「考える人 vs 菩薩」
第1章
Thinker vs Bodhisattva
上の写真、左は「近代彫刻の父」と称されるオーギュスト・ロダン(1840-1917)の代表作「考える人」(原型1881-82年、拡大1902-03年)。
右は京都広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつ はんかしゆいぞう)」。約1400年まえ、飛鳥時代(7世紀前半)の作。
制作年代が約1200年も離れています。生まれた場所も遠く離れており、「考える人」はフランス、「弥勒菩薩半跏思惟像」は極東(朝鮮半島説と日本説がある)。
共に「思惟」の姿。漢字で書くと同じ「思惟」だけれど、ロダンの作品は「思惟=しい」。弥勒菩薩は「思惟=しゆい」。「しい」と「しゆい」は決定的に違う。
が、その違いはほとんど知られていない。「考える人 vs 菩薩」では、この違いを明かにしたいと思います。
「考える人」の作者ロダンは、古代ギリシャの彫刻家ペイディアス(紀元前490頃 - 紀元前430頃)と、ルネサンスの巨匠ミケランジェロ(1475
- 1564)を師と仰いで独学しました。ミケランジェロは古代ギリシャ・ローマの偉大な彫刻芸術をよみがえらせた途方もない天才です。
古代ギリシャの小国マケドニアの若き王、アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世 紀元前336 - 紀元前323)は32歳で早逝するまで侵略戦争にあけくれ、ギリシャ、メソポタミア、エジプト、ペルシャ、インド北西部に広がる大帝国を築きました。
遠征がインド北西部まで達し、その地域にギリシャ文明をもたらしたことが影響して、ガンダーラ地方で仏像が誕生することになった。偉大な神像彫刻を生み出してきた古代ギリシャ文明と古代インドの精神文明との出会いが、美しく瞑想的な仏像を生み出していく。
それは東方、南方に伝搬し、その地域・民族・時代固有の精神文化や美学の影響を受けながら変容し、アジア各地で多様な独特な仏像が創造され、そうした流れで京都広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」が生まれた。
世界征服を夢見る若き軍神の狂気が、ゴータマ仏陀の瞑想の彫刻化に影響しているなんて、歴史の摩訶不思議か、霊的な導きなのか、わかりません。
「考える人」と「弥勒菩薩半跏思惟像」は全く異なる文化圏に属し、全く異質なもののようだけれど、古代ギリシャの神像彫刻という共通のルーツをもっている。ふたつの像はルーツにおいて繋がっている。
この話題、2013年に書くつもりでした。
写真も撮りため、断片的に書き進めていたんですが、2014年の前半で中止しました。母の認知症が進行して、それに取り組むだけでいっぱいになりました。あれから約10年の月日が流れなんて信じられません。今度は書き上げようと思っています。
ただ、10年まえもそうだったんですが、今回もサイコロを振って道を決めるような、偶然にゆだねるような進め方にしたいと思います。何が出てくるか自分にもわからない、どうなるか先がわからない旅にしたいと思います。
私はサイコロで行先を決めることを、「サイコロジカル Psychological」ならぬ、「サイコロロジカル Saikorological」と呼んでいます。サイコロの目は「出たら目」のようだけれど、その目には不思議な「ロジカル
Logical」が宿っている。
心理学者のユングと物理学者ヴォルフガング・パウリはそのことを「シンクロニシティ Synchronicity」と呼んだと思います。
001 考える人を撮る
I took some pictures of Thinker
2013年11月21日午後3時半ごろ、東京上野の国立西洋美術館のまえにあるロダン作「考える人」を撮りました。 たくましい筋肉の存在感が、「考える人」の思考の強靱さを表現していると思います。 長時間集中して粘り強くひとつのことを考え抜いている姿に見えます。
ロダンの「考える人」は裸で考える。
どこどこ大学卒業とか、どこどこ会社の部長であるとか、もろもろの社会的地位や、妻や夫や親や長男といった立場や、日本人やアメリカ人や中国人やロシア人といった国籍や人種や宗教や、学校や家庭や社会で得た知識・教養といった衣装を脱いで考える。
肩書のない、ひとりの人間、虚飾をまとわない裸の人間として。
日常の雑事や仕事や娯楽や家族から離れ、ただひとり座る。
テレビや新聞やスマホの情報から離れ、自分の思考に集中する。
飾り気のないごつごつした裸の岩に座って考える。おのれひとりで考える。 誰の影響も受けたくない。だから書物にも頼らない。 命がけで根底からとことん考える。おのれに向き合い、おのれを見つめ、おのれだけを頼りに考え抜く。
ロダンの「考える人」は、ひょっとしたらこんなことを考えているかも知れません。
いったい人生に意味はあるのか? 人生は無意味ではないのか? そもそも自分はなぜ生まれてきたのか? 何のために生きているのか? 人生に意味があるなら、それはいったい何だろう?
幸せとは何か? 愛とは何か? 神は存在するのか? 宇宙は何のために存在するのか? 宇宙の向こう側には何があるのか? 宇宙の巨大さと比較すると、私たちはコロナウイルスより小さい。いったい私は何者なのか?
人はなぜ死ぬのか? 死んだらどうなるのか? あの世はあるのか? 天国や地獄はあるのか? 輪廻転生するのか? それとも完全な無に帰するのか? 何も残らないのか? どんな生き方をしようと、結局すべて無になってしまうのか? 生きている人の記憶にしか残らないのか?
では魂とか霊と言われているのはいったい何だろう? それは存在しないのだろうか? すべては大脳が生み出すホログラフィー的な幻像なのだろうか?
脳細胞の電気化学的プロセスが魂であり霊なのだろうか? 脳死によって魂や霊も死ぬということだろうか?
それにしても・・・・・
ロダンの「考える人」は、ほお杖をついたこの前屈姿勢のせいで胸が圧迫され、きっと呼吸が浅くなっているに違いない。 肩がこっているかも知れないし、頭痛があるかも知れません。ひょっとしたら便秘かも知れない。
便秘は万病の元であることが知られています。痔や肌荒れ、腹痛だけでなく、高脂血症や動脈硬化、糖尿病、大腸ガン等の原因にもなる。イライラや精神的な不調をもたらすことが知られている。便秘を甘く見てはいけない。
近年、脳と腸の強い相互関係が科学的に実証され(脳腸相関)、「腸は第二の脳」であることは常識として、「腸は第一の脳」と言う過激な医師もあります。「腸は心の鏡」、「心は腸の鏡」と言う医師もいます。
試しにこの姿勢をまねてみると、長く続けるのは苦痛。明るい楽しいことは考えられない。事実、「考える人」は苦悶の表情を浮かべているように見える。長時間座るなら、この姿勢は止めた方がいい。
002 弥勒菩薩半跏思惟像
Maitreya Bodhisattva
この姿勢ならいいと思います。
「みろくぼさつはんかしゆいぞう」・・・この菩薩像に会うために京都太秦(うずまさ)広隆寺を訪ねたのは、京都市立芸術大学美術学部西洋画科の学生時代のことでした。写真はWeb上に出まわっているものを使わせていただきます。
一本の赤松から掘り出した一木造(いちぼくづくり)なので、月日を経て木が歪んできて、少し前屈してしまったという。でも胸を圧迫するほどではありません。
右手は頭をささえてはいません。「考える人」の右手は頭をささえている。半跏思惟像の右手はほおに添えているだけ。これも月日を経て少しほおから離れたという。
右手の薬指と親指を合わせ、ほおに寄せる・・・・・仏像の手のポーズには、施無畏印(せむいいん)や禅定印(ぜんじょういん)や降魔印(ごうまいん)など色々ありますが、これは思惟印(しゆいいん)または思惟手(しゆいしゅ)という印(いん/サンスクリットでムドラー)。
高校3年生の3学期のとき、ふと父の本棚から古い本を手に取った。その本の扉にあったのが上のモノクロ写真でした。このとき広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を初めて知りました。
私は小学校2年生のときから京都市立絵画専門学校(現市立芸術大学)洋画科出身の中島先生の絵画教室に通い、小学校4年からは油彩画を教えていただきました。高校生のときは美大・芸大受験生むけの実技を学ぶために美術研究所に通いました。主宰する宮崎先生も京都絵画専門学校洋画科のご出身でした。
一貫して西洋絵画を学んできたせいもあってか、日本の伝統美術についてひどく無知でした。無知だということにも気づいてなかった。
そもそも「弥勒菩薩」って何? 仏像が「仏」の「像」であるなら、仏様と弥勒様のご関係は? 弥勒様が仏様? では歴史的登場人物であるゴータマ仏陀(釈迦牟尼)は「仏様」ではないの?
