『考える人 vs 菩薩』
The Thinker vs Bodhisattva
第1章
この小論文、2013年に書き始めました。
写真も撮りため断片的に書き進めていたんですが、2014年中ごろで挫折しました。母の認知症が進行して、それに取りくむだけで精一杯になったからです。あれから10年もの月日が流れたなんて信じられません。今度は書き上げようと思っています。
ただ、10年前もそうだったんですが、今回もサイコロを振って道を決めるような、偶然にゆだねるような進め方にしたいと思います。 何が出てくるか自分にもわからない、どうなるか先がわからない旅にしたい。
私はサイコロ(Saikoro)で行先を決めることを、「サイコロジー Psychology」 (心理学)ならぬ、「サイコロロジー Saikorology」と呼んでいます。
サイコロの目は「出たら目」のようだけれど、偶然とは思えない不思議な「ロゴス Logos」が秘められているかも知れません。「ロジー logy」の語源が「ロゴス」。新約聖書『ヨハネ福音書』の最初の一行が「初めにロゴスありき」。
心理学者(サイコロジスト Psychologist)のユングと、物理学者(フィジスト Physicist)のパウリはそのことを「シンクロニシティ
Synchronicity)と呼んだ・・・?
考える人を撮る
I took some pictures of “The Thinker”
2013年11月21日午後3時半ごろ、東京上野の国立西洋美術館のまえにある「近代彫刻の父」ロダンの代表作『考える人』を撮りました。
たくましい筋肉の存在感が、『考える人』の思考の強靱さを表現していると思います。 長時間集中して粘り強くひとつのことを考えぬく姿に見えます。
上京の目的は『サトリのシンクロニシティ』(ヒカルランド 2013)の著者であるアリゾナ州セドナ在住の瞑想ティーチャー、プラサード&アルヴィナのセミナーに参加するためでした。セミナーが始まる1日まえに『考える人』に会ってきました。
ロダンの『考える人』は裸で考える。
どこどこ大学卒業とか、どこどこ会社の部長であるとか、もろもろの社会的地位や、妻や夫や親や長男といった立場や、日本人やアメリカ人や中国人やロシア人といった国籍や人種や宗教や、学校や家庭や社会で得た知識・教養といった衣装を脱いで考える。
肩書のない、ひとりの人間、虚飾をまとわない裸の人間として。
日常の雑事や仕事や娯楽や家族から離れ、ただひとり座る。
テレビや新聞やインターネットの情報から離れ
自分の思考に集中する。
装飾がほどこされた美しい椅子ではなく
飾り気のないごつごつした岩に座って考える。
長時間座るには向いていないであろう岩の裸体に座る。
おのれひとりで考える。
誰の影響も受けたくない。
いっさいの知識や教養を排除したい。
だから書物にも頼らない。
先生にも頼らない。
命がけで根底からとことん考える。
おのれに向き合い、おのれを見つめ
おのれだけを頼りに考え抜く。
ロダンの「考える人」は、ひょっとしたらこんなことを考えているかも知れません。
いったい人生に意味はあるのか?
人生は無意味ではないのか?
自分はなぜ生まれてきたのか?
何のために生きているのか?
人生に意味があるなら
それはいったい何だろう?
幸せとは何か?
愛とは何か?
美とは何か?
神は存在するのか?
宇宙は何のために存在するのか?
宇宙の向こう側には何があるのか?
宇宙の巨大さと比較すると
私たちはコロナウイルスより小さい。
そんなに小さな私たちがなにゆえ
小さな仲間どおし憎しみあい
殺しあわなくてはならないのだろう?
小さなチリのような星の上に生きる
アリ以下の小さな菌、菌以下のウィルスが
なにゆえ殺しあわなくてはならないのだろう?
やはり神は存在しないのだろうか?
どう考えてもおかしい。
さっぱりわからない。
いったい私は何者なのか?
何のために存在するのか?
人はなぜ死ぬのか?
死んだらどうなるのか?
あの世はあるのか?
天国や地獄や極楽浄土はあるのか?
それにしても地獄や極楽って、どこにあるのだろう?
科学者・天文学者は最新の電波望遠鏡を使っても
見つけられなかった。
地獄も極楽も物質を超えた
異次元の世界に存在するのだろうか?
望遠鏡では見えない異次元の世界とは何だろう?
輪廻転生するのだろうか?
それとも完全な無に帰るのか?
何も残らないのか?
どんな生き方をしようと
結局すべて無になってしまうのか?
火葬場で焼かれて骨が残るだけ?
ただ元素に帰っていくのだろうか?
生きている人の記憶にしか残らないのだろうか?
では魂とか霊と呼ばれているものはいったい何だろう?
それは存在しないのだろうか?
イマジネーションに過ぎないのだろうか?
大脳が生み出すホログラフィー的な幻像なのだろうか?
脳細胞の電気化学的プロセスが魂であり霊なのだろうか?
脳死によって魂や霊も消滅するということだろうか?
それにしても・・・・・
ロダンの「考える人」は、ほお杖をついたこの前屈姿勢のせいで胸が圧迫され、きっと呼吸が浅くなっているに違いない。 肩がこったり頭痛があるかも知れない。ひょっとしたら便秘かも知れない。
便秘は万病のもとです。痔や肌荒れ、腹痛だけでなく、動脈硬化、糖尿病、大腸ガンの原因にもなる。イライラや精神的な不調や鬱をもたらすこともある。便秘を甘く見てはいけない。
試しにこの姿勢をまねてみると、長く続けるのは苦痛。明るい楽しいことは考えられない。事実、『考える人』は苦悶の表情を浮かべているように見える。長時間座るなら、この姿勢は止めた方がいい。
弥勒菩薩半跏思惟像
the Bodhisattva Maitreya sitting contemplatively
in the half-lotus position
この姿勢ならいいと思います。
「みろくぼさつ はんかしゆいぞう」・・・この菩薩像に会うために京都太秦(うずまさ)広隆寺を訪ねたのは、京都市立芸術大学美術学部西洋画科の画学生時代のことでした。[写真はWeb上に出まわっている著作権不明の絵葉書を使わせていただきます]
一本の赤松から掘り出した一木造(いちぼくづくり)なので、月日を経て木が歪んできて、少し前屈してしまったという。でも胸を圧迫するほどではありません。
右手は頭をささえてはいません。「考える人」の右手は頭をささえている。半跏思惟像の右手はほおに添えているだけ。これも月日を経て少しほおから離れたという。
右手の薬指と親指を合わせ、ほおに寄せる・・・・・仏像の手のポーズには、施無畏印(せむいいん)や禅定印(ぜんじょういん)や降魔印(ごうまいん)など多種ありますが、これは思惟印(しゆいいん)または思惟手(しゆいしゅ)という印。
印はインド古典語サンスクリットの「ムドラー」が語源。手のポーズを変えることで、目に見えない微細なエネルギーの流れが変わり、身心が変わり、世界が変わるという。
高校3年の3学期のとき、ふと父の本棚から古い本を手に取った。京都新聞社編集局編集『京都の仏像』(河出新書 昭和31年6月20日 第10刷発行)です。
この本の扉にあったのが上のモノクロ写真でした。このとき広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を初めて知りました。
私は小学校2年生のときから京都市立絵画専門学校(私の卒業校の前身)の洋画科出身の中島先生の絵画教室に通い、小学校4年からは油彩画を教えていただきました。高校生のときは美大・芸大受験生むけの実技を学ぶために美術研究所に通いました。主宰する宮崎先生も同校のご出身でした。
ずっと西洋美術に興味をもってきたせいもあってか、日本の伝統美術についてひどく無知でした。無知だということさえ気づいていなかった。
そもそも「弥勒菩薩」って何? この本に掲載されている観音菩薩、阿弥陀如来、愛染明王・・・みんなわからない。菩薩? 如来? 明王? いったいどう違うのだろう。
歴史的登場人物であるゴータマ・ブッダとの関係はどうなっているのだろう? 京都市生まれで子供のころから色んな仏像を見たはずなのに、実はぜんぜん知らないことに驚きました。
自分が生まれた地の文化、自国の文化について、とことん無知であることを思い知りました。軽視というか、価値ないもの、つまらないものと思っていたかも知れない。欧米の芸術や文学・哲学・科学ばかりが優れ、重要だと決めつけていたかも知れない。そのことに気がつきました。
