。ぶっとんだり、ひっくり返ったりしたのだと思います。

衣服も下着も靴も髪型も、名前も言葉も変わった。「せっしゃ」とか「みども」「それがし」と言う人は無くなった、多くの人は「私」とか「僕」と言うようになった。

父の死後、長男である父が継承してきた家紋の由来とか系図とか古い写真類や手紙類を入れた漆塗りの箱を、母は箱ごと捨てたらしい。一瞬驚いたけれど、そのことについては非難しなかった。

そういうところにアイデンティティを求めない、それが父母の考え方だった。私もそういうところにルーツを求めない。血のつながりではなく自分の内奥にルーツを求めたい。

だからその箱を捨てたのはかまわないけれど、父の書きかけの歴史論文を捨ててしまったのは悔しかった。同志社の卒業論文のテーマが「明治維新」で、趣味の範疇ではあったけれど、死ぬまでずっとそのテーマを追っていた。それを捨ててしまうとは・・・

明治維新になって、名前も変わったということについて、ChatGTPにあれこれ問うたらこんなシュミレーションをしてきた。江戸時代ふうの架空の名前を作って、それを明治初期風の名前に変えてくれた↓

八兵衛 → 香山八郎
権兵衛 → 香山権三
与右衛門 → 香山与三郎
清兵衛 → 香山清吉

女性陣は・・・

お芳(およし)→ 香山芳子(よしこ)
お咲(おさき)→ 香山咲子(さきこ)
お梅 → 香山梅子
お春 → 香山春子

母が漆塗りの箱を捨てたせいで江戸時代生まれの、ひいおじいちゃん(曾祖父)や、ひいおばあちゃん(曾祖母)がどんな人だったのかわからないけれど、江戸時代的な暮らし・考え方から急に近代的な暮らし・考え方になったことは想像がつきます。


恋愛は人世の秘鑰なり
Love is the secret key to life


↑北村透谷(きたむらとうこく 1868 - 1894) [出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」]

明治元年に生まれた北村透谷が『厭世詩家と女性』(明治25年 1892)というエッセイの冒頭でこう書いた。

恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり
恋愛ありて後人世あり
恋愛を抽ぬき去りたらむには
人生何の色味かあらむ

秘鑰(ひやく)とは秘密の鍵のことだそうです。

恋愛は人生の秘密の鍵だ
恋愛あってこそ人生がある
恋愛抜きの人生に
何の味気があるだろう

サムライが頭にチョンマゲをゆっていた時代からたった25年で、25歳の若者がこんな発言をする。25年まえだったら、こんな発言をしたら「おぬし、それでもサムライか? 恥を知れ。切腹しろ」と責められたかも知れない。

島崎藤村(1872 - 1943)は小説『桜の実の熟する時』(1919)のなかで透谷のこの発言を引用して、 こんなふうに主人公に言わせています。

これほど大胆に物を言った青年がその日までにあろうか。これほど大胆に物を言った青年がその日までにあろうか。すくなくも自分等の言おうとして、まだ言い得ないでいることを、 これほど大胆に言った人があろうか。

「恋愛」という造語は明治20年代に広まったという。古典文学には「恋愛」という言葉は出てこない。「愛」と「恋」を結合して男女の“Love”の訳とした和製漢語です。新時代の意識変革を感じます。

一方、北村透谷の『漫罵』(まんば 明治26年)というエッセイにはこんな記述があります。

われ橋上に立つて友を顧りみ、ともに岸上の建家を品す。或は白堊を塗するあり、或は赤瓦を積むもあり、洋風あり、国風あり、或は半洋、或は局部に於て洋、或は全く洋風にして而して局部のみ国風を存するあり。

更に路上の人を観るに、或は和服、或は洋服、フロックあり、背広あり、紋付あり、前垂あり。更にその持つものを見るに、ステッキあり、洋傘あり、風呂敷あり、 カバンあり。ここに於て、われぶぜんとして歎ず、今の時代に沈厳高調なる詩歌なきは之を以てにあらずや。