この本に掲載されている観音菩薩、阿弥陀如来、愛染明王・・・みなわからない。菩薩? 如来? 明王? 京都生まれで子供のころから色んな仏像を見たはずなのに、実はぜんぜん知らないことに驚きました。
自国の文化について、とことん無知であることを思い知りました。自国の文化を軽視というか、価値ないものと思っていたかも知れない、そのことに気がつきました。
ともかく、これを見て、たいそう美しくて気高いと思った。1400年もまえに作られたものとは思えない。高校の図書室でもっといい写真を探しました。それを見て、「モナリザの微笑」とは違うと思った。何が違うのだろう? そしてロダンの「考える人」とは次元の異なる思考が表現されている、私が知らない何かがあると思った。
このときから「弥勒菩薩半跏思惟像」と「モナリザ」と「考える人」を対比する視点を持ちました。それが私の人生の「公案」になりました。それをまだやっているということです。今書いているこれです。
あとでこの弥勒菩薩像が「東洋のモナリザ」と呼ばれたり、亀井勝一郎が『大和古寺風物誌』のなかで、ロダンの「考える人」と比較していることを知りました。
003 『京都の仏像』
“Buddha statue in Kyoto”
これが広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像のモノクロ写真が載っていた本、京都新聞社編集局編集『京都の仏像』(河出新書)です。長らく段ボール箱のなかで眠っていたので保存状態がいい。この本の「あとがき」にこうあります。
昭和三十年十一月十一日から、百二十四回にわたって、京都新聞夕刊第一面に連載。紙面企画として、ひとつの冒険であったが、読者はこれを異常の熱心さで、支持し歓迎した。
100をこえる京都の仏像の連載企画を新書版にした本です。この本と出会ったとき、大学受験が目前に迫っていました。こんな本を読んでいる場合じゃなかった。
私が目指していたのは、中島先生や宮崎先生の出身校である京都芸大で、実技と学科の試験がある。学科は普通の大学と同様に国語、数学、英語、生物(化学か物理か生物を選択)、日本史(世界史か日本史を選択)の試験がありました。
実技の勉強はともかく、学科の勉強にうんざりしていた。勉強が嫌いなのではなくて暗記が嫌でした。生きものは幼いころから大好きだったし、小説、詩、歴史の本も大好きでした。だから教科書の無味乾燥が耐えられなかった。
歴史の登場人物が、その時代にどんなふうに感じ、どんなふうに考え、どんな表情、どんな声だったかを想像するのが好きでした。その時代にタイムトリップして、その人と対話してみるのが。
「京都新聞編集局之印」という本物の朱肉印が押してあります。昔はそうだった。
大日本帝国はアジア太平洋地域への軍事侵攻を繰り広げていきましたが、沖縄戦、日本全土への空襲、広島・長崎への原爆投下、ソ連対日参戦を経て無条件降伏したのが昭和20年(1945)8月15日でした。
そのとき私の父母は旧制中学の生徒で、16歳の母は兵庫県姫路市で、15歳の父は京都府の日本海側、丹後由良の京都府下中学生選抜航空訓練所で終戦の玉音放送を聞きました。
それから10年後、京都新聞夕刊に仏像の企画記事が連載。終戦10周年記念企画であったのかも知れません。この本は順調に売れたのでしょう。翌年の昭和31年(1956)6月には第10刷発行。発行日の2か月後、その夏8月10日に私は生まれました。
26歳の父は120円でこの第10刷版を買った。まさか将来この本を息子(私)が開いてみるとは思っていなかったでしょう。初めて開いたときから約半世紀の月日が流れ、今またこの本のことをこんなかたちで話題にするなんて・・・・・
004 八月の光
Light in August
1956年8月。写真右の「生後三日」は母の字。撮影はたぶん父。
小さなベッドの中で、ぽつりと現れて小さく息づいている赤んぼう。
おづおづと片目づつ開けて、ぎらつく様な八月の光をうかがっている。
ニヤリ笑ふかと思へば顔の片面づつ表情を変へる。
泣いてもお乳を呑んでも汗まみれになる。
この暑さをどうぞのり切ってくれます様に。
クーラーが無い時代だったから赤ちゃんも暑かった。「分娩直後の疲労の中で」、母がぼんやりしながら手帳に書き止めた内容を、アルバムに書き写したのがこれ↓
およそ世の中の親といふ親が同じ心でうたひあげたであろう感激を私達も今この子の為にうたふのだ
8月の暑い日に母が感激を手帳に書き止めた、私の誕生日8月10日のちょうど11年前のその日の午後3時、山端庸介(Yosuke Yamahata1917 - 1966)は下の写真を撮影 ↓
005 八月の閃光
A flash of August
朝から30度を超す暑さだった。家のまえの田んぼで草取りをしていた。額や背中にまで汗が浮き出てくるので、何度もそでで汗をぬぐいながら作業していたという。
昭和20年(1945)8月9日午前11時2分。
突然、パーッとまわりが白く銀色に光って、すぐにものすごい音と風が吹きつけてきました。前に吹き飛ばされて転がりました。 しばらくうずくまったまま、おそるおそる顔を上げると、あたりはうす暗くなっていた。
あの瞬間のこの写真のお母さんの体験です。連綿と描かれてきた「聖母マリアと幼子イエス」につながる普遍的な母子像、それが1945年のヒロシマ・ナガサキではこんな悲劇的な姿で記録されることになった。あの夏の日、もっと悲惨な瀕死の母子像が水や助けを求めて焦土をさまよった。
「日本史」や「世界史」を学ぶと、「悲劇の母子像」は古今東西普遍的な姿であったことがわかります。人類の歴史は「階級闘争」の歴史だったとマルクス&エンゲルスは『共産党宣言』(1848)のなかで語っていますが、民族間、国家間、宗教間の闘争の歴史でもあったので、「悲劇の母子像」はまさに人類の歴史の普遍的な姿であるといえる。
スペインの画家、ルイス・デ・モラレス(Luis de Morales 1510? - 1586)の「聖母子像」。1562年から1567年頃の制作。
ただただ美しく慈愛にみちた聖母の絵が多くあるなかで、憂いの表情を浮かべる聖母の絵が少なくありません。33年後のわが子の処刑を予見するが故の憂いだという。十字架から降ろされた瀕死のイエスを抱く「悲しみのマリア」も数えきれないほど描かれてきました。
私は2002年1月9日に長崎原爆資料館を訪ねたとき、初めてこの被爆母子の写真を見ました。当時Webサイトにこう書きました。
長崎原爆資料館に一歩踏み入ると息が重苦しくなり、頭も体も重くなりました。絶望的な気分、人間不信的な感情にとらわれました。こんなひどいこと・・・ こんなひどいことが起きたというのに、われわれは何も学んでいない。
長崎大学のWebサイトのなかに「原子爆弾救護報告書」がアップされています。 これは『長崎の鐘』や『ロザリオの鎖』、『この子を残して』の著者、永井隆・医学博士(1908 - 1951)による報告です↓
市民は先ず異状な爆音を聞きすぐついで非常に明るい白色の閃光を見た。地表は美しく紅色に光ったという人もある。之を市民は「ピカリ」と名付けたが全く晴天の霹靂の如くピカリと眼を射た。
而も爆発点に向っていた者も反対方向を向いていた者も同じく、即ち何の方向を向いていた者も同様にこれを見たのであったから閃光は恐らく空一面に散光となって拡がったものであろうか。
爆心近くのものは同時に熱を皮膚に感じた。次で暴風の如き原爆が襲来した。
物理的療法科助教授第11救護隊長 永井隆
「此世の地獄」
地上一切のものは瞬時に粉砕せられ地球が裸になった!
1キロメートル以内では木造建築物は粉砕せられた。鉄筋コンクリートは倒壊した、工場は押しひしゃがれた。墓石は投げ倒された、草木の葉は吹き消され、大小の樹木悉く打ち倒された。
戸外にあった生物は昆虫から牛馬人間に至るまで即死し屋内にあったものは倒壊家屋に埋没せられた。ただ「あっ」と叫んだ間に浦上一帯はかく変相していたのである。
唯一瞬間に。火点は各所に発生し消火活動すべき生存者無きにまかせて忽ちのうちに一面火の海となり、死者も負傷者もおしなべてこの猛火のため見る見る焼かれてしまったのである。
生き残った者も強力な放射線の全身照射を受けて一種の放射線中毒状態に陥って、体力も気力も鈍り戦闘意識を振起することを得ず、活動は極めて不活発であった。
余等は今尚酸鼻の極を呈したこの一刻の光景を眼底より払い去ることが出来ない。しかも又之をよく筆に尽すことも出来ない。古く言伝えられた世の終りの姿と云うべき将又地獄の形相とでも云おうか。
火を逃れて山に這い登る人々の群のむごたらしさよ。傷つける者また瀕死の友を引きずり、子は死せる親を背負い親は冷き子の屍を抱き締め必死に山を這い上る。
皮膚は裂け鮮血にまみれ誰も誰も真裸だ。
追い迫る焔をかえり見、かえり見、何辺か助かる空地はないか。誰か救いの手を貸す知人はいぬか、口々に叫びつ、呻きつ息も絶え絶えに這い登る途中、遂にこときれて動かなくなるものが続出する。
その最中を狂人となって走り回るものもある。焔近く燃えている倒壊家屋の中より救いを求める声は彼処からも此処からも哀れである。
丘の上、谷の道は通り行くに足の踏み場もない程死人怪我人打倒れ、助けて下さいと叫び水を下さいと訴う。
「原子爆弾救護報告書」
物理的療法科助教授第11救護隊長 永井隆
この子「義博ちゃん」は、この時すでにお乳を吸うチカラを失っていたという。原爆投下から12日後にこの子のお兄ちゃんが亡くなり、この子も21日後に亡くなった。お母さんは泣くばかりで葬式にも出られなかったという。
彼女は91歳まで生きぬいたけれど、亡くなった子供たちのことは何年たっても忘れられなかった。原爆投下から半世紀後、彼女はこう語ったという。
原爆のことは思い出すのもいやです。忘れてしまいたいですと。だれにも話したくもありません。
ただ、8月9日の慰霊祭のときだけは、市内まで出かけて二人の息子のためにひたすら祈るとです。
ゆっくり眠りなさい」とね・・・・。でも、何で半世紀過ぎても戦争がなくならんとですかな。 今でも世界のあちこちで殺しあいしとるでしょう。本当に人間はしょうのない生き物だと思いますよ。
京都教育大学・平和資料集「ナガサキのお母さん」
原爆が人類の頭上に投下された最初の地がヒロシマでした。それが1945年8月6日。続いて8月9日にナガサキに投下。大日本帝国が無条件降伏したのが8月15日。それが、死者の魂が家に帰ってきて(8月13日)、また去っていく(8月15日)というお盆の時期に重なっている。
毎年8月のその時期になると、母は戦争の恐さ悲惨さの話をした。教科書的な話ではなく、自身の体験を感情的に、ときには涙を流して子供に聞かせた。戦争中に幼くして肺病で亡くなった母の妹の話も毎年聞いた。だから私の誕生日8月10日は、子供の頃から誕生を祝う時というより戦争や死者を思う時でした。
006 笑う
Smiling
↑生後4カ月の私。
生後52日のとき、母はこんなふうに書いています↓
笑ふ様になった。急になった。いや、もう以前から笑っていたけれど、新生児の頃のいわゆる“虫笑ひ”だと思ってたのだ。
「虫笑い」というのは、医学的には「新生児微笑」とか「生理的微笑」という名称がついていて、何やら難しい科学的なメカニズムがあるらしい。「天使の微笑」という“非科学的”な名称もあるけど。
「虫の知らせ」とか「虫が好かない」、「腹の虫がおさまらない」というふうに、私たちの中にある種の虫が棲みついて、それが意識に作用するという考え方は“非科学的”なタオイズム(道教)に由来するらしい。
生後4カ月。1956年12月。
「ウックン、ウギン、アブン、聞いてると急に色んな事を言ふ様になった」と母は書いている。「ウーブ、ウバウバと何やらしゃべる」とも。
京都新聞社編集局編集『京都の仏像』の「あとがき」にはこうあります。
水爆の脅威にさらされながらも、ようやく生活の安定を得て来つつある今日、日本の人たちが、
その心のいこいを閑寂典雅な古代美にもとめようとするのは、きわめて自然のことであり、そこにこの企画の魅力と、成功の、大きな理由があるといえるであろう。
そして幸いなことには、古都のいたるところに、私たちの求める素材、現代人の琴線に強く響くものが無数に見出された。
すすけた厨子(ずし)の奥深くまつられ、千年のホコリを浴びて、住職すらも拝んだことのない秘仏、悠遠の気韻をこめて、
香煙のかなたから微笑されている如来さまなど、はじめて公開されたものも、いくつかまじっている。
007 神護寺観音菩薩
Avalokiteśvara in Jingo-ji temple
この本に掲載されている仏像は私が見たことのないものばかりでした。この観音菩薩頭部は昭和7年(1932)、高尾神護寺再建の時、多宝塔の下から発掘されたという。天平時代(729
- 749)の作らしい。
今回Web検索してみましたが全くヒットしません。古い本なので印刷が悪い、もっといい写真を見てみたいと思ったんですが、なぜか完璧に出てきません。
当時の私が知らなかっただけでなく、どういうわけか現在も多くのひとが知らない仏像なのでしょう。「住職すら拝んだことのない秘仏」がいくつかまじっていると『京都の仏像』のあとがきに書かれている、そのときのままだということでしょうか?