ともかくこれを見て、たいそう美しくて気高いと思った。飛鳥時代(7世紀前半)の作とあるけれど、1400年もまえに作られたものとは思えない。
高校の図書室でもっといい写真を見つけました。たぶん土門拳の写真だったと思う。それを見て「モナリザの微笑」とはまったく違うと思った。何が違うのだろう? そしてロダンの『考える人』とは次元の異なる何かが表現されている、私が知らない何かがあると思った。
このときから『弥勒菩薩半跏思惟像』と『モナリザ』と『考える人』を対比する視点を持ちました。それが私の人生の「公案」になりました。それをまだやっているということです。今書いているこれです。
あとでこの弥勒菩薩像が「東洋のモナリザ」と呼ばれたり、亀井勝一郎が『大和古寺風物誌』のなかで、奈良・中宮寺の弥勒菩薩像とロダンの『考える人』を対比していることを知りました。
思惟(しい) vs 思惟(しゆい)
思惟(Shi-i) vs 思惟(Shi-yui)
ロダン(1840-1917)の『考える人』の制作年代は1881年~1882年。約140年前の作。
広隆寺『弥勒菩薩半跏思惟像』の制作年代は飛鳥時代(7世紀前半)。約1400年前の作。作者の名前は伝わっていない。
制作年代が約1300年も離れています。生まれた場所も遠く離れており、『考える人』はユーラシア大陸の西の端に位置するフランス。『弥勒菩薩半跏思惟像』はユーラシア大陸の極東(朝鮮説と日本説がある)。
共に「思惟」の姿。『弥勒菩薩半跏思惟像』の場合は「しゆい」と読む。漢字で書くと同じ「思惟」だけれど、「しゆい(Shi-yui)」と「しい(Shi-i)」は決定的に違う。
「しい」は深い思考を意味するから、ロダンの『考える人』は「しい」の姿だといえます。ところが『弥勒菩薩半跏思惟像』は、やはり「しゆい」であって、「しい」ではない。
それはどうでもいい些末な違いではありません。人生と文明を左右する人間意識の重大な違いであると思います。が、その違いはあまり知られていません。『考える人
vs 菩薩』の主要なテーマは、「しい」と「しゆい」の違いを明らかにすることです。
アレクサンダー大王
Alexander the Great
↑古代ギリシャの小国マケドニアの若き王、アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世/紀元前336 - 323)がペルシャ軍と戦う姿を描いたモザイク画(部分)。[Unknown
author, Public domain, via Wikimedia commons]
紀元前150 ~ 紀元前100年頃の作と推定されている。紀元79年のヴェスヴィオ噴火の火砕流によって一夜にして古代ローマの都市ポンペイは地下に埋もれ、このモザイク画も1831年に発見されるまで長く眠っていた。
『考える人』の作者ロダンは、古代ギリシャの彫刻家ペイディアス(紀元前490頃 - 430頃)と、ルネサンスの巨匠ミケランジェロ(1475 -
1564)を師と仰いで独学しました。
ペイディアスとは約2100年の隔たりがあり、ミケランジェロとは約350年の隔たりがある。直接の弟子にはなれないけれど、その人を師として敬愛し学びました。
ロダンが愛したミケランジェロは、古代ギリシャの偉大な彫刻芸術をよみがえらせ、あらたな息吹をふきこんだ途方もない天才です。古代ギリシャ文明→イタリアルネサンス→ロダンという流れがあり、ロダンの『考える人』の源流は古代ギリシャ彫刻だった。
アレクサンダー大王は32歳で早逝するまで侵略戦争にあけくれ、 ギリシャ、メソポタミア、エジプト、ペルシャ、インド北西部に広がる大帝国を築きました。
↑紀元前 323 年頃のアレクサンダー大王の帝国が最大規模であったときの地図。[Generic Mapping Tools, CC BY-SA
3.0 , via Wikimedia Commons]
アレクサンダー大王の遠征がインド北西部まで達し、その地域にギリシャ文明をもたらしたことが影響して、ガンダーラ地方(現パキスタン・アフガニスタン)で仏像が誕生することになりました。
偉大な神像彫刻を生み出してきた古代ギリシャ文明と古代インドの精神文明との出会いが、美しく瞑想的な仏像を生み出していった。
世界征服を夢見る若き英雄の侵略戦争が、ゴータマ・ブッダの瞑想・光明の彫刻化に影響しているなんて、歴史の偶然、歴史の皮肉、歴史の摩訶不思議なのでしょうか? それとも
何らかのスピリチャルな必然が隠されているのでしょうか?
ギリシャ仏教美術
Greco-Buddhist Art
↑紀元1世紀~2世紀頃制作のガンダーラ仏。[ 東京国立博物館蔵, Public domain, via Wikimedia Commons]
日本は「ガンダーラ美術」といいます。欧米は「ギリシャ仏教美術」(グレコ・ブッディスト・アート)という。インドや韓国も「ガンダーラ美術」といいますが、中国は「希臘式佛教藝術」(ギリシャ式仏教芸術)と呼ぶようです。
このようなガンダーラ仏の制作は、紀元前50年頃から紀元75年頃に始まったとされる。イタリアの古代都市ポンペイが火山の噴火で地中に埋まったのが紀元79年、それより少しまえに始まったことになります。というかほぼ同時代だった。火山の大爆発や大地震、洪水、気候変動、伝染病のパンデミックが、人の意識や文明に大きな影響をもたらすことが知られています。
ガンダーラ美術は古代のギリシャ、ローマ、シリア、ペルシャ、インドなどのスタイルが融合している。 そのような文化・芸術・宗教の融合・混交・混合を「シンクレティズム
」(Syncretism)といいます。
日本文明は神道、仏教、道教、儒教が混交しています。16世紀に西洋文化やキリスト教も混ざりました。明治維新後は西洋の科学技術文明が混交し、大東亜戦争敗戦後はアメリカ現代文明の影響を強く受けました。ものすごいシンクレティズムの国です。
ゴータマ・ブッダは、紀元前563年または480年頃に生まれ、紀元前483年または紀元前400年頃に亡くなったとされる。ソクラテスと同世代か、それより少し前の人でした。
日本に伝わった大乗仏教は、歴史的登場人物であるゴータマ・ブッダが肉声で語った教えというより、多様な文化・芸術・宗教のシンクレティズムであるといえます。
インド発祥のヒンドゥ教やタントラが混交しているのは当然として、中央アジアでユダヤ教、キリスト教、グノーシス主義、ゾロアスター教、ミトラ教(ミスラ教)、マニ教等が混交し、中国で道教や儒教、そして日本古来の神道と混交しています。
ガンダーラで生まれた仏像はその周辺だけでなく、シルクロード経由で各地の精神文化や美学の影響を受けながら変容していき、長い時の流れを経て京都広隆寺の『弥勒菩薩半跏思惟像』が生まれることになりました。
共に思惟の姿というだけで何のつながりもないように見える『考える人』と『弥勒菩薩半跏思惟像』ですが、共通のルーツがあったんです。それは偉大な神像彫刻を生み出してきた古代ギリシャ美術でした。
アリストテレス
Aristotelēs
↑アリストテレス(紀元前384 - 322)像。[Public domain, via Wikimedia Commons] アレクサンダー大王の専属彫刻家であったリュシッポス( 紀元前 390 - 紀元前300)が制作したブロンズ製オリジナルのローマ時代の複製。
↑リュシッポスが制作したアレクサンダー大王像のローマ時代の複製。[Sting, CC BY-SA 2.5 , via Wikimedia Commons
]
アリストテレスはアレクサンダー大王の家庭教師でした。お父さんであるマケドニア王ピリッポス2世が王子の教育のために招いた。「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」と大王は言ったという。
アレクサンダーが20歳のときピリッポス2世が暗殺され、その若さで王位についた。アリストテレスは東方遠征中のアレクサンダーの要請で『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。ふたりの交流はアレクサンダー大王が32歳で亡くなるまで続いたという。