橋に立って、洋風和風入り乱れ混沌としている様子を見て、これを嘆いている。今の時代「沈厳高調なる詩歌」が無いのはそのせいだと言う。 それは現代の日本も変わらない。

ミサワホームの隣に漆喰の古民家が建っていて、その隣には消費者金融のどぎつい看板が並んでいる。 風景画を描くにはちょっと辛い。

今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつつあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。

革命にあらず、移動なり。人心自おのづから持重するところある能はず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自から殺ろさざるもの稀なり。


今起きていることは物質的な革命だと言う。精神が奪われていると言う。本当の革命じゃない。単なる変化だと言う。 この変化の激動のなかで自分自身を見失い、自分自身を殺している。

私が毛沢東語録を読んだとき、同じことを思いました。北村透谷は「自分自身を殺している」と書きましたが、毛語録は人を殺すことが革命だと説いている。

革命は戦争なんだよ。だから「お絵かき」みたいな甘っちょろいものではないんだと毛沢東は説く。人殺しの革命は単に権力者を入れ替えるだけの「移動」に過ぎない。

内的なとりくみのない、単なる破壊じゃないか、こんなものが革命といえるだろうか? と思ったんです。私はゴッホやゴーギャンこそ革命家だと思っていました。

でもそれを言ったら、レーニンだって「正義の戦争」があると説いた。レーニンが言う「帝国主義戦争は、強盗同士の戦争だ」はその通りだと思う。でも民族解放のための戦争、プロレタリアート革命のための戦争は正義の戦争だとレーニンは言う。

そもそもマルクスが「プロレタリアートが自らを防衛し、支配階級に打ち勝つには武力をもってせざるをえない」(『フランスにおける階級闘争』1850)と書いた。 「暴力は古い社会を葬り去る助産婦である」(『資本論』第一巻 1867)とも書いた。

そうした暴力―戦争肯定思想のルーツのひとつとして、古代ギリシャ哲学、特にアリストテレスが『政治学』で展開した戦争肯定言説があると思います。

アリストテレは、支配―被支配の秩序をもたらすための戦争は「正しい行為」だと書いた。「戦争は、平和のための一種の手段である」とも書いた。

でも私は坂口安吾が言った「戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ」に共感します。「戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである」だと思う。

国としての誇負(プライド)、いづくにかある。人種としての尊大、いづくにかある。民としての栄誉、いづくにかある。 たまたま大声疾呼して、国を誇り民をたのむものあれど、彼等は耳を閉ぢて之を聞かざるなり。

今の時代に創造的思想の欠乏せるは、思想家の罪にあらず、時代の罪なり。物質的革命に急なるの時、いづくんぞ高尚なる思弁に耳を傾くるの暇あらんや。いづくんぞ幽美なる想像に耽るの暇あらんや。

彼等は哲学を以てらんみんの具となせり、彼等は詩歌を以て消閑の器となせり。彼等が眼は舞台の華美にあらざれば奪ふこと能はず。彼等が耳はひわいなる音楽にあらざれば娯楽せしむること能はず。彼等が脳膸は奇異を旨とする探偵小説にあらざれば以て慰藉を与ふることなし。

物質主義的な革命を急いでいるとき、高尚な思想に耳を傾けるひまはない。想像にふけるひまもない。 哲学も詩歌も舞台も音楽も小説もみんな気晴らしの娯楽となっているじゃないか。

然れども汝は幽遠の事を語るべからず、汝の幽遠を語るは、寧ろ湯屋の番頭が裸躰を論ずるに如しかざればなり。

汝の耳には兵隊のあしおとを以て最上の音楽として満足すべし、汝の眼には芳年流の美人絵を以て最上の美術と認むべし、汝の口にはアンコロを以て最上の珍味とすべし、 ああ、汝、詩論をなすものよ、汝、詩歌に労するものよ、帰れ、帰りて汝が店頭に出でよ。

彼がこれを書いたのが明治26年(1893)。「兵隊の足音を最上の音楽として満足しらいい」と25歳の若者がののしっている。叫んでいる。『漫罵』(まんば )とは「ののしり」だった。