インド美術がご専門の京都大学の上野照夫教授(1907 - 1976)は、「春の面影」と題して上のような小文を寄せられています。
ホオやクチビルのふくよかさも、あどけない童子の感じ。 豊かな耳、円やかな宝髻(ほうけい=頭上に結んでいるもとどり)柔らかいマユにも、のどかな春の面影がある。 このお顔が観音かどうか、私は確かめていない。しかしこのお顔は観音にふさわしい女性的なやさしさである。
京都帝国大学文学部梵語学梵文学科のご出身で仏教学者・古代インド文学者の岩本裕博士(いわもとゆたか 1910 - 1988)は、「観音」についてこう解説されています(岩本裕著『日常仏教語』中公新書)。
観世音菩薩は・・・中央アジア方面あるいは西アジア方面におけるある女性神格が佛教に採り入れられて、変性男子(へんじょうなんし)の教説に基づいて男性化し、現世利益のほとけとして尊敬されるに至ったことが知られる。(略)
観音というほとけは信者の願望に答えるために種々な姿をしなければならず、さらに他の宗教像とくにヒンドゥー教の神々が投影されて、それぞれに特異な姿像をとるに至った。十一面観音・如意輪観音はその前者の例であり、千手観音・馬頭観音などは後者の例である。(略)
三十三観音には、青頸(しょうけい)観音や葉衣(ようえ)観音のようにインド起源のものもあれば、楊楊(ようりゅう)観音や水月(すいげつ)観音のように明かに中央アジア起源のものもあり、中国起源の馬郎婦(めろうふ)観音もあれば、わが国での起源と考えられる滝見観音もある。
中国において観音信仰の中心となった白衣(びゃくえ)観音もその一つである。
Wikipediaによると、観音菩薩とゾロアスター教の女神アナーヒターや女神スプンタ・アールマティとの関連を指摘する学説もあるという。
古代の日本人が、大乗仏教として受容してきた仏教のなかに、インド起源のヒンドゥ教が混ざっていることは当然のこととして、ゾロアスター教やミトラ教、ユダヤ教、キリスト教、マニ教、グノーシスまで混ざっていることはあまり知られていない。
大乗仏教は中央アジア経由で伝搬していきましたが、その時そこは宗教のルツボだったので、多様な精神文化や美学が混ざっていった。異なる文化・宗教が混淆することを「シンクレティズム
Syncretism」といいます。
008 常照皇寺観音菩薩
Avalokiteśvara in Jyoshokho-ji temple
京都府北桑田郡京北町(現右京区)の常照皇寺(じょうしょうこうじ)の観音菩薩座像。鎌倉時代初期の作。 これも検索してみると、ごく小さな写真がでてくるけれど、この観音菩薩に対する愛情や尊敬が感じられない。この写真の方がずっといい。
撮影にあたった京都新聞写真部の加登藤信(かとうとうしん 1909 - 1996)部長は『京都の仏像』最終ページにある「撮影者のことば」としてこう書かれています。
彫刻像はわずかな照明の変動で表現が無数に変化する。
だから照明道具をかかえて乗り込み、落ちついて、何時間もかけねば、ほんとうのものはできないのかもしれぬ。
だが、解説者の手許には、早目に早目に写真を届けねばならぬので、常に十枚ぐらいのストックの必要があり、一日に二、三枚撮影したこともある。
冒険であったが、懐中電灯一個をたよりに、薄ぐらい本堂の奥深くへふみこみ、黒い漆塗りのトビラをひらいて、フラッシュ・バルブ一、二個でうつし通した。
「フラッシュを焚く」という言葉が残っているように、昔は「フラッシュバルブ Flashbulb」を使っていた。 今の時代はストロボを使う。敗戦後10年という時代だったから、今の時代とは違う苦労があっただろうと想像できます。「撮影者のことば」は続きます。
風のように、突然古寺を訪うのだから無理もないが、なかなか厨子が開けてもらえず、住職に三拝九拝したこともたびたびだったが、
ローソクの淡い光にゆらめく仏たちの慈しみの表情にふれると、そんな苦労は吹っ飛んだ。
009 円福寺達磨大師
Bodhidharma in Enpuku-ji temple
京都府綴喜郡八幡町(現八幡市)円福寺にある達磨大師座像。鎌倉時代末期の作。検索すると、この写真より良いお姿は出てきません。撮影禁止になっているせいでしょうか? これは等身大達磨像としては日本最古のものだという。
見開いた眼は「眼を覚ませ」という沈黙のメッセージを送り続けている。もはや、ぼんやり眠りこけている場合じゃない。眠りこけたまま経済優先にのめりこんだり、科学技術を進化させたり、武器を開発し続けたら、他の生物や地球をまきぞえにして人類も滅びる時代になりました。
科学技術や産業が発展したおかげで、今私たちが使っているパソコンやスマホ、インターネットが使えるようになったんですが、この文明は歴史上最も強力な「諸刃の剣」でした。
いつ滅びてもおかしくありません。
と、元京都芸大学長で哲学者の梅原猛先生(1925 - 2019)は発言された(『近代文明はなぜ限界なのか(2008)』)。眼を覚まさないと地球規模の破局をまねく、この地球はそういう時代に突入しています。
達磨(だるま 5世紀後半 - 6世紀前半)は菩提達磨(ぼだいだるま)の略。菩提達磨はサンスクリットの「ボーディダルマ(Bodhidharma)」の音写(原語に近い発音を持つ漢字を当てた)。南インドの王子として生まれたとされますが、ペルシャ人(現イラン)説もある。禅宗の始祖。
010 広隆寺薬師如来立像
Yakushi Nyorai in koryu-ji temple
「弥勒菩薩半跏思惟像」が安置されている京都太秦(うずまさ)広隆寺には、平安時代初期制作の「薬師如来立像」が秘蔵されている。
清和天皇(850 - 881)の病回復に霊験があったので秘仏とされてきて、現在も年1回だけの公開となっているという。だからほとんどの人は実物を見たことがない、その存在すら知らない。写真撮影禁止なので、インターネット上にもほぼお姿がありません。
「薬師」のサンスクリット名は「バイシャジャグル Bhaiṣajyaguru」。「バイシャジャ Bhaiṣajya」は薬(メディスン)または治療(ヒーリング)を意味する。
「グル guru」は「師(マスター)」。だから「医王仏」とも称される。
欧米では「メディスンブッダ」とか「ヒーリングブッダ」と呼ばれて、ニューエイジ系、精神世界系、ヒーラー系の人々に人気がある。
私の妻は1996年か1998年にヒーリングや瞑想を学ぶためにインドに滞在したとき、現地のヒーリングショップで下のような仏像を購入しました。たぶんチベットの仏像をモデルにして西洋人むけの、みやげものとして量産されているものでしょう。妻はこれが日本で「薬師如来」と呼ばれている仏像とは知らずに購入したという↓
この文章のために庭で撮りました。左手に薬壺を持っている。それが薬師如来の特徴。妻は1998年にも約2カ月インドに滞在しました。その翌年、「ノストラダムスの大予言」で話題になった1999年、彼女はアメリカ人の女性ヒーラーと共に九州旅行することになり、そのタイミングで私は妻と初めて出会いました。九州大分・奥豊後で。
↑こちらはネットで見つけた薬師如来(C)Museum of Himalayan Arts。タンカと呼ばれるチベットの緻密な仏画のスタイルで、ネパールかインドで描かれたものでしょうか。私がネパールに行ったとき(1993)、こういう手描きの仏画をたくさん目にしました。
観光客むけに制作されたものでも、一枚仕上げるのに非常に長い時間がかかる。ものによっては何カ月もかかると聞きました。筆と絵具で丁寧に手描きするものだから時間がかかる。そうすることで印刷物や写真やWebでは表現できない深みがにじみでてくる。
上の薬師如来の仏画は、マスター・ロチョというかたが作者で、作成に3カ月かかったと記述されています。これを安置する場所についての提案もなされています。
家庭、オフィス、病院、診療所、アーユルヴェーダおよび自然治癒センター、医師、治療家に最適です。
美術館、博物館、ギャラリーではないんです。メディスンやヒーリングを意味する「医王」の仏画ですから。
作成には3か月かかりました。 薬の仏陀または治癒の仏陀はバイアジャグルとして認識されており、彼が薬の達人であり「魂と体の医者」であることを示しています。
釈迦牟尼仏と同じように、彼は頭のてっぺんに霊力を象徴するウシュニーサを持ち、僧衣を着てパドマサナに座っています。バイアジャグルは、大乗仏教における釈迦牟尼仏の治癒の一面を象徴しています。
薬師仏陀は常に深みのあるラピスラズリの青で描かれ、左手は薬鉢を持った瞑想ムードラに置かれ、右手は右膝に置かれ、ミロバラン植物(発見された薬用植物)の茎または果実を握りしめています。
「ミロバラン」はインド、ネパール、ブータン、スリランカ、タイなどに自生する樹木で、実をアーユルヴェーダ薬として利用したり、染料として利用するようです[京都市下京区・田中直染料店]。
この薬師仏はラピスラズリ(粉にして顔料化したもの)で描かれているという。確かにチベットの薬師仏は、青く描かれる。それがラピスラズリの色でした。
こちらは1993年にインド・マハラシュトラ州プネー市で買ったラピスラズリ。
大乗仏教の経典「無量寿経」や「阿弥陀経」に、極楽浄土の美しさをイメージする、「金・銀・瑠璃・玻璃 (はり:水晶)」 という表現がありますが、瑠璃(るり)はラピスラズリのことだった。
瑠璃という言葉は「吠瑠璃(べいるり)」の略で、サンスクリット語Vaiḍūrya(バイドゥーリヤ)、 またはその口語・俗語形であるパーリ語のVelūriya(ベールーリヤ)の音写でした。
薬師如来の正式なサンスクリットリット名は「バイシャジャ・グル・ヴァイドゥ・ウリィ・プラバー・ラージャ Bhaiṣajya-guru-vaiḍ-ury-prabhā-rāja」だという。つまり「薬のグル(師)・ラピスラズリ光のラージャ(王)」。ラージャ(王)なんです。だから「医王」と称される。
「ラピスラズリ光のラージャ」というところが、日本では「薬師瑠璃光如来」となり、それが薬師如来の正式なお名前となっている。 薬師には瑠璃色の光のイメージがあって、チベット系の仏画の瑠璃色はそれを表現しているわけです。
「瑠璃って何だろう?」と、松田聖子の「瑠璃色の地球」が流行ったとき思っていました。ソ連軍のアフガニスタン侵攻(アフガニスタン紛争)が長引いている1986年でした。
↑松田聖子「瑠璃色の地球」
争って傷つけあったり
人は弱いものね
だけど愛する力も
きっとあるはず
ガラスの海の向こうには
広がりゆく銀河
地球という名の船の
誰もが旅人
ひとつしかない
私たちの星を守りたい
朝陽が水平線から
光の矢を放ち
二人を包んでゆくの
瑠璃色の地球
瑠璃色の地球
ハートに手をあて、唇は微笑をあらわしている。眼はぱっちり見開いている、その眼玉がアフガニスタンのラピスラズリです。
私はこのかたに圧倒される。なぜって、このかた紀元前2400年頃に生きた古代シュメールの行政官なんです。今、2023年。このかたが生きたのは紀元前2400年、ということは約4400年前の政治家です。
背中にクサビ形文字が刻まれていて、彼が「エビフ・イル」というお名前であることがわかっている。この像を見ると「進歩史観」がぶっ飛ぶ。4400年分、現在のわれわれより劣っているかと思いきや、ヒゲの表現、手やスカートの表現等、べつに劣ってはいない。
もし「エビフ・イル」が4400年後の現代にタイムスリップしたら、どう感じるでしょうか? 最初は自動車や高速道路や新幹線や飛行機や高層ビルや都市の夜景に驚くに違いない。テレビやスマホやインターネットにも驚くでしょう。
でも人間はそれほど変わっていないと感じるかも知れません。「エビフ・イル」から観たら、私たちは4400年後の未来人です。未来人である私たちは今、何をしているだろうか? 何を考え、どのように生きているだろうか? 賢明になっているだろうか? 4400年ぶんの知恵を持っているだろうか?