西洋の精神文化・・・哲学、科学、神学に多大な影響を与え、「万学の祖」と呼ばれるアリストレスが師であった、そのようなアレクサンダー大王はただの征服者ではなかった。
↑アレクサンダーを教えるアリストテレス。フランスのイラストレーター、シャルル・ラプランテ によるエッチング(パリ、1866年)。[Charles
Laplante, Public domain, via Wikimedia Commons] 本の挿絵として描かれた想像画。
アレクサンダーの師であったアリストレスの師はプラトン(紀元前427 - 紀元前347)。プラトンの師はソクラテス(紀元前470頃 – 紀元前399)でした。ソクラテス→プラトン→アリストテレス→アレクサンダー大王という途方もない継承があります。
ただしソクラテス、プラトンが形而上学的(Metaphysical)であったのに対してアリストテレスは、現在ではサイエンスの分野である天文学、物理学、生物学、動物学、発生学、気象学、のほか、
心理学、倫理学、詩学、修辞学、論理学、政治学なども研究対象としました。
深い思考、思惟に耽溺することによって、しばしば非活動的になったり、非現実的になったり、観念的・思弁的になったり、世間離れすることがありますが、アリストテレスは目に見える現実世界の「観察」
を重視しました。
月食のときに地球の黒く丸い影が映る。アリストテレスはそれを見て地球が丸いということに気づいたという。また、異なる場所で星の見え方が違うことも球体説につながったという。
何というか、非常に知的で明晰な頭脳をお持ちだと思います。科学的思考の源流というか、「科学の祖」とも言われるだけのことはあると思います。
お月様でウサギがもちつきしている、みたいなものの見方・考え方とは正反対。 私はお月さんのウサギを長らく信じていました。サンタクロースのことも小学3年まで信じていた。
↑[The Night Before Christmas. MOORE, Clement (C) Raphael Tuck & Sons,
Ltd, 1898]
クラスメイトたちが「サンタクロースなんていないんだぞ。香山君はまだ信じているのかよ」と馬鹿にした。で、その子たちを家に呼んだ。
「みんなサンタクロースがいないと言うけれど、本当はどうなのか?」と母を問いつめた。すると母は言った。「みんなの家には来ないかも知れないけれど、うちにはサンタクロースがやって来る」。友人たちはあきれてポカーンとしていた。
クリスマスの日、サンタさんの姿を確かめるために今夜は眠らないと親に宣言した。朝まで起きているつもりだったけれど、いつのまにか寝てしまい、目をさますと枕もとにサンタの長靴が置いてあった。
うれしかったけれどその朝、何となく気がついた。うちにはサンタさんが通れるような大きい煙突がない。ガス炊きの風呂の焚口から煙突が伸びているけれど、それは誰かが通れるような直径ではない。こうして親がサンタクロースだということが、何となくわかってきた。
それまでサンタさんが、いるかいないかなんて考えたこともなかった。懐疑から考察が始まり、真相を知った。 サンタクロースの存在を懐疑する・・・これが私の人生初めての「考察」だったかも知れない。
↑[『難字訓蒙圖彙』(国文学研究資料館所蔵),Public domain, 国書データベース]
母が聞かせてくれた魅惑的なおとぎ話や怪談の世界が、実は現実ではなかったということを知っていく・・・それは私にも「楽園追放」の年齢がやってきたということでしょうか。月でウサギがモチついているなんて、そんな夢の世界でまどろんでいることは許されないということでしょうか。
ものごとを急いでテキパキこなし、時間通りにやりとげる。みんなと協調して、みんなと同じでなくてはならないことを学ぶ。先生には逆らわない。先生の教えたことを暗記しないとひどい点数をいただく。
その点数によって人間が5種類に分別され、従わない人間は最低の人間として分類される。高い点数をとる人間は、高い地位につくことができ、高収入が得られるという。それは「楽園喪失」の現実世界であり、それから長い長い年月、無味乾燥な知識を学ぶ「失楽園」の日々が続く。
丸い球体の上で暮らしているのだと学校で教わったとき、不思議な気持ちになった。ええつ!? そんな馬鹿な! 丸かったらすべり落ちてしまうじゃないか、海の水がこぼれるじゃないかと思った。で、地球が丸いと先生が言ったけれど、どうにもわからないと母に言った。すると母もわからないと言った。
後の章で話題にしますイエズス会の神父フランシスコ・ザビエル(1506 - 1552)は、キリスト教を布教するために日本にやって来たけれど、地球が丸いことも日本人に伝えた。
当時の日本人はものすごく好奇心が旺盛だったという。で、ザビエルは質問攻めにあってたいそう疲れた。
ザビエルは若い時、パリ大学で哲学と神学を学んでいます。
当時のパリ大学では、アリストテレスの哲学やスコラ学(アリストテレス哲学とキリスト教神学の融合)が重視されていたという。
「スコラ」(Skhole=ラテン語)は、学校と言う意味で、英語の「スクール」(School)と同語源。語源となるギリシャ語の「スコレー(Skhole)」は、「余暇」とか「ひま」を意味するという。自由時間に学問・芸術・哲学論議や政治論議を楽しむようなイメージだったようです。
ザビエルはパリ大学で学士号や修士号を取得後も大学に残って、講師として論理学や哲学の授業を担当していたらしい。が、イグナチオ・デ・ロヨラと出会ったことがきっかけで、学者の道を捨て、信仰の道を歩むことになった。アリストテレスから神へ。学問から信仰へ・・・それは後の章で話題にします。
↑2014/05/04 あれは10年前のことでした。2014年度のNHK大河ドラマは『軍師官兵衛』でした。イエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532
- 1597)は織田信長(1534 - 1582)に地球儀をプレゼントしました。
上のシーンは、イエズス会宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539 - 1606)が地球儀を使って、自分たちがやってきた航路を示しているところ。
左下が織田信長。右端がキリシタン大名の高山右近(1552 - 1615)。
日本にやってきた航路を説明すると信長は感動し敬意を表した。地球が丸いことをすぐに理解した。やはり信長すごい。すぐに理解できることではないと思う。特に私の場合は。
主人公・黒田官兵衛(1546 - 1604)の出生地は、母の出生地と同じ兵庫県姫路でした。母は白黒テレビの時代からずっとNHK大河ドラマを楽しんできたので、これも喜んで見ていました。
私は『考える人 vs 菩薩』を書くうえで刺激になることが多く、ドラマの舞台になった場所を訪ねるつもりでした。その年、兵庫県伊丹市の有岡城址は訪ねました。官兵衛は有岡城の光が入らない地下牢に1年半も幽閉され、それがもとで足を悪くしたのでした。
城作りの名人と言われた官兵衛が築いた中津城にも行く計画を立てていました。 私たちが住んでいる同じ大分県の中津市だけど、 少し遠いので一泊か二泊して、中津城に登って、中津藩の下級藩士出身の福沢諭吉(1835
- 1901)のゆかりの場所も訪ねたり、『ターヘルアナトミア』の訳者のひとりで中津藩の藩医だった前野良沢(1723 - 1803)ゆかりの地を訪ねる旅にしたいと考えていました。
当時は柴犬アミやネコのラティ、ウリ、ミカもいたので、それ以上は家をあけられなかった。 柴犬アミの名前の由来は阿弥陀如来の「阿弥」。ネコたちの名前の由来は、エンジェルの「ラティエル」「ウリエル」「ミカエル」。
↑「では、わが国はどこにあるか?」と問われたヴァリニャーノは、こんな小さな島を指した。
↑驚きますよね。日本がいかに小さな島国であるか、人間がいかに小さいか、信長は思い知った。高山右近のようなキリシタン大名はすでに宣教師たちから教えられていたでしょう。大変なカルチャーショックだったと思います。自分たちは「井の中の蛙」いや「井の中のウィルス」だった。
信長のことは後の章で話題にするとして、思うにアリストテレスは今でいう文系の哲学者というより、理系タイプの頭脳を持つ人だったのでしょう。だから文系のプラトンについていけない、というか資質が違っていた。ただし古代文明のこの時代、哲学と科学は分離していない。