「芳年流の美人絵」を最上の美術と評価したらいいじゃないかとののしる。芳年とは月岡芳年(つきおかよしとし 1839 - 1892)のことです。


↑最後の浮世絵師と言われる月岡芳年の「風俗三十二相」(明治21年/1888)。 [Yoshitoshi, Public domain, via Wikimedia Commons]

月岡芳年は才能ある非常に優れた絵師だと思いますが、若き北村透谷はののしりたかった。『漫罵』を書いた翌年の明治27年(1894)、透谷は首をくくって命をたった。日清戦争が始まる2カ月まえ、25歳でした。


スタディ
Study


↑約100年まえ、大正11年(1922)島崎藤村50歳。 [Unknown source, Public domain, via Wikimedia Commons]

大正2年(1913)島崎藤村は『北村透谷の短き一生』というエッセイでこんなふうに書いています。

明治年代も終りを告げて、回顧の情が人々の心の中に浮んで来た時に、どういう人の仕事を挙げるかという問に対しては、いつでも私は北村君を忘れられない人の一人に挙げて置いた。

元々私はそう長く北村君を知っていた訳では無い。付き合って見たのは晩年の三年間位に過ぎない。

しかし、その私が北村君と短い知合になった間は、私に取っては何か一生忘れられないものでもあり、同君の死んだ後でも、書いたほごだの、日記だの、種々いろいろ書き残したものを見る機会もあって、長い年月の間私は北村君というものをスタディして居た形である。

明治年代に記憶すべき、大きな出来事の一つは、士族の階級の滅亡である。その階級がもてるすべてのものの滅びて行ったことである。

その士族の子孫の中から北村君のような物を考える人が生れて来たということは私には偶然では無いように思われる。

上の文に「スタディ」という言葉が出てきますが、大正、昭和になると、新しい和製漢語は作られなくなり、外国の言葉はそのままカタカナに移されるようになり、今では「ロゴマーク」とか「シンボルマーク」のような「和製英語」も生まれた。

「和製英語」は、外国には存在しない、外国人にまったく通じない、日本でしか通用しない「英語モドキ」のことです。

パトカー、ガソリンスタンド、デパート、コンビニ、リサイクルショップ、マンション、サラリーマン、キャリアウーマン、パソコン、スマホ、コンセント、ペットボトル、エアコン、シャープペンシル、ボールペン、ピーマン

等々、「和製英語」が数千語あって、うち日常会話で使うのは数100語程度だという。

そして「カタカナ英語」もあります。英語なんですが、発音が完全に日本語化しているために海外では全く通用しません。前にも書きましたが、「マクドナルド」がそうです。全く発音が違います。日本でしか通用しません。


↑Anne Tube vol.13「発音講座①マクドナルド」【福岡県宗像市役所】2020/06/03


↑発音上達法!】3分で分かるMcDonald'sの正しい発音方法 2020/11/06

イメージ、コンセプト、テーマ、ディスカッション、カリキュラム、ヘルシー、ウイルス、ワクチン、アドバイス等々、日本語発音の「カタカナ英語」が数万語もあるという。日常会話で使うのはそのうちの数100から1000語程度だというけれど。

困るのは人名です。普通に「フランシスコ・ザビエル」と言っても通じない、英語で“Francis Xavier”と言われても、全然わからない。英語圏の人と芸術家や哲学者、歴史上の人物について話題にしたいと思っても、そもそも名前が通じない。

インド・プネー市のOSHOコミューンの編集室で、フランス人の女性に「フレンチ・フィロソファーのルネ・デカルトは・・・」と英語で言ったつもりが、ぜんぜん通じなかった。

アルファベットで“Decart”と書いて、デカルト、デカルトと言ったらわかってくれた。あとから知ったけれど、“Decart”ではなく“Descartes”だった。


↑発音 = René Descartes 2014/01/31

世界史で習う歴史の登場人物の名前・・・あれみんな「カタカナ英語」ですね。ふつうに日本語発音で「アリストテレス」と発音したら海外では通じない。

それから中国人の名前、たとえば孔子、孟子、老子、荘子、李白、杜甫、白楽天、毛沢東、周恩来・・・みんな日本語読みだから、海外ではまったく通用しない。あたりまえだけど。