もし「エビフ・イル」がタイムスリップした先がウクライナの戦場だったとしたら、彼はどんなふうに感じるだろう? いったい人類は何をやっているのだろう? 何のために生きているのだろう?
想像してみよう。これから4400年後の未来を。
成熟した賢明な人々が戦争がない平和な世界を創造しているでしょうか? 貧困や差別や病気を克服し、みんなが歌い踊り歓び幸せに暮らしているでしょうか?
ラピスラズリは古代文明の時代から宝石や顔料として利用された。その原産地がアフガニスタンでした。アフガニスタンのラピスラズリは新石器時代から採掘された。奈良正倉院宝物殿にもアフガニスタンのラピスラズリがはめこまれたベルトが保存されている。
アフガニスタンといえばバーミアンの仏教遺跡が有名ですが、かつては仏教文化が花開き、たくさんの仏像が作られた。ソ連、アメリカ、他のイスラム教国が軍事介入したアフガニスタン紛争の結果として、過激派タリバンの台頭を許し、仏像の多くがその勢力によって破壊された。
戦乱と干ばつに苦しむアフガニスタンで医療活動していた中村哲医師(1946 - 2019)は、かの国に平和と豊かさと健康をもたらすには、100の診療所より1本の水路が必要だとさとり、それを実行されました。
中村先生は現実の生きた医王、ラピスラズリ光の本物のラージャだと思います。あるいは下「011 金毘羅大将」のような人でした。
↑アフガニスタン 永久支援のために 中村哲 次世代へのプロジェクト
↑アフガンに遺した「命の水」 【関西テレビNEWS】
↑良心の実弾〜医師・中村哲が遺したもの〜
011 広隆寺金毘羅大将
Kumbhīra in koryu-ji temple
こちらもほぼ情報共有がなされていません。京都広隆寺にある十二神将の一体、金毘羅(コンピラ)または宮比羅(クビラ)大将。宮比羅=クビラはサンスクリットの「クンビーラ(Kumbhīra)」の音写。クンビーラは元来、ガンジス川に棲むワニを神格化した水神だという。
ガンジス川の聖地ベナレスを訪ねたとき(1993)、私を手招きした青い眼のサドゥー(ヒンドゥ教の苦行僧)が指さす方向を見ると、淡水に生息するイルカが泳いでいました。ワニは見なかった。ガンジス川のワニは、アマゾンに生息するワニと違って極めて大人しく安全だという。
十二神将は薬師如来とその信者を守護する武神。そのリーダー格が金毘羅大将です。
上の金毘羅大将の写真と対になって、京都大学の歴史学の教授、柴田実先生(しばたみのる 1906 - 1997)の「許さじ! 平和を乱すもの」と題した一文が掲載されています。
目に見えぬヴィルスをとらえ、抗生物質を見出した現代医学の進歩はかつては薬師の慈悲に帰せられた病苦からの救済を着々実現しつつあるとはいえ、社会の貧困と文明の爛熟は却って新しい疾病を次々と生み出して来ている・・・・・
それとも又、それは医学の恩恵を万人に行きわたらせることのない現代政治の貧困や、
平和を希求する善良な国民の上に死の灰や放射能の雨を降らせようとする一部の人間に対する激しい怒りを表したものというべきであろうか
敗戦後10年という時代に書かれた文章が、今現代にそのまま使えるというのは、いったいどういうことでしょうか?
2019年に発生した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によるパンデミックが終息するまえ、2022年2月24日にロシア連邦によるウクライナへの軍事侵攻が開始されました。
プーチン大統領とメドベージェフ前大統領はたびたび核兵器の使用をほのめかしています。ひとつ間違えると核戦争や第3次世界大戦を招くことになりかねません。
核を使用したら、核で反撃されるから核を使うことはありえないと分析する軍事評論家や政治家がいますが、歴史はありえないことの連続であったはずです。
というか、別に過去の歴史を勉強しなくても、今現在起きていることが信じられないことばかりじゃないか・・・・・
ビキニ環礁水中核実験(1946)。
太平洋中西部に位置するマーシャル諸島(ビキニ環礁を含む)は無人島ではなかった。歌ったり踊ったり愛したり、裸にちかい姿で平和的に暮らしていた。フルーツが豊富で、魚はいくらでもとれた、
まずスペインが支配、次いでドイツ、第1次世界大戦後は大日本帝国が支配。1944年帝国軍はアメリカ合衆国軍の攻撃によって玉砕。
以後アメリカ合衆国が統治するなかで、1946年から1958年まで67回もの核実験を行いました。67回って、ひど過ぎませんか? 地球に対する巨大な犯罪ではないでしょうか?
1954年3月1日に、アメリカが炸裂させた水爆は、広島に落とされた原爆の1000倍の破壊力だったという↓
静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船「第五福竜丸」はこの水爆実験により被ばくしました。柴田実先生の「許さじ! 平和を乱すもの」というタイトルは、この時のことを指しています。
爆発によって砕けた珊瑚の粉塵はキノコ雲に吸い上げられ、放射能を帯びた「死の灰」となり周辺の海や島々に降り積もりました。放射能は広範な海と大気を汚染したのです。
実験場とされたビキニ環礁とエニウェトク環礁をはじめ、多くの環礁や島が被害を受けたとされていますが、アメリカ政府はビキニ、エニウェトク、ロンゲラップ、ウトリックの四環礁以外の被害は認めていません。
人びとの間ではガンや甲状腺異常、死産や先天的に障がいを持つ子どもが生まれるなど、被害が現れています。 また、いくつかの環礁では故郷の島に戻ることができません。
(東京都立第五福竜丸展示館)
このとき「キノコ雲は34キロメートルに達した」。オゾン層は、地上から約10~50キロメートル上空の成層圏にあります。オゾン層は太陽光に含まれている有害紫外線を吸収することで地球上の生物を守っています。
つまり核戦争が起きると、核爆弾が落とされたエリアの住民が悲惨な目にあうだけでなく、オゾン層が破壊されることによって、その他の地域の住民もガンなどの深刻な障害が急増するだろうと予測されています。
核戦争はどこか遠くで起きるであろう他人事ではすまない。地球全体の危機です。人類全体に危機が及び、全生物に危機が及ぶ。
>>「オゾン層および大気圏外での核実験」(村本尚立氏)
↑米国・ロシアの核戦争シュミレーション
012 中道寺増長天立像
Zōchō_Ten in Chudo-ji temple
京都府北桑田郡京北町弓削中道寺(現京都市右京区)の増長天。藤原時代(894 - 1185)の作。
インド神話に登場する雷神インドラ Indra(帝釈天)の配下・ヴィルーダカ(Virūḍhaka)が、守護神として仏教に取り入れられた。発芽する穀物を意味するサンスクリットに由来するので、「増加」や「成長」を意味する名前なのだという。
立命館大学の末川博総長(1892 - 1977)が「ビキニをにらんで」という一文を寄せておられます。
ビキニの辺りをにらんで「誰だ、ケチくさい水爆の実験などやっているイタズラ者はやめろ」とどなっているかっこうでもあろうか。
末川総長は梅原猛先生の対談集『現代の対話(1966)』でこんなふうに発言されています。
バートランド・ラッセルが1924年出版の『科学の将来』という本に書いているのをよく話すのですが、人間は頭(ヘッド)だけでいまの現代科学をつくり出したけれども、心(ハート)は、キリストや釈迦や孔子などがいろいろと教えた人間の道に沿うておらず、むしろどん欲で悪くなってしまっているところに、問題があるとして、科学の将来を憂慮していたのであります。
すなわち、人間の頭が生み出す科学は無限の可能性を持っていて、それは、原水爆その他の絶対兵器を作り出す危険がある。
だから、そういう頭に並行させて心を高めていくよりほかに人類を幸せにして救う道はない。まあそういうふうに考えねばならぬのでしょうね。
当時、立命館大学の先生をされていた梅原先生はこう答えられた。
個人的な人間関係では、ハートの必要がわかるのですが・・・国家間の問題となるとハートというものは無くてもいいような考え方が非常に多い。
現代科学を生み出すために、アタマの緻密な集中が必要だった。科学の応用としての産業、経済、金融、戦争、政治、医療も同様だった。そのことによって文明は驚異的に進歩・発展し、便利になり豊かになったけれど、何かがおかしい。
ハートが置き去りになっている。ハートなんて無くてもいいように扱われている。教育の現場でも。では、どうやったらハートを育てることができるのでしょう?
子供のころからアタマを使う訓練はなされる。ハートは?