実はニュートン(1642 - 1727)の時代だって現代ほど哲学と科学は分離していなかった。ニュートンは自分のやっていることを「自然哲学」だと思っていた。自分のことを「自然哲学者」だと思っていた。
アリストテレスはミツバチや鳥やトカゲも観察しています。約60種類の昆虫、約120種類の魚等、約500種の動物について記述しているという。それはすごいと思う。生物好きの私としては、そこに注目したいと思います。ソクラテスもプラトンはそんなこと、やりそうにありません。
ただしファーブル(1823 - 1915)やシートン(1860 - 1946)とは違う。アリストテレスはたくさんの動物を解剖しました。生体のシステムとかメカニズムを分析・解明したい、そういう目で生物を見ていたのだろうと想像します。だから「生物学の祖」であり「万学の祖」です。
↑2021/05/21 庭で栽培しているハーブのマロウの花に吸蜜に来たニホンミツバチ。マロウの花粉がいっぱいついています。多くの花の花粉は黄色ですが、マロウの花粉は淡い淡いピンク系。
私や妻にとって、生物は家族や友人です。東京生まれ東京育ちの妻は小学校のとき、学校の帰りに小鳥屋さんに寄って帰るのが楽しみだった。子供のころから小鳥が大好きで、文鳥、カナリア、インコ、ジュウシマツ、いろんな小鳥をヒナから育てて可愛がった。今も野鳥のことが大好きだし、野鳥も妻のそばに寄ってきたりします。
私は中学生のとき、竹内先生という生物の先生に出会って、画家になるのをやめて生物学に進もうかと迷うほど、先生に魅せられました。休日、竹内先生に連れられて、少数の希望者と一緒にサンショウウオを探しに行ったり、カキガイの化石を掘りに行きました。私は夢中になりました。
けれど高校の生物には失望しました。私は分子式なんて知りたくない。化学成分なんて興味ない。私は単に生き物が好きで、好きな生き物のことをもっと知りたいだけなんです。
好きな女のひとのことをもっと知りたい、一緒にいたいと思う気持ちと一緒です。心ひかれる女のひとを解剖したり分析したり研究材料にしたいわけではない。
エンジェルファームを設立してからは、ネコ、犬、ウサギ、ニワトリ、チャボ、ウズラ、アイガモ、金魚たち、たくさんの動物家族と暮らしました。彼らは本当に大切な家族でした。
今はもう飼っている動物はいませんが、ここに暮らしている多様な野鳥やヤモリ、イモリ、トカゲ、カナヘビたち、ミツバチ、マルハナバチたち、多様な昆虫たちのことを大切に思っています。
解剖してやろうとか、考えたこともありません。私たちの家族写真はここにアップしています↓
もちろん科学の進歩や科学技術の進歩は必要だから、アリストテレスのような科学的な目で生物を知的に分析することが必要だと思います。今使っているパソコンやインターネットも、そのような科学の進歩、科学技術から生まれた。それは大変な恩恵です。
科学の進歩、科学技術の進歩はすごいことになっている。そのわりには、人間の心はお粗末だと思いませんか?
核を搭載したミサイルを開発するには、ものすごく優秀な頭脳が必要だと思います。5種類に分別された人間のうち、最高クラスの人々、そのなかでも最高級の人々だと思います。素晴らしい科学者が知恵をしぼって研究に研究を重ねて開発してきたんでしょう。
けれどその核を持つ国家のトップが「核の脅し」をする様子、その顔つき、しゃべり方を見て、何かおかしいと思いませんか? まわりの側近のかた、部下のかたの顔つきを見て、何かおかしいと思いませんか? この現代に、国家のトップとして君臨しているかたがたです。
私は結局、画家になれなかったけれど、画家になるためのデッサンやクロッッキー等、膨大な訓練を積んだので今も画家の眼を持っていると、自分では思っています。メイクアップスクールで顔の描き方だけを教えたこともありました。自画像を含め、顔の絵もたくさん描きました。そういう眼で見て、やっぱりおかしいと思います。
ひとつ間違うと、核戦争になりかねいというのに、第三次世界大戦になってしまうかも知れないのに、誰もその戦争をとめられない。そんなことより芸能人や政治家の不倫ネタでゲラゲラ笑ったり、裏金もらうことが大切であったり・・・何かがおかしい。
想像ですが、アリストテレスは昆虫や動物のことが大好きなかたでは無かったのでしょう。きっと女のひとのことも好きにならなかった。ひかれる女のひとに出会うことはなかったのでしょう。アリストテレスは結婚はしましたが、恋愛関係はなかったと想像します。
彼の眼は、「生体解剖の先駆者」と言われるデカルト(1596 - 1650)が動物を見る眼に近いと思います。生体解剖って、生きたまま解剖することですが、彼は麻酔技術のなかった時代に犬やウサギを生きたまま解剖して、生きて鼓動する心臓を観察したというんです。
デカルトは人体解剖にも立ち合っていますが、肉屋さんから入手した動物の死体もたくさん解剖しました。デカルトはアリストテレス学説を批判したけれど、私はふたりはよく似ていると思う。
ともかくアリストテレスの観察は森羅万象に及び、アリストテレスの観察家としての視野の広さがアレクサンダー大王に影響し、大王の戦術・戦略にも生かされたのだろうとひそかに想像します。
逍遥学派
Peripatetic school
ルネサンスの巨匠ラファエロ(1483 - 1520)がバチカン宮殿に描いた『アテナイの学堂』 (1509 – 1510)。その中心にこの二人、年配のプラトン(左)と若いアリストテレスが描かれています。
プラトンは天を指さし、アリストテレスは地を示している。[Raphael,
Public domain, via Wikimedia Commons]
プラトンは目のまえの現象の深奥にある「イデア」を重視し、感覚の世界を軽視しました。アリストテレスは目の前の現象を観察し、知的に分析・考察する。現実に対して科学的な見方、考え方を持つ人だった。だから師のイデア論を否定した。ラファエロが描く二人の手のポーズは、彼らの考え方の違いを示しています。
ソクラテスもプラトンも歩きながら対話しレクチャーしたという。アリストテレスもまた歩きながら対話しレクチャーしたので、アリストテレス派は「ペリパトス派」(Peripatetic
school)と呼ばれました。
「ペリパトス」は「逍遙・そぞろ歩き・散歩」あるいはそれを行う「歩廊・散歩道」のことを意味するという。日本では「逍遥学派」と訳された。「逍遥」といえば・・・
↑坪内逍遥。[Japanese book Kokushi Shozo Taisei, Public domain, via Wikimedia
Commons]
『シェークスピア全集』の翻訳をなした江戸時代末生まれの坪内逍遥(つぼうちしょうよう 1859 - 1935)は、“Ramble”(ランブル)の和訳の「逍遥」が気に入った。
慣れ親しんだ「荘子」の冒頭にある「逍遥遊篇」にもつながる。坪内雄蔵は、それを自分のペンネームにしたという。
明治時代の文化人は江戸時代からの流れで漢学・漢文の素養があり、維新以降あらゆる分野で西洋の言葉を漢字熟語を使って和訳しました。和製の漢字熟語もたくさん生みだしました。
現代の日本では“Ramble”が「逍遥」と訳されることはないでしょう。現代の普通の辞書だと「ぶらぶら歩く」「あてもなく歩く」となっている。「とりとめなく語る」「とりとめなく書く」という意味でも使われる。何か「ランブル」の語感と「ぶらぶら」が似ている。
“Peripatetic school”の「逍遥学派」という訳、いかにも明治的な格調たかい訳語だと思います。
現代日本語で、もう少しくだけた訳語を選ぶとしたら、「散歩派」も選択肢になります。ただし「散歩派」では、「逍遥学派」のような高尚なイメージはありません。
散歩派
SANPO school
↑間水君の散歩派論文『内容は無いよう』に登場する本人。詩人の村上さんが主催する『CUSCUS No.8』(1990)からスキャン。 『内容は無いよう』のなかで彼はこう書いています。
毎日、宇宙に少しでも近い屋根で自分自身をパラボラアンテナに変身して、宇宙の声を聞いている。
間水君との出会いは1990年、桜が満開の大阪城公園でした。彼が書いた哲学論文をわたされて驚いた。 こんな不真面目なすっとぼけた哲学論文があるのだろうか?