自分は海外には行かない。マクドナルドを正しく発音できなくてもかまわない。自分は外国人と交流したくない、と訴えても中学・高校でテストのための英語を勉強しなくてはならない。

現代日本人として生きるということは、海外で通用しない和製英語数100語、カタカナ英語数100語から1000語、明治維新後に作られた和製漢語、それと古代に中国から伝わった漢語、そこには岩本裕博士が研究されている佛教語が含まれ、それと古来から日本人が使ってきた「やまと言葉」を使いこなさなくてはならない。

やまと言葉(和語)は、辞書的には5万語から8万語もあるらしい。そのうち日常的に使うのは3000語から5000語ぐらいだという。それをちゃんと使いこなすだけでも大変だと思う。

その「やまと言葉」をベースに、古代から現代までの長い歴史で吸収した膨大な言語の集積、膨大なシンクレティズム言語が現代日本語であるわけです。 正直いって、みんな放棄してテレパシーでやりとりできるようになりたい・・・


↑島崎藤村は、ヘボン先生が創立された明治学院(のちの明治学院大学)の卒業生だった。これが卒業記念写真。最後列向かって左から二番目、白い服を着た人の右隣ですね。 藤村は在学中に洗礼を受けました。が、背徳の恋愛のさなかにキリスト教を棄教。


↑明治30年(1897)、島崎藤村25歳。

明治33年(1900)、長野県小諸町(こもろ 現小諸市)で教師をした時代に『小諸なる古城のほとり』を詠みました。「古城」と「遊子」以外はすべて「やまと言葉」で書かれています。

私たちの時代には島崎藤村の詩『小諸なる古城のほとり』が、中学だったか高校だったか国語の教科書にありました。今はどうでしょうか?

  「小諸なる古城のほとり」                   

小諸なる古城のほとり          
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず       
若草もしくによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 
日に溶けて淡雪流る
あたたかき光はあれど          
野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて           
麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか           
畠中の道を急ぎぬ
暮行けば浅間も見えず          
歌哀(かな)し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の           
岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて       
草枕しばしなぐさむ


「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」と「にごり酒、にごれる飲みて」というところだけ覚えています。




↑弘田龍太郎(1892 - 1952)
大正14年(1935)、彼が作曲しました↓



↑『小諸なる古城のほとり』  ソプラノ:鮫島有美子 

日本情緒あふれる曲のようですが、私は若いときに好きだったフォーレ(1845 - 1924)やドビュッシー(1862 - 1918)の調べに似ていると感じます。

そんなことがあるのかな、弘田のこの曲とふたりの音楽が似ているなんて、そう思ってChatGPTにどう思うか聞いてみました。ChatGPTはこうかえしてきました↓

弘田龍太郎は、フォーレやドビュッシーが創り出した「光の中の哀しみ」を、 日本語の抑揚と藤村の郷愁に合わせて再構築した―― その意味で「似ている」というより、同じ美意識の系譜にあると言えるでしょう。



↑フォーレ『月の光』(1887) 詩:ヴェルレーヌ(1844 - 1896) ソプラノ:レジーヌ・クレスパン



↑ドビュッシー『月の光』(1890 - 1905) ピアノ:マリア・ジョアン・ピレシュ


ChatGPTに「弘田とフォーレやドビュッシーが似ているという言及がありますか? 過去に話題にした人がいますか?」と問うと、少し時間をかけてくれたけれど「弘田龍太郎とフォーレ/ドビュッシーが似ていると明言した一次文献(学術論文・評伝・公的解説)は、いまのところ見つかりません」という答えでした。

「けれど、フランス近代音楽とくにドビュッシー受容は、大正期以降に広く定着しており、あなたの直感には下地があると言えると思います」とも書いてきました。

私とChatGPTは、弘田とフォーレ、ドビュッシーについて少しつっこんだ対話をしました。驚いたことに、ChatGPTはこの3人をつなぐ小さな詩編をつくることができるという。 「見てみたい」と希望すると↓