013 浄瑠璃寺吉祥天立像
Kisshō_Ten in Jyoruri-ji temple
京都府相楽郡加茂町(現木津市)の浄瑠璃寺の吉祥天立像。1212年(鎌倉時代初期)に作られたという。吉祥天はヒンドゥ教の女神であるラクシュミー(Lakṣmī)が仏教に取り入れられたものです。ラクシュミー女神と同じく、美と富と豊穣と幸運の女神。
この吉祥天立像はネット上にいくつかアップされています。上の写真はそのひとつ。私は20代前半のころ、実物と出会うことができました。やはり写真と実物は違います。それが置かれている場、空間、波動を感じることも重要だと思います。
仏像・神像が主役だとして、たくさんの脇役や舞台装置(建築物や庭も含めて)があります。その総体が神仏を表現しているので、そうなるとそれを感じるには現地におもむくしかありません。総体を鑑賞したいと思います。写真は表面的・部分的な姿です。
だからといって写真が共有されていなければ、その仏像・神像を知るきっかけが断たれてしまう。近年、欧米の美術館・博物館・図書館は所蔵作品のデジタル化を急速に進めており、パブリックドメイン(公有)化されてきています。
この文章のなかで取り上げる西洋絵画のほとんどは、著作権にとらわれることなく誰でも自由に使える「パブリックドメイン」として公開されている画像を使っています。日本のものはあまりパブリックドメイン化が進んでいないので、とりあえず著作権があいまいな画像をお借りしています。
[使用が許可されていない写真を誤ってアップしている場合は、ご指摘いただきましたら、ただちに削除しますので、よろしくお願いします]
関西学院大学教授で日本美術史の大家、源豊宗(みなもととよむね 1895 - 2001)先生は「艶麗(えんれい)」と題した一文を書いておられます。
この文章の最後のところに
「イタリアルネッサンスのジョルジョーネのヴィーナスのように、この像の女性は、官能的ではない」
とあるのは、どう解釈したらいいのでしょうか?
浄瑠璃寺吉祥天像が官能的ではないとおっしゃりたいなら、「艶麗」というタイトルは怪しい。めったに使われない「艶麗」という難しい漢語を持ってくる意図は何でしょう?
「艶」という字には、ビューティフルに少しセクシーが混じっていると思います。「妖艶」といってしまうと、そこにエロティックが混ざる。「妖艶」ではない、けれど「美麗」でもない。そのあたりの微妙なニュアンスを「艶麗」と表現されたのでしょうか?
そうでしょうか? 少なくとも、ジョルジョーネのヴィーナスが官能的でない、というのはかなり無理があるでしょうね。なぜって、ジョルジョーネのヴィーナスはこれです↓
014 眠れるヴィーナス
Sleeping Venus by Giorgione
女性の豊満な裸体が横たわっている。西洋絵画史初の横たわる裸婦であるという。ジョルジョーネ(1477 - 1510)のヴィーナスは「眠れるヴィーナス」と呼ばれ、「近代美術の出発点」といわれる。
柔らかな肌、右の二の腕から脇、乳房、性器を隠す左手、右足と左足の交差、流れるような曲線・・・これって、かなりセクシーなお姿ではないでしょうか?
官能的な肉体美を描いているのであって、女神の霊性や純潔を描いているのではないと思います。霊性や純潔を表現するなら、よりによりによって素っ裸で横たわるこんなポーズを選ぶ必要があるでしょうか?
源先生、先生はなぜ「官能的ではない」とおっしゃるのでしょう? 官能的な外観の奥にある「純潔」を指摘されているのでしょうか? 官能的であり、かつ純潔であるということでしょうか?
そういえば、古代ギリシャの女神像は豊満な裸体像でありながら、まったく卑猥な印象を受けない。古代ギリシャのヴィーナスを見て鼻血を流す男子はたぶんいないと思います。
制作年は1508年から1510年。日本では応仁の乱(1467 - 1477)が起きて、戦場となった京都は荒廃する。応仁の乱から大阪夏の陣(1615)までが戦国時代(1467
– 1615)と呼ばれています。
このヴィーナスが描かれたころ日本は戦国時代まっただなかでした。その時代の日本人がこの絵を見たら鼻血があふれたと思います。ではイタリア・ルネサンス期の男子は鼻血が出なかったのでしょうか?
貴族の宮廷の奥深くに飾られ、一般大衆が目にするものではなかったので、鼻血の心配はいらなかったのでしょう。でもこのルネサンス期、ヨーロッパもけっして平和な時代ではなかった。
領土争いはもとより、イスラム勢力との戦争もあった。ポルトガルとスペインの大航海時代が始まっており、それはヨーロッパによるアフリカ、アメリカ、アジア大陸への侵略、先住民族の奴隷化、植民地化の時代の始まりを意味します。
1543年、種子島に、ポルトガル人を乗せた中国のジャンク船が漂着し、鉄砲が日本に伝わる。織田信長(1534 - 1582)は鉄砲を活用して戦国時代を終わらせていくわけですが・・・
受験勉強に集中しなくてはいけない時期に『京都の仏像』やニーチェやランボーやボードレールやその他の怪しい本を読んで現実逃避していたにもかかわらず受験には合格し、2回生のとき1年間、ヌードを油絵具で描くクラスに在籍しました。
そのときヌードモデルの若い女性は、必ず立ち姿であるか座っているかでした。横になるポーズは一度もなかった。 先生方は、男子学生が鼻血を流さないように配慮されたのでしょうか?
015 ウルヴィーノのヴィーナス
Venus by Tiziano
30代半ばで夭折したジョルジョーネ(1477 - 1510)の未完の「眠れるヴィーナス」を加筆し完成させたのが、イタリアルネサンスの巨匠ティツィアーノ(1490
- 1576)。ジョルジョーネのヴィーナスの影響を受けて描いたのがこれ。1538年完成。
イタリアのウルビーノ公爵グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514 - 1574)の依頼によって描かれたという。ウルヴィーノ公国にあったので「ウルヴィーノのヴィーナス」と呼ばれる。ウルヴィーノ公国は1443年から1631年までイタリア・マルケ州北部に存在した国家で、現在はウルヴィーノ県として名前を残している。
「ウルヴィーノのヴィーナス」も、美しいご婦人のセクシーなお姿です。ジョルジョーネのヴィーナスは、広々とした野外風景のなかで裸で横たわるという、その設定が超現実的ですが、こちらは室内、しかもベッドに横たわっているので、より現実的というか生身の女性を感じます。
吉祥天やラクシュミー女神が裸になって、ベッドに横たわって色っぽい眼でこちらを見て、片手で陰部を隠しているなんて、ありえません。
ジョルジョーネのヴィーナスは眼を閉じていますが、ティツィアーノのヴィーナスははこちらを見ています。この色っぽい視線、唇、乳首・・・・・彼女は女神なんかじゃない。生身の綺麗なご婦人です。
こういう写実的な裸体や顔の表現に関して、ルネサンス以降の西洋画は圧倒的に優れています。血の通った柔らかな肌を描く。生き生きとした表情、内面まで感じさせる微妙な表情を描く。
ティツィアーノのヴィーナスも官能性を表現しながら、エロティックになりすぎない。官能的でありながら「高貴でもあり、神秘的でもある」と評価するかたもあります。
一方、『トム・ソーヤーの冒険』の作者マーク・トウェインは、「全世界に存在する絵画の中で、最も下品で下劣でわいせつな絵画である」と評したそうです。本心で言ったかのかどうかは知りませんが。
ローマ・カトリックの本拠地イタリアの、教皇のお膝元でこういう生々しい裸体画が次々と生まれていく。もともと古代ギリシャ・ローマ美術は裸体の宝庫だった。
神や天使や聖人やイエスやマリアばかり描いた中世の千年紀が過ぎ去ると、「イエスの復活」ならぬ「ヌードの復活」が始まった。ルネサンスは、禁じられていたヌード、抑圧されていたヌードの復興でもあった。
その復興があったから、極東日本の芸術大学に裸体画を学ぶクラスがあったわけです(今でもあるのかどうかは知りませんが)。裸体画は西洋絵画の大きな柱です。裸体画のない西洋美術史なんて考えられません。
とはいえ、その多くは女性のヌードです。それを欲しがるのは男性であり、その作品が高価なものであるなら、それを入手できるのは支配者、権力者、裕福な商人だった。彼らの奥方はこういう作品のことを、内心どう思っていたのでしょう。
016 ウルヴィーノ公爵グイドバルド2世
Guidobaldo II della Rovere
こちらがティツィアーノのヴィーナスを入手したウルヴィーノ公爵グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514 - 1574)。細長い繊細な指。
画学生時代、私も「細くて繊細な芸術家らしい指」と言われて少しは自慢だった。田舎に暮らして土いじりをするようになってから指がごつごつして太くなった。おかげでずいぶん丈夫になったけれど。
ヨロイ姿ですが、こんな繊細な指だと、きっと武芸に向いていないに違いない。最高の画家の、最高の裸体画を求めた感性と財力の持ち主でもあった。
ところでこの方の股間に何やら大きなふくらみが描かれているのがわかりますか? 犬の右目付近です。
ルネサンス期の王侯・貴族の肖像画にしばしば描かれています。もともとは●●をブラブラさせないための実用的なものだったのかも知れませんが、当時はこれがかっこ良かった。流行だった。
今、こんなふくらみをつけて電車に乗ったりパーティに参加したら、「キモい」とか「キショイ」とか言われるでしょう。が、この時代の身分の高い男性が大真面目にこんなモッコリを付けていた。
017 コッドピース
Codpiece
このお方、イタリアの将軍・貴族、サン・セコンド伯爵ピエル・マリア・ロッシ(1504–1547)も、高価な織物を背景にして、ちょっと気取った感じでポーズされていますが、股間にはモッコリがあります。