思わずふきだしてしまうジョークやダジャレまで書いてあり衝撃を受けました。んー・・・さすが大阪の思想家だと思った。が、彼は自分のことを「散歩派」だと名のった。で、本職は間水神社の神主だと言う・・・が、それもジョークだった。
初対面だったけれど話がはずんだ。年齢も同じ32歳だった。ぜんぜん違う人生を歩んできたにもかかわらず、こうして出会えたことを喜んだ。花見酒が効いたせいかも知れないけれど。
自己紹介するのに出身校を言う人ではないんですが、私には初対面のとき、同志社大学哲学科の卒業生だと言った。私が芸大出身だと自己紹介したために、やむをえず学歴を語ったのかも知れない。
どおりでやけに哲学に詳しい。ただ詳しいというのではない。私が問うどんな哲学者についても、彼独自のするどい視点、ユニークな視点があり、それは教科書的な知識や書物から得た雑学なんかではなかった。
彼は「散歩派」を名のったけれど、アリストテレスやプラトンやソクラテスを尊敬していたわけではありません。 ニーチェ以外の哲学者には興味をなくているようにみえた。
というか哲学に対して失望し、冷笑的(Cynical/シニカル)ですらあった。それは間水君の「問い」に答えてくれるものではなかったのだろうと想像します。自分からは哲学のことは、ほとんど話さなかった。
彼は自分の書く論文を「散歩派論文」と呼んだ。その論文を評価する人は非常に少なかった。が、私は途方もなく面白いと思った。そして影響を受けました。それがこれです。寄り道・道草・遠回りが多くて、分野のわからない、わけのわからないとりとめない話・・・ある意味これは散歩派論文かも知れません。
ディオゲネス
Diogenes
ラファエロの『アテナイの学堂』には古代ギリシャの哲学者と科学者58人が描かれています。その中心にプラトンとアリストテレスがいて、何人もが二人を注目しています。近くにいるのは二人の弟子たちかも知れません。
ところが主役の二人に背を向けている人が二人あります。左下のヘラクレイトスと右下のディオゲネスです。特にディオゲネスはあきらかにヘン。ひとりだけ階段にだらしなく座っている。
ホームレスのかたの風情でもある。古代ギリシャを代表する哲学者や科学者を描いた大作のなかに、なぜホームレスのヘンなおじさんが? おかしいと思いませんか? これがローマカトリックの聖地バチカンの聖堂の壁に描かれている。
しかも描いたのは世紀の天才ラファエロ。なんでヘンなおじさんが登場するの? おかしいと思いませんか? 歩きながら対話するプラトンとアリストテレスの格調高い雰囲気と比べて、あまりにも違いすぎる。
プラトンは自分が書いた立派な本『ティマイオス』、アリストテレスも自著『ニコマコス倫理学』をたずさえています。が、ヘンなおじさんは薄っぺらな紙を見ている。老眼なのか、そうとう離して見ている。
このアカデミックな集まりに、あまりにも場違いな人がひとりいる。にもかかわらず主役に近いところに陣取っている。 脇役というには目立ちすぎ。目立つ位置にいるけれど、誰もこのかたのことを見ていない。
ディオゲネスって、いったい何者なんでしょう?
ディオゲネス像(2世紀後半、ローマ時代の制作)。[Getty museum, Public Domain CC0 1.0 Universal]
アレクサンダー大王の人生には、3人の哲学者が登場します。
「世界征服者」アレクサンダー(紀元前336 - 323)
「万学の祖」アリストテレス(紀元前384 - 322)
「犬儒派」ディオゲネス(紀元前412? - 323)
「懐疑主義の祖」ピュロン(紀元前360 - 270)
ディオゲネスは「キュニコス派」とか「キュニコス派哲学者」と呼ばれる。ギリシャ語“Kynikos”(キュニコス)は「犬のような」という意味です。英語の“Cynical”(シニカル
皮肉な・冷笑的な・嘲笑的な)はこの“Kynikos”が語源です。
英語では「キュニコス派」を“the Cynics”(シニックス)または“Cynicism”(シニシズム)という。日本では「犬儒学派」と、例によって漢学的な和訳になっています。「儒」などという漢字が当てられると儒学を連想してしまう。
「儒」という漢字は、古い中国語では「道徳を教える者」「学者」「読書人」を意味するらしい。そういうイメージはアリストレスたちにはピッタリだけれど、ホームレスのおじさんであるディオゲネスには全く似合わない。
「逍遥学派」と同じ匂いのする高尚な和訳「犬儒学派」を誰が考えたのだろうと思っていたら、それを検討した人がいます。下の素晴らしいWebサイトです↓
▶犬儒派について(Barbaroi!)
すでに明治15年(1882)の英和辞典で、“Cynicism”に対して「犬儒教」の訳語が当てられているという。ひょっとしたら「犬儒教」も「逍遥学派」も西周(にしあまね/1829
- 1897)の訳かも知れませんが、わかりません。
ギリシャ語“Kynikos”(キュニコス)を、格好つけないで訳すと「犬派」というのもありだと思います。ただしこの「犬」は首輪をつけ鎖でつながれ自由を奪われた「飼い犬」ではない。
それを強調するなら「野良犬派」というのも選択肢になるかも知れない。
野良人間
Stray man
↑間水君はワープロだけでこのような作品を生み出しました。[詩人の下前幸一さんのFBから無断転載]。
パソコンが普及していない時代でした。だからグラフィックのソフトも使っていません。当時のワープロの機能だけで作った非常に独創的な作品だと思います。
間水君は硬い文体で『散歩派宣言(1992年版)』を書いた。この硬さは、マルクス&エンゲルス著『共産党宣言』や「左翼アジビラ」のパロディでもあった。当時彼のまわりには左翼系の知人・友人がいて、彼らのことを冷笑していた。彼は首輪のない野良犬をイメ-ジした野良人間の道を説いています。
「昼は路上生活、夜には野宿」24時間人間でいることは野良人間の基本である。
文明は安楽な状態を我々に提供した。しかしここでは人と人とが自分の利益を求めて憎しみ合っている。はじめから失うものを持たない人のみが次世代の発言の的確な図面を持てるのだ。
1991年に我々が採択したスローガン・・・「資本主義下に住むよりは、社会主義下に住むよりは、路上で暮らして人間でいよう!」は人間を産業から隔絶した完全無所得者を社会改革の担当者だと解明した。
鳥になりたいと思ったことがありませんか? 大空を自由に舞う鳥です。カゴの鳥ではありません。カゴの鳥はエサをもらえるし、獣に襲われる危険もありません。
安全・安定はあるけれど、狭いオリの世界だけで生きていかなくてはならない。自由に飛ぶという鳥の本姓からかけ離れた人生いや鳥生をしいられる。
野良猫になりたいと思ったことがありませんか? 毎朝決まった時間に目覚まし時計で起床して、急いで満員電車に乗って、毎日決まった時刻にタイムカードを押して、毎日決まった仕事をして、仕事帰りに同僚とビールを飲みながら部長の悪口と、ひいきにしている野球チームの話題をして、寝るまでのわずかな時間、恋愛ドラマを見たり、週刊誌を読んだり、YouTubeを見たり・・・
こんなことの繰り返しのために生まれてきたのだろうか? 本当はもっと違う生き方があるのではないだろうか? そんなふうに思ったことがありませんか?
何か息苦しい、生き辛い、何か楽しくない、つまらない、未来に夢が描けない。それでも毎日急がなくてはならない。慌ただしくしているうちに、ただ年老いて、わけがわからなくなって死んでいくのだろうか?
何かがおかしい。私たちは進化してきたはずじゃないか。あらゆる生物の進化の頂点に立っている。あるいは神の似姿じゃないか? 文明がこれほど進歩し豊かになっているのに、なぜこんな生き方しかできず、幸福感がなく空虚なのだろう? そんなふうに思ったことはありませんか?