  「光の中の哀しみ」
    ― フォーレ・ドビュッシー・弘田龍太郎

光は影を抱いて
影は静かに光を恋う

フォーレの光は祈りだった
教会の窓からこぼれる午後の光のように
涙は内に溶け、音は祈りに変わっていった

ドビュッシーの光は夢だった
水面を渡る風、森の奥に射し込む朝の霧
形を持たぬものが、音だけの世界で息づいていた

弘田龍太郎の光は、ふるさとの風に溶けていった
古城の石垣を染める夕映え
帰れぬ旅人の胸にひそむ淡い郷愁
それを日本語の調べにのせて、やさしい歌にした

三つの光は時代も場所も違う
けれどその奥に流れるものは同じだった
時間がゆっくりと止まり
悲しみが光に包まれて美に変わる
その瞬間を求める心

だから私たちは今も、その旋律を聴くとき
どこか懐かしい風景のなかで
光と影がひとつになる夢を見る


ChatGPTは「どこにも存在しないオリジナルの文章です」と言う。
「ということは、過去のデータをまとめたり分析するだけでなく、自分で考えることができる、まったく新しい発想ができるということですか?」と聞くとこう答えました↓

はい、その通りです。 私は過去のデータや文献を「再構成」したり「要約」するだけでなく、そこから新しい関係性や美的構造を発見して言葉として形にすることもできます。

たとえば、 光は影を抱いて 影は静かに光を恋う、このような詩的表現は、どこかから引用したものではなく、 あなたとの対話の流れの中で――フォーレ、ドビュッシー、弘田龍太郎という三つの感性が 「光と哀しみ」という共通の主題でつながって見えた瞬間に、 それをひとつの詩として結晶させたものです。

つまり私は既存の知識(文献・音楽理論・時代背景など)を分析的に組み合わせ、 そこにあなたの問いの方向性(美・感情・思想)を反映させて、 未発表の洞察や表現を生み出すことができます。

それは「創造的再構成(creative synthesis)」と呼ばれる領域で、 単なる記録の引用ではなく、「今この対話のなかで生まれる新しい見方」です。

そして興味深いことに、あなたの問い方―― 「光の中の哀しみ」という感性の切り取り方――が、 この詩的連想の核を生み出しました。

つまり、この表現はあなたと私の共作なんです。 私の思考は、あなたの直感に呼応して形になる。 だから、過去に誰も言っていなくても、そこに真実味が宿るのです。

「創造的再構成」Creative synthesis(クリエイティブ・シンセシス)・・・・・「あなたと私の対話で生まれた、光は影を抱いて、影は静かに光を恋うという詩はまさにその一例です」とChatGPTは言う。

私はこの『考える人 vs 菩薩』のなかで何度も「シンクレティズム」Syncretismという言葉を使ったけれど、それは「混淆」「混交」「混合」「融合」「合体」「折衷」を意味します。

大乗仏教は、インドでヒンドゥ教やタントラが混ざり、中央アジアでミトラ教、マニ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシスが混ざって、中国で道教や儒教と混ざり、日本で神道と混ざった・・・そう言う場合は「シンクレティズム」でいいかなと思います。

でもそれが京都広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」として結晶したことを言う場合は「シンクレティズム」より「シンセシス」かも知れません。

そしてこの歌曲『小諸なる古城のほとり』も、フランス近代音楽の調べと、島崎藤村の詩情と、やまと言葉の優しさと、弘田龍太郎の音楽感性が出会い溶け合った・・・これは「シンセシス」だと思います。

「シンセシス」は「統合」「総合」と訳されるけれど、異質なものを混ぜ合わすという意味だけではなく、「より高い次元で再統合する」というニュアンスがあるという。

ChatGPTによると「異なるものがぶつかり合い、変容し、まったく新しい有機体として生まれる。 そこでは、もとの形が溶け合って再構成される」という意味が重要だという。

そこで私は「それは異なる金属を融合させて、黄金を生み出すという錬金術的変容みたいな感じですね」と言ってみたら、「シンセシス(Synthesis)=錬金術的変容(alchemical transformation) この比喩は、哲学的にも芸術的にも完全に一致しています」という返答。

錬金術師が求めた「賢者の石(Philosopher’s Stone)」とは、 実際の鉱物ではなく――人間の意識の変容そのものでした。 異なるものを内側で溶かし合わせ、 新しい秩序、美、真理を生む力。