モッコリじゃなくて、「コッドピース(Codpiece)」という、ちゃんとした名前がある。Cod+Pieceで、Codは「睾丸」。イタリアの画家パルミジャニーノ(1503
- 1540)が描く。1535年から1539年頃の制作。
ドイツの画家ハンス・ホルバインが1537年頃に描いたイングランド王・ヘンリー8世(Henry VIII 1491 - 1547)。王様も流行のコッドピースを付けておられます。
話は変わりますが、聖書を読んだことがない、キリスト教徒でもない、けれど結婚式は教会で挙げたい。そういうのはプロテスタントの教会は受けいれてくれますが、カトリック教会では無理だと思います。
それとカトリックの場合、原則的に離婚できないという。離婚する場合は厳しい教会審査があって手続きも煩雑だという。結婚に神を介在させたのなら、離婚にも神の介在が必要になるというのは論理的といえば論理的。離婚に神が関係ないなら、結婚にも神は関係ないと考えておくべきではある。
で、結婚も離婚も神とは関係あるけど、何で教会が仕切るの?と考えるなら、カトリックを止めるしかありません。
ヘンリー8世は世継ぎとなる王子が生まれないために、王妃キャサリンに愛想をつかし、離婚・再婚の承認をローマカトリック教会に求めた。
その離婚・再婚を認めない教皇クレメンス7世と対立した王は、「イングランド国教会」を設立し、国王たるヘンリー8世自らが首長となった。1538年、ヘンリーは次の教皇パウルス3世により破門された。ちなみに2022年9月8日からは、チャールズ3世国王がイングランド国教会の首長の地位にあります。
ヘンリー8世はイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、学問芸術を愛し、音楽を作曲し演奏し、詩も書いた。スポーツや狩猟にも秀でた「ルネサンス王」だった。
ヘンリー8世(1491 - 1547)もザビエル(1506 - 1552)と同時代人です。
↑ヘンリー8世作詞作曲“Pastime With Good Company”。この曲、全ヨーロッパ全で人気があったという。
↑ヘンリー8世は6回結婚し、ふたりの妻を処刑した。
018 織田信長像
Oda Nobunaga by Kanō Eitoku
こちらは宮廷画家・狩野永徳(1543 - 1590)が描く織田信長(1534 - 1582)。1584年完成。信長の葬儀又は三回忌のために作られた追善供養のための肖像。
永徳は信長を身近に見た優れた画人なので、似てはいるのでしょう。線描画に陰影のない彩色を施しているだけなので、ルネサンスの肖像画のような写実性、立体感はありません。私が学んだ西洋絵画の方法論とは全然違う。
私はこんなふうに肖像画を描いたことはなかったけれど、レオナール藤田は繊細な線描と西洋絵画的な彩色を統合したユニークな作品を創造しています。
それにしても驚くほど質素なお姿です。それは日本文明の精神性かも知れません。他の武将たちと同様、モッコリいやコッドピースも付けていない。遺影のようなものとはいえ最近まで日本の王、日本の最高権力者であった人です。ルネサンス絵画なら、きらびやかな衣装、豪華な背景、権力を見せつけるような背景が描かれたと思います。
ただし豊臣秀吉(1537 - 1598)が描かせたとしたら、わざと「陰険」なお顔、地味な背景を描くよう命じたかも知れません。冷酷さが強調されているようにも見えます。強烈なカリスマ性を持つ信長ではなく、風采のあがらない自分にこそ注目を集めたい気持ちがあったと想像できます。
もし信長が48歳で亡くなっていなれば、きっと油彩画の写実的な信長像が生まれていたでしょう。信長が築いた安土城の下に、イタリア人神父・オルガンティノ(1533
- 1604)が1581年に設立した日本最初のカトリック神学校「安土セミナリオ」があった。
セミナリオではハープシコード、オルガン、ヴィオラの演奏も教えられ声楽の授業もあった。信長もセミナリオを訪れて、少年たちが奏でる楽器の響きを楽しんだという。九州のセミナリオでは西洋絵画の実技の授業もあった。信長は西洋文明を取り入れていた。戦争に鉄砲を活用した。
↑信長や秀吉が聞いたかも知れない西洋音楽。ジョスカン・デ・プレ(1450/55頃 - 1521)の「千々の悲しみ」、別名「皇帝の歌」。
019 ジョバンニ・ニコラオ
Giovanni Nicolao
これは信長の死後に宣教師が描いた絵を、明治になって写真撮影したものという。原画は消失したそうです。狩野永徳の絵と比較すると、絵画についての基本的な考え方が大きく異なっていると思います。
「肖像ドットコム」のWebサイトは、ナポリ生まれのイタリアの画家・宣教師ジョバンニ・ニコラオ(1560 - 1623)が描いたと推定しています。制作年は1585~86年、洋紙に木炭、若しくはコンテ、銀筆等で描いたとの推定も記述されています。
Wikipediaによると、1583年、イエズス会から日本に派遣され、長崎のセミナリオの画学舎、島原、天草で、油彩画、フレスコ画、テンペラ画、銅版画などの技術指導を行った。その後1614年の禁教令によりマカオへ追放され、1623年に没したとあります。
福井の寺の天井裏で見つかった1600年前後の「聖母子像」。下描きですが、技量の確かな画家によるものだと思います。
「肖像ドットコム」はこう書いています。
『日本美術全集10』(小学館)では、作者がニコラオである確率が高いと解説。二コラオを候補のひとりに挙げることに無理はない。
もし徳川政権による鎖国がなければ、17世紀初期の段階で日本に西洋絵画の技法が普及していたでしょう。 狩野派は油彩画を大量生産していたかも知れません。独自の日本的油彩画が生まれていたと想像します。日本美術史は全く違ったものになり、その影響を受けたであろう西洋美術史もまた違うものになっていたと想像します。
020 11歳の花嫁
11 year old bride = Giulia da Varano
話はもどって、こちらがウルビーノ公爵夫人ジューリア・ダ・ヴァラーノ姫(1523 – 1547)。ティツィアーノ作。
1534年、結婚したとき彼女は11歳だった。ウルヴィーノ公は20歳。
本人の意志とは関係ない「政略結婚」です。みんなが自由に恋愛して、自由に結婚し、自由に離婚できるようになったのは比較的最近の話です。
そしてジューリアが15歳のとき、「ウルヴィーノのヴィーナス」がやって来る。
ふたりの間の最初の子は生後間もなく死亡し、次いで娘が生まれた。そのあと、ジューリアは23歳で夭折。娘も27歳で亡くなり、ジューリアの家系は娘の死とともに断絶したという。
貴族の家に生まれると、生まれたときから素敵な衣装をまとい、美味しい食べ物や音楽や絵画に囲まれて贅沢に暮らすことができるけれど、4歳ぐらいで婚約させられたり、11歳でも結婚しなくてはならない。嫌な相手でも。お爺さんのような歳の相手でも。そして何としてもお世継ぎを出産しなくてはならない。
021 ヴィーナス高級娼婦説
The model of venus = High-class prostitute?
それは妻ジューリアの「性教育」のための絵だったとする説がある。「ウルヴィーノのヴィーナス」の左手は股間を隠しているのではなく、股間を愛撫しているという。つまりマスターベーションしているという超ヤバイ説があります。米国の女性の美術史家、ローナ・ゴーフェン氏(1944
- 2004)の説です。
あるいは若きウルヴィーノ公をその気にさせるためのものだったかも知れない。ジューリアはお姫様育ちで気位が高くて、あまり色気はなかったかも知れません。その点、「ウルヴィーノのヴィーナス」はやけに色っぽい。それもそのはず、このヴィーナスのモデル=高級娼婦説がある。
ルネサンス期のローマやベネチアの女性人口の20%が娼婦だったという学説もあります。政略結婚する時代だったので要職を得るために、貴族の子弟たちは独身を保っていた、そのために娼婦が必要であったという。同時代、京の都も遊女(娼婦)の数が多かったらしい。
下流層向けの娼婦と上流階級の相手をする高級娼婦のふたつの階級があった。高級娼婦は贅沢で華やかな暮らしができたという。
↑16世紀ベネチアを舞台に、美貌と知性を持つ実在の高級娼婦ベロニカ・フランコの半生と恋の行方を描いたアメリカ映画「Dangerous Beauty」。1998年公開。
世紀の名画のモデルが誰であるかはまだ論争の最中で結論は出ていないそうですが、ティツィアーノ作の下の女性と似ていると思いませんか?
髪を編んだところ、髪の分け目、耳の感じ等、よく似ています。「ウルビーノのヴィーナス」より愛らしい印象ですが。全体像が下の画像です。
「毛皮を着た若い女性」と呼ばれるティツィアーノ作(1535-1537頃)。
右の乳首を見せるこのポーズ、公爵夫人にはできないと思います。右手が衣装に手をやっていますが、その手が動くと左の乳房も見せてくれるのかも知れません。けれど下品な印象は受けない。
非常に愛らしい女性だったんでしょうが、ティツィアーノも強く魅せられていると思います。情熱的に描いている。
「ヴィーナス」だとか「妖精」だとか、もっともらしい哲学的意味付けもない、ただ魅力的なひとを魅力的に描いている。脱宗教画を実現している。意味ありげな背景を省き、一人の女性の美しさのみ描く。
これも同じモデル。「羽毛帽子の女性」と呼ばれるティツィアーノ作(1536頃)。
「ラ・ベッラ La Bella」(美女)と呼ばれるティツィアーノ作(1536頃)。
するとどうやらこの方も、同人物であるようです。アイルランド出身の歴史家・美術史家イアン・G・ケネディ氏も、この絵の女性とウルヴィーノのヴィーナスが同一人物であるとする説です。
二人が同人物だとすると、ティツィアーノは彼女の盛装の姿と裸の姿、両方を描いたことになります。モデルが公爵夫人であるならスキャンダルでしょう。でもヴィーナスの正体が高級娼婦だったとしたら、それはそれでアブナイ話ではないでしょうか?