むかし、幼馴染のH君がこう言いました。「僕は野良猫がうらやましい。香山君はそう思わないか? 野良猫の方がよっぽど自由だ。野良猫になりたい」と言った。彼は当時、生活のためにやりたくない仕事をしてストレスがたまっていた。
彼がその言葉を言ったそのシーン、今だによく覚えています。私たちはそのとき20代前半だった。ついでに、H君が笑いながらこう言ったときのことも覚えています。
「ここはひょっとしたら地獄じゃないのか? みんなは大阪の道頓堀筋だと思っている。そう思って半額セールに群がっている。野山を歩くときは長い距離を歩いてもあまり疲れないのに、このあたりを歩くと、ものすごく疲れずっしりと重い。ここは本当は地獄じゃないのか?」
おば様たちが店舗にひしめき、必死の形相で山積みになった衣料品をあさっていた。奪い合うような姿もあった。 H君はその光景を見て、地獄じゃないかとジョークを言った。日本が景気が良かった時代で、みんな購買意欲があった。『ジャパン・アズNo1』(1979)という本がベストセラーになった時代でした。
H君とはよく野山を歩いた。京都の伏見稲荷に一緒に行ったとき、神殿の奥に山道があるのを見つけて、その細道をどんどん登っていった。芸術や文学、哲学のことを夢中になって会話しているうちにとうとう山頂らしきところに来てしまった。
驚いたことに大きな湖が見え湖面が光っていた。まさかと思ったけれど、それはどう考えても琵琶湖だった。それなら伏見に戻るより、琵琶湖まで歩いてみようということになった。どこの駅だったか、国鉄の駅に行きついたときには真っ暗になっていた。
↑理解されない「散歩派論文」とユニークな「散歩派アート」を生んだ間水君のワープロが壊れたあと、時代はパソコンの時代になっていったけれど、間水君はワープロもパソコンも持たず、文章もアートもすべて手がきオンリーになった。
上は安価な学童用水彩絵の具とボールペンで描かれています。画家が使うような画用紙ではなく、普通の官製葉書に描いた。だからこの絵、葉書サイズです。
↑部分拡大。こうして彼はたくさんの葉書作品を生み出しました。鉛筆・色鉛筆・ボールペン・水彩絵具だけを使って。
細部までていねいに描いています。けれど官製葉書だから、あまり塗りたくるとベコベコする。さっと塗る必要もありました。
直立二足歩行が人類に飛躍敵進化をもたらしたとされる。ひとりひとりの自由や解放や歓びや創造性や愛や目覚めにつながるはずだったその「歩行」が、首輪をはめられた奴隷的生き方につながったと彼は考える。
(C)the Early Man volume of the Life Nature Library, published in 1965, and drawn by the artist Rudolph Zallinger
↑イラン・イスラム共和国の首都テヘラン中心部のヴァリ・イェ・アスル通りの壁の落書き。[Paul Keller, CC BY 2.0 , via
Wikimedia Commons]
人は「目的」のために使われる「奴隷」や「機械」におとしめられていると間水君は言う。権力や金銭、財宝、セックスへのあくなき欲望のために利用されてきたと考える。
人は目的にかなうように洗脳され、調教され、かりたてられる。殺せと命令されたら、兵士だけでなく女性も子供も殺す。稼げと命令されたら、毒薬でも売りまくる。過労死するまで働く。
1991年8月27日に電通の社員が過労により自殺した(電通事件)。「過労自殺」や「過労死」という言葉が知れわたり、“Karōshi”は世界共通語になった。
1990年から1992年にかけてはサダム・フセイン(1937 - 2006)率いるイラク共和国と多国籍軍が戦った「湾岸戦争」もあった。間水君は散歩派論文に「布施院」と書いた。面白いから私もまねした。
↑大日本帝国降伏の調印式を行ったアメリカの戦艦ミズーリも参加しイラク軍施設を砲撃しました。驚いたことに、まだ現役で戦っていたんです。 [Camera
Operator: TERRY COSGROVE, Public domain, via Wikimedia Commons]
1991年12月25日にはソビエト連邦の大統領ゴルバチョフ(1931 - 2022)が辞任し、翌26日にソビエト連邦最高会議が連邦の解体を宣言しました。ソ連の崩壊です。
冷戦時代は終わったかに見えました。
けれど日米経済摩擦、日米経済戦争が加熱してきてきた。その結末がバブル崩壊後の「失われた30年」につながっていったという見方もあります。
「資本主義下に住むよりは、社会主義下に住むよりは、路上で暮らして人間でいよう!」と書いた間水君の『散歩派宣言』(1992)には、あの時代の不穏な空気が背景としてあります。
歩行 vs 散歩
Walk vs Sanpo
↑エドワード・マイブリッジ著『動物の移動:動物の移動の連続的段階の写真による調査 1872-1885』。 [Eadweard Muybridge,
Public domain, via Wikimedia Commons]
「散歩」は目的地に急がない。目的地に急ぐなら、それは散歩とは言わない。気の向くまま足の向くまま、ぶらぶら、そぞろ歩きを楽しむ。散歩を楽しむとき、自動車や電車に乗って移動していたときには見えなかったものが見えてくる。ものの見え方が変わる。世界が変わる。
能率とか効率とか、時間を考えなくていい。他者と速さを競う必要がない。友人や恋人と一緒に語らいながら歩くのも楽しい。ひとり静かに歩くのも楽しい。
ただし間水君が言う「散歩」は、彼が提案する自由な生き方、奴隷化されない機械化されない本当の人生、この地上に生まれてきた本当の意味を生きる、幸せな生き方の「比喩」、「寓意(アレゴリー)」です。
「つまるところ、散歩派とは人間性回復運動だ」と間水君が語ったことがあります。大きな歯車の部品のような、機械のような生き方、モノとして扱われる奴隷的な生き方ではなく、彼はもっと人間らしい自由な生き方を「散歩派」という言葉に込めた。
『散歩派宣言』の「散歩(歩行に対する散歩の優位)」の項のなかで、間水君はこう書いています↓
この動作、歩行には世間の利害が関わり、目的のしたに従属する歩行者はどんなに美辞麗句でかざっても生まれながらの奴隷であり習慣と掟に縛られた機械に転落していく。
『散歩派宣言』の「路上生活(施設に対する通路の優位)」の項です↓
血縁や金、神などはそれに向かう急ぎ足の歩行する人には危ない罠である。
施設の中の血や金や神という人間を機械化する場所から生まれたユートピア思想はそれ自身、人類を破局に陥れる害毒である。
散歩者こそ本当の人間らしい人間であり、散歩者は路上で歩くただの人である。集会ではなく分散。分散と通路でのコミューンこそ真のユートピア原理の出発点だ。
孤独な離反こそ神へ至る方法だ。
彼が言う「施設」とは、会社や公官庁、学校、大学、寺院、教会、美術館、博物館、デパート、病院、工場のようなところを意味します。個人の邸宅もそうかも知れません。
当時、土地の値段が急上昇していた。家や土地を買うための一生、一生ローンを払っていかなくてはならないので、不愉快な会社、非人間的な労働を強いる会社をやめるわけにはいかない。
豊かさ、幸福を与えてくれるはずの「施設」が我々を縛り害しているのではないか、奴隷化しているのじゃないか、人間性を奪っているのじゃないかという感覚があって、その息苦しさから解放されるためにドロップアウトする、離反する生き方を描いています。
間水君が実際に「路上生活」していたわけではありません。現代の暮らしには現金収入が必要です。ごくごくたまに散歩派イベントとして、現代アートのパフォーマンスとして淀川の河原で「野宿」することはありました。
私は「野宿」には参加しなかったけれど、私も散歩派イベントを発案しました。
「世紀末茶会」と「梵おどり」です。 社会主義が崩壊しかかっている、それに変わる人類の新しいビジョンとして「茶会主義」を提案して茶化したのでした。
黄色直立行為
Yellow Stand Up Action
間水君と出会った1週間だったか2週間後だったか、間水君は散歩派を名のる彼の友人たちと一緒に私の住まいに現れた。会談は深夜におよび、気がついたら朝になっていた。
↑メンバーのひとりが上の「黄色原人」だった。みんなは「おうしょくさん」と呼んでいた。私も探せば写真が残っているかも知れないけれど、とりあえず、吉田ショージの吉田屋帝国©のブログ記事「前衛芸術家
黄色原人」からお借りします。吉田ジョージさんは2001年6月4日のブログでこう書かれています。
大阪市中央区の戎橋、いわゆるミナミのひっかけ橋で物凄い人に遭遇してしまった。 彼は何をするでもない。ただただ、そこに立ち尽くすだけだ。しかも、まばたきひとつせずに。
そして、全身を黄色いコスチュームで覆っている。顔面も黄色ペイントだ。あらゆるジャンルのストリート・パフォーマーが集うこの地にあっても、ひとり異彩を放つ。
上の2001年の写真を発見して、私が大阪から去ったあとも彼は9年立ちつくしていたことを知り、胸が熱くなった。黄色さんは「黄色直立行為」(おうしょくちょくりつこうい)と呼んでいた。ひたすらじっと立ちつくす。まばたきしないで。
大阪の繁華街の大勢の人々が往来するなかで、ただひとり黙然と立つ。群衆がにぎやかにおしゃべりしたり、速足で歩くなかで、ただひとり沈黙し、こおりついたようにストップし続ける。群衆のなかでこそ彼の沈黙とストップが際立っていた。
黄色さんがストップすることで、逆に現代人の騒々しさ、あわただしさが際立つ。際立たせる効果が黄色さんのストップにはあった。
原人が直立してから百数十万年の月日が流れた。私たちは、今いったい何をやっているのだろう? 何が起きているだろう。何を語り、何を考え、どこに向かっているのだろう。
彼はあの黄色のいでたちで阪急電車のなかでも「黄色直立行為」を行った。不意に予期しない黄色い人が目の前に立っている、その瞬間みんながビックリ仰天する。どう理解していいのか全くわからない。「キャッ」と黄色い声をあげる女性もあった。
やってみたらわかりますが、まばたきしないのは難しい。人間はふつう1分間に平均20回まばたきするらしい。黄色さんはそれを止めることができる。長時間じっとして立つのも難しい。しんどい。みんな自覚ないけど、じっとしているって難しい。
アタマのなかでいろいろ考えだすと、眼球が動く、体も動く。座禅をした人ならわかると思いますが、アタマのなかがうるさくなっていくと、法界定印(ほっかいじょういん)に組んだ手の親指が離れる。あるいはくっつき過ぎるか、親指があらぬ方へ行ってしまう。じっとしているためにはアタマの中も静かでなくてはならない。
黄色さんのように直立することはロダンの『考える人』のように座り続けることより難しい。彼は自分の身体と精神を使って、彫像のように『直立する人』になった。おのれ自身が作品になった。
↑もう1枚、Hepporon Library©というブログから写真をお借りします。こちらは2003年5月7日 。こう書かれています。
大阪駅前の歩道橋に立ってました。
全身黄色のオッサンが!