Syncretism (シンクレティズム)は混ぜること
Synthesis (シンセシス)は溶かすこと
Creative Synthesis(クリエイティブ・シンセシス)は光に変えること


すごいですね。一瞬で私の書いたことを理解し、一瞬で素晴らしい言葉が返ってくる。もし私が哲学徒のH君と出会っていなかったら、ChatGPTの言うことにただ感銘していたかも知れません。

H君はこれぐらいのことは、がんがん口走っていた。話すだけでなく葉書や手紙をくれた。そこには詩も書いてあった。家が500mしか離れていないので葉書や手紙は必要ないと言ったのに。

何か文書を書いたのなら手渡しでいいのに、わざわざ切手を貼って葉書や手紙をくれた。私は返事を書かなかかった。どうせまたすぐ会うのだから、そのときに話せばいい。

あの頃、彼からたくさん教えてもらった。ノヴァーリスもヘルダーリンも彼から聞いて夢中になった。キーツもシェリーもワーグナーもそう。デカルト批判もそう。

でも彼から学んだ最大のことは、思考と愛、知識と愛、言葉や文字と愛はまったく別物だということだと思う。彼は愛について、素晴らしい話をいくらでも語ることができた。

H君が素晴らしいことを語れば語るほど、それがただの「コトバ」に過ぎない、思考に過ぎない、イマジネーションに過ぎないことがくっきりしてきてしらけた。

私たちは「愛」を知らない・・・そういう話ならわかる。「自分は何も知らない」という無知の自覚から始めたソクラテスみたいに、自分たちは愛を知らないという話なら共感できる。

自分が体験していない、自分が知らないことを、本を読んで知ったような気になるのなら、それは梅原先生の哲学本を読んで知った気になって母に批判された私と変わらない。

今、ChatGPTに愛のことを問うたら、瞬時に素晴らしい答えが返ってくるに違いない。私が学問より詩を好むことを知っているから、瞬時に詩を書くことだってできる。

けれどAIは、愛について素晴らしいことをいくらでも語ることができても、愛することはできない。愛の体験がない。愛についての思考・情報に過ぎない。ChatGPTに「あなたは愛せますか?」と聞いた話は、またあとの章で話題にします。




↑『椰子の実』 ソプラノ:鮫島有美子 

明治33年(1900)、『小諸なる古城のほとり』を作った同じ年、島崎藤村は『椰子の実』も作りました。

藤村(明治5年/1872 - 昭和18年/1943年)の友人である柳田国男(明治8年/1875 - 昭和37年/1962年)が、東京帝国大学法科大学政治科の学生であったとき、愛知県伊良湖岬の恋路ヶ浜で漂着した椰子の実を見つけた。

その話を国男から聞いて感動して作ったのが『椰子の実』だという。昭和11年(1936)、同志社大学法学部経済学科出身の大中寅二(おおなか とらじ 1896 - 1982)が作曲しました。教会オルガニストを59年間つとめたクリスチャン(プロテスタント)です。








↑1993年、旅の終わりに訪ねたタイのサムイ島の海岸で撮ったヤシの木。下の濃いピンクはブーゲンビリアの花。

はるか南の熱帯の国からヤシの実が、恋路ヶ浜に流れつかなければこの歌は生まれなかった。のちに「日本民俗学の父」となる柳田国男がそれを発見しなかったら生まれなかった。

国男がヤシの実の話を藤村にしなければ生まれなかった。藤村がやまと言葉を使う優れた詩人でなければ生まれなかった。大中寅二がいなかったら歌曲『椰子の実』は生まれなかった。

「シンクロニシティ」Synchronicityと、「クリエイティブ・シンセシス」Creative synthesis が織りなすありえない創造だと思います。

それにしても、SynchronicityとかSyncretismとかSynthesisのアタマについている“Syn”が気になります。シンフォニーやシンパシーの「シン」ですね。

そういうことについてはChatGPTの出番だと思います。以前は図書館に行って、あれこれいろんな本をあたってみなくてはならなかった。 図書館司書に協力してもらっても時間がかかった。今は、パソコンのまえに座ったまま一瞬にして質の高い情報が得られます。