ティツィアーノはこの女性をヴィーナスに仕立てたことになる。ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」を完成させたティツィアーノは、眠って眼を閉じているヴィーナスではなく、生き生きとした眼でこちらを見るこの現実の裸の女性こそが素敵な女神なんだよ、というような姿を描いた。
衣装をまとった姿だとヴィーナスとするには無理がある。衣装は地位や階級や収入や職業といった社会性、世俗性、地上性を表現してしまう。現実感が生まれてしまう。だから衣装をまとうとヴィーナスとはいえない。
ティティアーノは宮廷画家として、衣装によってアイデンティティを示す多くの肖像画を描いた。ギリシャ神話やキリスト教を題材にした絵もたくさん描いた。彼は思ったかも知れない。みんなが想像する神話的宗教的なヴィーナスなんていない。娼婦が衣装を脱いだらヴィーナスなんだよ。空想のヴィーナスではない生身のヴィーナス・・・・
022 高齢の花嫁
Elderly bride = Vittoria Farnese
ウルヴィーノ公は、妻ジューリア・ダ・ヴァラーノが早くして亡くなった翌年の1548年、ヴィットーリア・ファルネーゼ姫(1519 - 1602)↑と再婚。イタリアの宮廷画家ジャコモ・ヴィギ(1510
- 1570)、1566年制作。47歳のお姿。
顔と手しか肌の露出が無い。知的で気位が高い印象です。口元もきりっとしている。髪もベールで隠し、喪服のような装い。いくらでも華やかな衣装があったでしょうが・・・。彼女が聖書を重視していた、ということと関係があるのでしょうか? 右手でつかんでいる小さな肖像に秘密が隠されているかも知れません。
結婚したときヴィットーリアは30歳で初婚だった。いろいろ政略結婚の話が浮上したけれど実らなかったからで、当時の未婚の貴婦人としては高齢になっていた。ウルヴィーノ公は最初は11歳の少女と結婚し、2度目は30歳の姫と結婚することになった。以下、ヴィットーリアとの結婚話が浮上したお相手。
アレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェ公爵、ヴァンドーム公爵、ロレーヌ公爵、クロード・ド・ロレーヌ、デュク・ドーマーレ、フランス国王フランソワ1世の次男であるオルレアン公シャルル・ド・ヴァロワ=アングレーム、ピメンテル、ドゥケ・デ・ベナベンテ、アルフォンソ・ダヴァロス、マルケーゼ・ディ・ペスカーラ、マルケーゼ・デル・ヴァスト、ファブリツィオとヴェスパシアノ・コロンナ、ジャコモ・アッピアーニ・ディ・ピオンビーノ、ヴェスパシアノ・ゴンザガ・オブ・サッビオネタ王子、チャールズ
3 世、サヴォイア公、エマヌエル・フィリベルト・オブ・サヴォイア、ポーランド王ジギスムント2世アウグストゥス。
ヴィットーリア・ファルネーゼの祖父、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿は第220代ローマ教皇に選出されパウルス3世を名のった。パウルス3世の在位期間は1534年から1549年だったら、結婚するとき祖父はまだ教皇の座にあった。
あまたの貴族が教皇の孫娘との政略結婚を望んだ。当時の教皇はローマ・カトリック教会の最高位であるだけでなく、強力な政治的権力者でもあった。
023 教皇パウルス3世
Pope Paulus III
ティツィアーノが1543年に描いた第220代ローマ教皇パウルス3世(1468 - 1549)。教皇の在位期間は1534年~1549年。
ティツィアーノは、高級娼婦のヌードも聖母マリアも教皇も王様や貴族たちも描いた。描くことで人物を見つめた。写実的な表現の奥に、モデルの内面が微妙ににじみでてくる。
イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルたちが男子修道会である「イエズス会」を結成したのが1534年。
パウルス3世の息子がレイプ事件「ファノのレイプ」を起こした(次の記事で触れます)のが1537年。
ティツィアーノが「ウルヴィーノのヴィーナス」を完成させたのが1538年。
ほぼ同時期の話です。まったく相反するヴィーナスとザビエルと「ファノのレイプ」が歴史の舞台に登場するのが同時期だった。
離婚・再婚の教会認可が下りず、イングランド国教会を設立したイングランド王ヘンリー8世を、パウルス3世が破門したのも1538年だった。
パウルス3世が「イエズス会」創設の認可を授けたのが1540年(下)。
パウルス3世の前にひざまずいているのがイエズス会の創立者であり初代総長のイグナチオ・デ・ロヨラ。
「ルネサンス教皇」のひとりとされるパウルス3世はミケランジェロを高く評価し、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」を描かせた。天才中の天才が5年の歳月をかけた渾身の大作が完成したのが1541年。
高級娼婦がモデルだったかも知れない「ウルヴィーノのヴィーナス」を所有したウルヴィーノ公爵グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514 - 1574)が、パウルス3世の孫娘ヴィットーリア・ファルネーゼと再婚したのが1548年。「ウルヴィーノのヴィーナス」の所有者はローマ教皇の義理の孫になった。
極めて厳格で禁欲主義的なザビエルたちイエズス会の修道士たちが、もし「ウルヴィーノのヴィーナス」を見たら、こう主張したかも知れません。 「この絵は悪魔が描かせたに違いない。悪魔が人を誘惑し堕落させるための危険な絵だ。即刻焼却しなさい」。
ティツィアーノは、ザビエルたちが猛烈に非難するであろう絵をたくさん描いています。ザビエルたちは本当に色っぽい裸体画の存在を知らなかったのでしょうか? ルネサンス期の才能のある画家たちが競うように裸体画を量産していたけれど。
この時代、マルティン・ルター(1483 - 1546)のキリスト教改革運動が広まり、パウルス3世はその問題に取り組むために、高校世界史の教科書にも載っていた「トリエント公会議」(
1545)を招集したことで有名。
トリエント公会議のこと、覚えていますか? 試験が終わったら忘れますよね。青春のかけがえのない貴重な時間を、あんな無意味な授業と試験のために浪費しなくてはならないなんて・・・・・
024 教皇のろくでなしの息子
Pope's bastard son = Pier Luigi Farnese
ヴィットーリア・ファルネーゼ姫の父親ピエール・ルイジ・ファルネーゼ(1503 - 1547)。 ティツィアーノ作。アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿
(教皇パウルス3世となる前)の非嫡出子だった。
兵士となったピエールは勇気と大胆さを持ち、強くて大胆である一方で、非常に残忍で冷酷な人間として知られ、同性愛者・男色家であることも知られている。
1537年、「ファノのレイプ Oltraggio di Fano」として知られるようになったスキャンダルが起こる。 ピエールが軍隊と一緒に行進しているときに、20代前半の司教であるコジモ・ゲリをレイプし、ゲリは暴挙の屈辱に耐えられず、数週間後に亡くなった。
父親である教皇パウルス3世の在職中の事件であり、「教皇のろくでなしの息子」と評された。が、ピエールは教皇の息子であるという理由で必ず罪を逃れ、諸州をレイプしてまわった。好きなだけ多くの若者をレイプしたという。
教皇パウルス3世は、そのような息子を初代パルマ公(パルム公国の君主)に任命した。キリスト教は血縁主義ではないと思っていたら、教皇が親族を優遇していた。
そういうのを「ネポティズム Nepotism」といって、政治の世界によくあります。最近も岸田総理の息子さんのことが話題になりました。縁故主義と訳されます。パウルス3世はネポティズム教皇として知られています。
ピエール・ルイジ・ファルネーゼは、娘のヴィットーリア・ファルネーゼがウルヴィーノ公と結婚する前年の1547年、貴族ら数名に刺され、窓から投げ落とされて死んだ(暗殺)。
025 夫の暴力に耐える妃
Suffer from husband's violence
ヴィットーリア・ファルネーゼの母親、ジェローラマ・オルシーニ(1504–1569) 。作者不明。16歳でピエール・ルイジ・ファルネーゼと結婚。
政略結婚だから愛のない結婚であることは仕方がないにしても、凶暴な夫の暴力に苦しみながらも「非凡な気高さ」を持って暮らしていたらしい。同時代の人々の証言によると、彼女は意志の強い知的な女性だったという。
彼女の夫の同性愛行為に関連したスキャンダルは、彼女を特に傷つけなかったとされていますが、そんなわけはないと想像します。ひょっとしたら強い信仰があって、精神の安定を保っていたのかも知れませんが。
026 ウルヴィーノ公と息子
Duke of Urbino and his son
ヴィットーリア・ファルネーゼ妃(1519 - 1602)は9人の子供を産んだけれど、そのうち 3人だけが幼児期を生き延びた。
この絵は「ウルヴィーノのヴィーナス」を所有したウルヴィーノ公爵グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514 - 1574)と世継ぎとなるフランチェスコ・マリア2世・デッラ・ローヴェレ(左の子供)が描かれています。ティツィアーノの作。
この子が大人になった姿が下。
027 最後のウルヴィーノ公
The last Duke of Urbino
ウルビーノ公フランチェスコ・マリア2世・デッラ・ローヴェレ (1549 – 1631) は最後のウルビーノ公。
彼は16歳から19歳にかけて、スペイン最盛期の王フェリペ 2世(1527 - 1598)の宮廷で育てられた。そのとき彼はスペイン人の素敵な女の子に出会い、彼女と結婚したいと思った。けれど父親のウルヴィーノ公爵グイドバルド2世は許さなかった。
1570年、フランチェスコ・マリアが20歳のときエルコレ2世デステの娘、35歳のルクレツィア・デステと結婚。数年後、父親が亡くなって、このフランチェスコ・マリア2世がウルビーノ公となり「ウルヴィーノのヴィーナス」を受け継いだ。
028 妃の不倫
Adultery of the princess
ルクレツィア・デステ妃(1535 – 1598)。フェデリコ・ツッカリ(Federico Zuccari 1542年/1543頃 - 1609)の作。
ルクレツィアは長い間未婚のままだった。35歳のとき、20歳の新しいウルヴィーノ公、フランチェスコ・ マリア2世と結婚することになった。一族の利益のためだけの政略結婚だった。
実はルクレツィアは近衛公爵の隊長であるエルコレ・コントラーリ伯爵と男女関係にあり、その関係は結婚後も続いた。そのごルイジ・モンテクッコリ伯爵と新たな恋愛関係におちた。ルクレツィアはウルビーノ公爵夫人になったものの、若い夫との関係はうまくいかなかった。
結婚後8年過ぎても子供ができなかった。ルクレツィアは夫ウルヴィーノ公爵から梅毒をうつされていた。にもかかわらず、子供ができないのは彼女の老齢のせいだとウルヴィーノ公は主張した。
結局ウルビーノ公爵夫妻は別居することになったが離婚はしなかった、のかできなかったのか、形式上の婚姻関係を維持した。ルクレツィアの死後、ウルヴィーノ公は再婚し、数年後ようやく念願の世継ぎを授かった。
029 14歳の花嫁、50歳の花婿
14 year old bride, 50 year old groom
↑50歳のウルヴィーノ公フランチェスコ・マリア2世が再婚したのは従妹のリヴィア・デッラ・ローヴェレ(Livia della Rovere 1585
- 1641)。画家不明。そのとき姫は14歳だった。
好き合うどおしなら36歳の歳の差なんて関係ないかも知れない。けれどデッラ・ローヴェレ家を断絶から救い、ウルビーノ公国の独立を守る、そのためだけの無理やり結婚。
立派な宮殿で、たくさんの宝石や豪華な衣装や巨匠の絵画に囲まれて暮らすことができたら、さぞかし幸せなことだろう・・・・・ということはないんです。愛情のない関係性では、どれだけ豊かな暮らしをさせてもらっても、それだけでは幸せになれないものらしい。
ウルヴィーノ公はなぜかこの10代の若妻に優しさや愛情を示さなかったという。リヴィア姫もまた36歳年上の夫に惹かれなかった。けれど、どうしても男の子の出産が必要であり、おそらく姫にはそうとうなストレスがあった。
江戸幕府が成立した1603年の翌々年1605年、リヴィア姫が19歳のとき、待望の男の子を出産↓
030 毒殺?18歳で死亡した王子
Poisoning? The prince who died at the age of 18
待望の世継、フェデリコ・ウバルド・デッラ・ローヴェレ(Federico Ubaldo della Rovere 1605 - 1623)。1605年に描かれる。画家不明。
右手に鉄砲を握るフェデリコ少年。1621年、16歳でウルヴィーノ公国を継承し、ウルヴィーノ公爵の称号を授かる。
幼いときに婚約してあったように、16歳でトスカーナ大公フェルディナンド1世デ・メディチの娘クラウディア・デ・メディチと結婚した。彼女は17歳だった。