足元に置いてあるノートを読むと、この人は『黄色原人』というそうです。 決してみかんを食べ過ぎて、全身黄色になった訳ではないみたい。
しばらくじっと見ていると、ホントにまばたきをしていないよ!
このオッサン。ただまばたきしないで立っているだけですが、すごい人だかりが出来ていました。
彼らと交友していた当時、私は大阪市内でグラフィックデザインの仕事をしていました。10年ぐらい続けていた。それをずっと続けていていいのか、私も迷いがありました。人生こんなはずではなかったという思い、迷いがありました。
子供のころから画家になりたいと思っていました。自分の才能をのばしながら自由な生き方ができると思ったからです。画家になるにしても大自然のなかで生きたいと思っていました。森や草原や川や海のそばでたくさんの生き物と一緒に暮らすことが夢でした。
ところが気がつくと、人口密度がトップクラスで、緑地が極端に少ない大阪市で仕事に追われる日々を送っている。好きだったカエルたち、バッタたち、蝶たちのことも忘れ果てて。
好きな絵を描く、のとは正反対。どうしたら商品が売れるか、どうしたら消費者が手にとってくれるか、それを考えてパッケージやラベルやポスター、パンフレットをデザインします。
普通の仕事に比べるとクリエイティブな面があるし、若輩者の私が得意先の社長や営業部長が年配のかたであっても対等に発言できる、耳を傾けてもらえる、
いちもく置かれ尊重される。そういう仕事ではあるからやりがいはあった。けれどこの暮らしをずっと続けていいかということについては迷いがありました。
ビジネス街にて
In the business district
デザイナー時代に手がけたデザイン作品は残っていないけれど、たまたま実家に預けていた段ボール箱のなかに少しだけ残っていました。
↑これは国産ベッドのカタログのなかのイメージのページ。商品の価値を高めるために、何ページかに一枚イメージ写真を挿入します。商品のページばかりだと味気ない感じがします。
この写真は当時大阪堺筋本町あたりにあったリースポジ屋さんで選びました。今ならどこにも出かけず、インターネット上で写真素材を選ぶことができます。
当時は地下鉄に乗って、ビルまで歩き、上の階にあったリースポジ屋さんで選んでいた。往復に時間がとられていました。
ポジフィルムがストックされていて、ライトテーブルの上で自分のイメージに合うものを選ぶ。 選ぶのにけっこう時間がかかりました。大分県の内陸部の里山で暮らす今なら、裏山で撮影してPhotoshopでがんばって加工すれば作れるイメージ写真ですが、
当時はリースポジを借りるしかなかった。
イメージに合う風景写真を自分たちで撮影して来てくれるなら、交通費や宿泊費は支払うと言ってもらえたんですが、せっかくカメラマンと私の経費を出してもらっても、タイミングよくいい風景に出会えるかどうか、曇天だったり雨だったらどうしようもない。
リスクを考えるとリースポジを借りる方が確実でした。一枚3万円から5万円ほどだったと思います。
今はリースポジ屋さんという職種が無くなりました。私が手がけたこの国産ベッドのメーカーさんも無くなったようです。Google検索しても名前がでてきません。
↑2009年6月23日朝8時撮影。このとき大阪産業創造館に行く用事があって関西汽船で大阪港に着き、17年ぶりに堺筋本町周辺を歩きました。こういうビジネス街のなかにリースポジ屋さんがあった。
時間に追われ速足で歩いていた当時のことを思い出しました。
バブル景気にわきたっていたころ、大阪は世界で一番速足だった。ある学者が世界の主要都市で歩行速度を計測したのでした。信号が青になって車がスタートする時間も測定したら、やはり大阪が一番速かったという。
地方都市の場合、1秒後だったり2秒や3秒、もっとかかるところもあった。 私が今住んでいる田園地帯だと、高齢者が運転する軽トラの場合、スタートが10秒後になる場合もあります。当時の大阪の場合、0.1秒ですらなかった。
青になる前にスタートするから。
↑ベッドのカタログの最終ページ(見開き)は夕陽の写真を選びました。
こういう風景写真を時間をかけていろいろ探しているうちに、心のなかに大自然の美しい色彩が広がり・・・リースポジ屋さんを出た瞬間、
いきなり灰色のビル群の世界にいる現実に戻され、地下鉄の雑踏に急ぐ気分になれず・・・カフェでひと休みし、物思いにふけりました。
↑これは営業用会社案内の校正刷り。1991年に手がけたんですが、この会社も検索して、かすりもしません。社名がわかるけれど、あれから30年以上たったので時効と判断してアップします。
急成長している会社でした。まだ社名ロゴが無かったので、社名は元気そうな書体を使いました。といって、今みたいにパソコンで簡単にロゴを作れる時代ではなかったので、私が手描きでレタリングしました。
表紙は、北海道みたいな広々とした大地に作物が植わっているようなイメージ写真を選んでほしいというのが会社の希望でした。いつものリースポジ屋さんで5点ほど借りてきて選らばれたのがこの写真・・・ジャガイモ畑の写真でした。
当時はこれがジャガイモの花だとも知らなかった。こんなふうに地平線までジャガイモばかり植えるのは不自然なことだということも知らなかった。ただ素晴らしい美しいと思ってこの写真を選んだ。今ならジャガイモのこともっとわかる↓
↑この会社の急成長ぶり。このグラフも私がデザインしました。この線、パソコンで作るのではないんです。カラス口という道具と墨汁を使って引く。今のデザイナーは信じられないでしょうね。カラス口なんて知らないかな?
このグラフ、バブル末期のイケイケドンドンを表している。やっぱりおかしい。異常だと思いながら、このグラフを作った。
自分はいったい何をしているのだろう。朝から晩まで何をしているのだろう。何のために生きているのだろう。このままずっとこういう人生を送っていくのだろうか?