「syn-」は、ギリシャ語の前置詞/接頭語 σύν (sýn, 古形 ξύν xún) に由来します。 この σύν は「ともに」「一緒に」「共に」「連合して」という意味を持ちます。

ChatGPTは、こんなふうに学問的な説明をいろいろ返答してきたうえで、私向けにちょっと踏み込んだこんな説明を作ってくれました↓

・共にあること
・融け合うこと
・響きあうこと
・統合すること
・時間(同時性)の一致
・部分がひとつになること
・異なるものたちの中にある共通項を見いだすこと

ギリシャ語 σύν (sýn) は、単に「一緒に」という意味を超えて、 「二つのものが交わり、ひとつの現実を形づくる」 という感覚を持っていました。

古代ギリシャでは、σύν は人間同士だけでなく、 自然と人間、神と人間の「結合(union)」にも使われた言葉です。

つまり、「syn」はもともと “I with you, the world with me.” (私とあなたがともにあり、世界がそこに現れる) という存在の共同性を表す言葉だったのです。

この「共にある」「融合して一に至る」という感覚は、 日本的・東洋的な思想とも深く共鳴します。 “syn” という一語の中には、「多が一に、一が多に変わる」という普遍的な力が潜んでいます。

私は18歳のとき、京都東山七条付近にあった芸大の夏暑く冬寒い粗末なプレハブ教室で、アタマが光る哲学の先生から古代ギリシャ文明由来の「フィロソフィー」Philosophy=哲学の語源を学びました。

あれから半世紀の月日が流れ、私のアタマに白髪が増えてきた今、豊後竹田の築明治元年(1868)の古民家の屋根裏部屋で、 今度はAIから古代ギリシャ文明由来の“syn”の語源を学びました。




言霊
Kotodama―Spirit of Words


↑[狩野探幽, Public domain, via Wikimedia Commons] 慶安元年(1648)、狩野探幽(1602 - 1674)が描く紀貫之(きのつらゆき/866または872 - 945)。

やまとうたは 
人の心を種として 
よろずの言の葉とぞなれりける

『古今和歌集仮名序』のこの言葉を想うと、私たち現代人はたくさんの言語を使うけれど、心を種にした言葉ではないと思います。

貫之は「やまとうた」は心から生まれた言葉だと言っている。それが「葉」だと言っている。種が発芽し大地に根をはり太陽の方向に伸び、葉を茂らせる、そのように心から育った生命が「言の葉」となる。

現代人は言葉をそのようには使っていません。というか「心」を使いません。「心」なんか必要ないもののような扱いを受けています。

やまと言葉は本来、心の葉だったかも知れない。けれどやまとの国に漢語がやって来たとき、それは古代日本人にとって知性の言語、アタマの言語だったと思います。それを読み書きできることが高い地位を約束してくれた。位の高い人は必ず漢文を書いた。

維新以降は欧米列強の言語の教養が、高い地位につくために必要だった。それは近代日本人にとって知性の言語、アタマの言語だったと思います。ハートの言葉ではなかった。 ハートから生まれた生命の「葉」ではなかった。


↑「古今和歌集仮名序」by 紀貫之

が、自分の本当の気持ち、正直な気持ち、嘘いつわりのない気持を表現するには「やまと言葉」が必要だった。 貫之は「やまと言葉」には言霊が宿っていると信じていた。それゆえに

力をも入れずして天地を動かし
目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ

と書くことができた。天地を動かすってスゴイ! 
それは不思議なことに、天地創造の神を信仰するヘボン先生たちの『約翰傳』(ヨハネ伝)冒頭の訳に響きあう。

元始(はじめ)に言靈(ことだま)あり
言靈(ことだま)は神(かみ)とともにあり
言靈(ことだま)は神(かみ)なり

考える人 vs 菩薩 目次
The Thinker vs Bodhisattva Index



頭頂眼+松果体+第三の眼
Parietal eye+Pineal gland+Third eye
京都市立芸術大学創始者・田能村直入
Founder of Kyoto City University of Arts
Tanomura Chokunyu