翌1622年、クラウディアは娘ヴィットリア・デッラ・ローヴェレを出産。
そして翌1623年、18歳のウルヴィーノ公は突然亡くなった。毒物を盛られた可能性が高いが、検視の結果、てんかん発作で死亡とされた。
老いたる父親フランチェスコ・マリア2世が公爵の地位に復帰した。
031 19歳の未亡人
19 year old widow
16歳でウルヴィーノ公爵になったフェデリコ・ウバルド少年の結婚相手クラウディア・デ・メディチ Claudia de'Medici (1604
- 1648)。王子より1歳年上の姫は19歳で未亡人となった。
夫の早すぎる死の後、1626年にクラウディアはオーストリア大公レオポルド5世と結婚し、オーストリア大公妃となり、また新たな宮廷物語が紡ぎだされていく。
032 姫の運命
Fate of the princess
公国の命運をかけた妊娠だったけれど、16歳の若い王と17歳の妃の間にうまれ
たのは女の子だった。
↑ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ姫(Vittoria Della Rovere 1622 - 1694)。父親である王は18歳で亡くなり、母親は他国の王に嫁いで行った。
バロックの画家、ユストゥス・スステルマンス(Justus Sustermans 1597 - 1681)の作。スステルマンスは1621年にメディチ家の宮廷画家になった。教科書にも載っていたガリレオ・ガリレイの肖像画(1636年作)が有名↓
ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ姫は1歳のとき父親が突然亡くなり、母親も4歳のとき他国の王と再婚した。
1634年、12歳で従兄トスカーナ大公フェルディナンド2世・デ・メディチ(Ferdinando II de' Medici 1610 - 1670)に嫁いだので、メディチ家の優れた宮廷画家であったスステルマンスに描かれることになった。
それにしてもルネサンス期からバロック期の時代は綺羅星のごとく優れた肖像画家が存在した。肖像画は、写真技術が誕生するまでは画家の重要な仕事だった。そして優れた画家をお抱えにする財力を持つ貴族・権力者たちが存在した。
宮廷画家たちは、お金の心配なく画業に専念できた、その半面、当然のことながら貴族・権力者の希望する絵を描かなくてはならない。生活は保障されているけれど、好き勝手な絵を描けるわけではない。
好き勝手な絵を描きたいなら、絵を販売する別の方法を考えるか、絵画以外の別の収入手段を見つけなくてはならない。
033 男性を愛した君主
King who loved men
トスカーナ大公フェルディナンド2世・デ・メディチ(Ferdinando II de' Medici, 1610 - 1670)、スステルマンスが描いた12歳の姿。 フェルディナンド2世が11歳のとき父王が病死したので、そんな歳で王の座に即位した。
1627年、スステルマンスが描いた17歳のフェルディナンド2世。18歳の時、ウルヴィーノ公の孫娘である12歳のヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ姫と結婚。
若い王は政治や軍事に向かない優しい性格で、ウルヴィーノ公国を維持できず教皇領となった。「ウルヴィーノのヴィーナス」を所有してきたウルヴィーノ公国はこうして消滅。
フェルディナンド2世とヴィットーリアの結婚生活は「不幸」だったといわれる。王は男性への性的嗜好があった。男性とベッドインしているとき、妃に現場をおさえられたこともあるという。
妃は口うるさい性格になり、王は科学や芸術に逃避した。 「実験生物学の創始者」であり「現代寄生虫学の父」と称される科学者・医師フランチェスコ・レディ(Francesco
Redi 1626 - 1697)も恋人だった可能性があるという。
異端審問で追いつめられたガリレオ・ガリレイ(1564 - 1642)を支え続けたのもフェルディナンド2世だった。
034 ヴィーナスの運命
Fate of Venus
トスカーナ大公フェルディナンド2世・デ・メディチと妃ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ。スステルマンス、1660年代の作。
男子の世継ぎがいなくなったウルヴィーノ公爵家の豊富な芸術遺産はヴィットーリアが相続し、夫フェルディナンド2世つまりメディチ家が受け継いだ。こうして「ウルヴィーノのヴィーナス」は、メディチ家のコレクションになった。
それにしても、このご夫婦は不幸な組み合わせだった。何年も別居したという。地位ある身分なので離婚できず別居したのでしょう。
ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレは老齢になると、モンタルヴェ修道院に長期滞在したという。この肖像画は夫の死後、1680年頃。作者不明。
このご婦人ヴィットーリアは少女時代から老齢になっても、たくさんの肖像画を残しているので、その肖像画を通してこの貴婦人の人生を感じてみることができます。彼女はどうして多くの肖像画を描かせたのでしょうか? どうして二重顎の修道女姿まで写実させたのでしょうか?
さて、巨匠ティツィアーノの名画「ウルヴィーノのヴィーナス」は、所有したウルヴィーノ公国の領主デッラ・ローヴェレ家の人々とその周辺に何をもたらしたでしょうか? 一族が望む幸福、歓び、繁栄につながったでしょうか?
ウルヴィーノ公爵グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514 - 1574)が「ウルヴィーノのヴィーナス」を入手したのが1538年として、ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレが(1622
- 1694)が亡くなった年まで、156年の月日が流れた。
「ウルヴィーノのヴィーナス」は、一族の人々に何をもたらしたでしょうか?
男子の世継ぎがなかったためにデッラ・ローヴェレ家は断絶し、「ウルヴィーノのヴィーナス」はメディチ家に受け継がれる。そのメディチ家もやがて男子の世継ぎがなくなって断絶。
メディチ家歴代の美術コレクションを展示していた宮殿はウフィツィ美術館となり、1769年以降一般公開されるようになった。それは質、量ともイタリア最高の美術館とされ、特にイタリア・ルネサンス絵画の宝庫となっている。
高校生の私はフランスのルーブル美術館とイタリアのウフィツィ美術館には行きたいと思っていました。芸大ではフランス語の授業も1年間受けました。
が、次章以降に話題にしますが、西洋画科で学ぶうちに、西洋絵画から遠ざかっていくことになりました・・・・・
035 ティツィアーノ vs ザビエル
Tiziano vs Xavier
イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルたちが男子修道会である「イエズス会」を結成したのが1534年。
ローマ教皇パウルス3世の息子ピエール・ルイジ・ファルネーゼによる司祭強姦事件「ファノのレイプ」が起きたのが1537年。
ティツィアーノが「ウルヴィーノのヴィーナス」を完成させたのが1538年。
教皇パウルス3世が「イエズス会」創設を認可したのが1540年。
ティツィアーノがパウルス3世の肖像画を描いたのが1543年。
フランシスコ・ザビエルが日本に上陸したのが1549年。
「考える人 vs 菩薩」第2章でザビエルのことを話題にします。ティツィアーノ(1490 - 1576)とザビエル(1506 - 1552)は同時代人でした。
教皇パウルス3世の「ろくでなしの息子」男色家、ピエール・ルイジ・ファルネーゼ(1503 - 1547)も全くの同時代人だった。
ザビエルはパウルス3世の指令でアジア布教を開始し、1549年日本に上陸しました。それは西洋文明と日本文明の出会い、キリスト教と日本仏教の出会いでもありました。出会い、または衝突です。
以上で第一章を終わります。
とりとめない話で、いったい何が言いたいのかさっぱりわからない。それに登場人物が多すぎて混乱する・・・・・と思いつつ道順を決めないで書いています。
綿密な計画を立てて行う団体さん相手の旅行会社のツアーがありますが、今書いているこれはガイドブックを持たない旅です。寄り道、道草、遠回りが多い。「考える人
vs 菩薩」という目的地はあるんですが、そこに到達する決まった道がありません。
このような話題は、数学の方程式やニュートン力学のようにはいきません。答えが決まっているわけではなく、決まった道があるわけでもなく、道も答えもわからない。親や先生に聞いてもわからない、先輩諸氏に聞いてもわからない。考えても考えてもわからない。これはまあそのような話題です(笑)
1929年(昭和4)生まれの私の母は、おそらく私の一族のなかでもっとも長生きしたけれど(93歳)、嚥下するチカラがなくなったので「胃ろうか、みとりか」という最終段階になった旨、担当医師から報告をもらいました(2023/05/22)。
科学のチカラですべてを解明できるという人がありますが、解明できたのは、メカニズムだけです。あらゆる物質・天体に精緻な法則性があるということがわかった。
なぜ精緻な法則性が備わっているのか? ザビエルなら、崇高な神が創造したもうたからだと言うでしょう。それはそれで理にかなっていると思います。というのも神が存在しないなら、なぜ精緻な法則性が備わっていて、カオスではないのかが説明できない。なぜ驚くべき精緻なメカニズムが勝手に働いているのか?
宇宙にしめる原子の割合はたった4.9%だという。宇宙を構成するのはダークエネルギー(暗黒エネルギー Dark energy)が68.3%、ダークマター(暗黒物質
Dark matter)が26.8%と推定されている。暗黒エネルギーと暗黒物質を足したら95.1%。(欧州宇宙機関 European Space
Agency, ESA 2013)
暗黒物質というのは「仮説上の物質」であり、わかならないから「ダーク」というネーミングになっている。つまりほとんどわかならない。
4.9%の「原子」については、原子爆弾や原子力発電のカタチで利用されていますが、原子を構成する基本単位である素粒子について、大きさがあるのかないのかもわからない。それは振動しているというけれど、毎秒数兆回というような摩訶不思議な存在です。
そもそもなぜ振動しているのか、なぜ原子やダークマターがあるのか、なぜ宇宙があるのかわからない。科学が進歩すればするほど謎は深まるのみ。
現代文明はパソコンや高速道路や新幹線を生み出したけれど、「魂」や「霊」について何か飛躍的な解明があったわけではありません。むしろ貧弱な理解になっているようにさえ思われます。
「死」について質問してみたらわかります。
例えば「天国」に行くのだという答えが返ってくる。「天国」に行くのなら喜ばなくてはならない。最高の祝福だと思います。93歳の老いた肉体を胃ろうまでして生存させなくてはならない理由がどこにあるのでしょうか? 2年ぐらい前からほぼ眠っているだけなのに。
ザビエルは「天国」と「地獄」があるという。私の家の宗派は浄土真宗なので、「極楽浄土」があるという。天体望遠鏡では天国は見えない。地球は丸かったので、西方に進んでいけば、もとの位置に戻ってくるだけで西方極楽浄土は無いのかも知れない。
では、見えない異次元の世界に天国や極楽や地獄はあるのでしょうか? 天国と極楽浄土は同じ場所にある同じ異次元世界なのでしょうか? ザビエルは「ちがう!」と言うでしょうね。浄土真宗はどうなのでしょう?
広島の「原爆死没者慰霊碑」には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、原爆で亡くなった人々は今もそこで眠っておられるのでしょうか? 「慰霊碑」というかぎりは「霊」の存在を認め、そのうえで霊に対して「眠ってください」と祈っているのでしょう?
霊は眠るものなのでしょうか?
「005 八月の閃光」で話題にしました「被爆母子」のお母さんは、亡くなった子供たちに「ゆっくり眠りなさい」と祈ったという。彼女の子供たちは戦後約78年たった今でもそこで眠っているのでしょうか?
わが家の宗派では法事のとき、お坊さんが「仏説阿弥陀経」を読経されますが、その経典は西方極楽浄土が存在することを前提とした内容になっています。それは現代の知見からして非科学的迷信なのでしょうか?
現代日本の科学の常識と、ザビエルや浄土真宗の教えの間には、非常に大きなへだたりがあります。科学が天動説をくつがえしたように、金・銀・ラピスラズリ・水晶などが輝く極楽浄土説はくつがえされたのでしょうか?
そうそう1992年、第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920 - 2005)は、ガリレオ・ガリレイの地動説を異端とした裁判が誤りであったことを認め、公式に謝罪しました。ガリレオの死から350年の月日が流れていました。ガリレオ(1564
- 1642)のことも次章で話題にしましょう。
[続く] to be continued later