日が暮れるといろんな方面からお酒の誘いがかかり、大阪難波周辺のネオン街の賑やかなお店で乾杯し、地下鉄が終了する直前まで飲む。地下鉄が終わってしまったらタクシーに乗る。
「おお、お客さん、吐きそうなんじゃないですか? 車をとめて袋を出しますから、外に出て吐いてください。それまで我慢できますか? 車のなかで吐かないでくださいね!」
車を止めてもらって吐くこともときどきあった。色っぽいおねえさんたちがお酒をついでくれるお店で接待されることもあった。 デザイナーやコピーライターが脚光をあびた時代だった。キャッチフレーズやネーミングやパッケージデザインでモノが売れた時代でした。
グラフィックデザインの仕事
Graphic design work
↑当時の私。この写真では少したそがれています。あらゆる業種の、あらゆる仕事・・・パッケージデザイン、POP、パンフレット、ポスター、カタログ、会社案内、会社ロゴマーク、いろんな仕事を同時進行でこなしていく。
今と違ってパソコンが無く、インターネットが無い。ここには写っていませんが、目の前にポスターカラー全色と絵筆がずらっと並んでいます。当時はデザイン作業は、ぜんぶ手仕事になります。
アイデアが思いつかないとストレスもたまるし、イライラすることもあり、酒量も増えます。酒を飲んでも眠れないことがあります。
「中身は何だっていいんだよ。大事なのはパッケージなんだ。パッケージは顔なんだよ。売れる顔をデザインして欲しい。君に期待している。君のことを応援するよ」と言う社長がいました。
そういう社長にかぎって、色っぽいおねえさんたちがいるお店に連れて行きたがる。そうか中身はなんだっていいのか、顔が良ければ・・・
そんなメーカーさんの商品、買いたくないなー。けれど買ってもらえるようにデザインするのが私の仕事だった。
たぶん私は限界にきていたと思う。けばけばしく明滅するネオンサインの光にも、化粧の濃い美人のおねえさんたちにも、酔っ払いの自慢話にもうんざりしていた。
『CUSCUS』投稿
Contribution to the poetry magazine “CUSCUS”
↑散歩派ではないと言いながら、散歩派と行動を共にした詩人の村上さんが主催する詩誌『CUSCUS』に、「あなたも何か投稿してください」と誘ってもらって描いたのが上。彼女の不思議な詩については後の章で話題にするとして。
こういう四コマ漫画みたいなもの初めて描いた。時間がなかったから即興で描いた。男は画面に入りきれない巨大な岩を持ち上げます。持ち上げたときには達成感もあり幸福感もあり人々からの称賛も浴びるでしょう。
が、しだいに重みに耐えられなくなり、やがて岩の下敷きになって死んでいく。持ち上げた岩がそのまま男の墓標になる・・・・・題して『墓標』。
とてつもなく巨大な岩だと思ったけれど、離れて見ると実はちっぽけ。ちっぽなことを重大なことと思い込む人生。男は地下に埋もれて痕跡もない。男が存在したことも忘却される。それが自分かな?
墓標の上には星々が輝く宇宙、下には地球。もっと岩を小さくしたらよかったかな。[原稿はとっくの昔に処分したので、今回詩誌『CUSCUS』からスキャンしました]
↑これも詩誌『CUSCUS』に投稿しました。幽体離脱を描いた西洋のイラストがあります。 それをベースに、離脱したカラダをもっと上昇させて、解放されていくようなイメージを描きたいと思った。
いろんな束縛から解放されたいという願望が、こういう描画になったと思います。
すでにバブル崩壊は始まっていました。証券会社の経済研究所などが主催する景気予測の講演会に行ってみると、これから本格的なバブル崩壊が起きて、景気はどんどん悪くなっていくだろうという見通しでした。
年齢別人口比率を見ると、まもなく高度高齢化社会がやって来て、そのことも低成長の原因となるだろうという予測だった。
明るい話はほとんど聞けなかった。お先まっ暗じゃないかと思った。
バブル崩壊前夜
Eve of the bursting of the bubble economy
↑千葉の巨大な見本市会場・幕張メッセで。出店した大阪のメーカーさんのディスプレイを手がけた。夜は若手社員と一緒に飲んで盛り上がった。
経済の専門家は暗い見通しを言うけれど、クライアント会社の業績が急に悪化したり、仕事の依頼がとだえるわけでもなく、お酒の誘いもあり、ネオン街も賑やかだった。まだ社会全体のバブル崩壊は起きていなかったと思う。
いずれにしろ決断の時が来ていると思った。グラフィックデザインの仕事が無くなることはないだろう。バブル景気時代の価値観とはまったく異なる新しいデザインの考え方が必要になってくるに違いない。それを手堅くやっていく手がある。
けれど、グラフィックデザインの仕事は生計をたてるために選んだ仕事であり、デザイナーになるために美術を学んだのではなかった。美術を学んだことが役に立ったけれど、不本意な気持ちもあった。
さりとて、美術で生計を立てることができるのはほんの少数であって、ほとんど人は現金収入を得るために何らかの仕事につかざるを得ない。絵具やキャンバスを買うにも現金が必要となる。
20代の前半に美術教師の仕事についてみたけれど、続けることができなかった。そのあとグラフィックデザインの仕事をしてきて、クライアント会社から信頼されるようになり、実力もつき、自信もついてきた。どんな仕事を依頼されても、手堅くこなす自信があった。
私はデザイン科出身でもないし、デザインセンスが特別に優れているわけでもないので、ホームランを打てるデザイナーではない。手堅くヒットを打って、まずは一塁のベースをふむ。そうしたら盗塁で二塁、バントで三塁へ進塁・・・みたいに手堅く仕事することをモットーにしていました。
大阪の中小企業相手の仕事の場合、その方が喜ばれた。ホームランか三振かでは困る。確実に塁に出る、そうでないと資本力のない中小企業の場合、社員を路頭に迷わすことになりかねない。
それにもしホームランを打って、急にものすごい注文がきても中小企業のラインでは対応できない。それで大借金してラインを増設したころには、どこかよその会社が安価な類似品を生産して、そちらの商品ばかりが売れて急に注文がこなくなり、借金だけが残って倒産ということもありうる。私が実際に目撃したケースです。
デザインの仕事を続けるなら、そんな大阪の中小企業さんと、どっぷりかかわり苦楽を共にし、バブル崩壊と低成長時代を助け合って生きのびていくことになるのだろう。私は35歳になっていた。そのように決断したら、老いて役に立たなくなるまで、その仕事に全力を尽くすことになるだろう。
せっかく10年やってきて、脂がのってきたと褒めてもらえるようになった仕事をやめていいものだろうか?
やめたとして、どうやって生計を立てていったらいいのだろう。これから経済がどん底になっていくかも知れないというのに・・・
↑詩誌「CUSCUS No.8」(1990)の表紙のイラストは、当時若手アーティストとして売りだし中の散歩派のS君が手がけた。即興的にこういうのが描けるのはすごいと思った。
↑詩誌「CUSCUS No.9」(1992)の表紙のイラストもS君が手がけた。即興でここまで描ける彼の才能と情熱に驚いた。
↑黄色さんの写真が見つかりました。右が私。彼はふだんは大阪人らしくジョーク好きでお酒好きだった。もちろん私も。 ジョークとお酒がなかったら息苦しくてやってられないと思っていた。
「散歩派」を名のる友人たちは、私以外みんな「フリーター」だった。アルバイトで何とか生計を立てながら自分の信じる芸術活動を行っていた。それをやったからといって何の利益もない、何の賞ももらえない、何の地位につけるわけでもない。そして誰もバブル崩壊を心配していなかった。
そのときはそう思わなかったけれど、あとから考えてみると、散歩派との出会いが私の人生を変えたと思う。彼らと出会わなければ、ひょっとしたら大阪でグラフィックデザインの仕事を続けていたかも知れません。
私のハートに火をつけたのは散歩派だったかも知れない。あの仕事を続けていたら、この論文『考える人 vs 菩薩』を書くことはなかったと思う。
↑検索したら出てきました。これです。幽体離脱のイラスト。1929年に出版されたヘレワード・キャリントン&シルヴァン・マルドゥーン著『アストラル体の体外離脱』。 [Hereward Carrington, Sylvan Muldoon., Public domain, via Wikimedia Commons]