「考える人 vs 菩薩」
第2章
Thinker vs Bodhisattva
036 西本願寺
Nishi Hongan-ji Temple
京都市下京区西本願寺、1957年(昭和32)3月28日の日付。生後7カ月の私を抱えている母、ハトにエサをやる叔母、後ろに乳母車。
幼い頃、叔母ではなくお姉ちゃんだと思っていました。ちょっと歳が離れているけれど。「はよ、しよしー」と言う彼女の笑顔と声が今も耳に残っています。「早くしなさい」と早口で言われるのと、京都弁のイントネーションでゆっくり「はよ、しよしー」と言われるのでは全然違う。
歩いて20分だったので、母はよく西本願寺で私を遊ばせた。境内は非常に広い(東京ドーム2.3個分)。「古都京都の文化財」として世界文化遺産にも登録。本堂も日本最大規模。私はハトのことしか覚えてないけど。
私はお兄ちゃんになった。弟を抱える母。ハトにエサをやる私。信仰者でも観光客でもない母にとってみたら子供を遊ばせるのに好都合な広くて安全な公園。子供が生き物と触れ合う遊び場。
母は姫路城近くの姫路市街で生まれ育ったので激しい空襲にあった。歳の離れた幼い弟を連れて逃げまどっているときに、米軍戦闘機は自分たちを標的に機銃掃射したという。低空飛行していたので操縦士の姿が見えた。16歳のときだった。
姫路城は奇跡的に焼失しなかったものの、1945年7月3日夜、「姫路大空襲」で街は真っ赤に燃えた。
▶姫路中が真っ赤に燃えた夜(語り部・黒田権大さん)
その体験がトラウマになって、母は長いことアメリカを憎んでいました。「ぜったいに許せない」と言っていた。私が高校生のときジーパンを買おうとしたら、それは米軍兵士(G.I.)がはいていたGパンなので、そんなものを買うなと言った。母のアメリカ嫌いは病的なほどでした。
無差別攻撃したのは米軍だけではない、日本軍もひどいことをしたと父は言った。アメリカを憎んでも仕方がない。戦争を憎むべきだ、憎むべき戦争がなぜ無くならないのか、そこには人類の歴史にかかわる重大な問題がある。それをこそ考えるべきだと。
母はサイレンの音が大嫌いだった。カラダが空襲警報だと感じて身構えてしまうから。今でいうPTSD(心的外傷後ストレス障害)だったのかも知れません。母の感情を父がちゃんと受けとめないとき、「あなたと私の戦争体験は違う。私は死ぬほど恐い思いをした」と怒った。泣いたりもした。
ずっとあとになって欧米人相手にお茶をたてる機会があって、その気持ちが変化した。母のような平凡な普通の主婦が、茶道の伝統を継承していることに感動したオーストラリアの若い女性が、お礼の手紙に「日本のお母さん」と書いてくれた。
その時期、公民館の英会話教室に通った。そのうちアメリカ・サウスカロライナ州に行く機会があり、現地のアメリカ人に親切にされた。そうやってアメリカに対する憎しみが溶けた。
京都は東京、大阪や全国の都市に比べると大規模な空襲は受けていない。当初京都市は原爆投下の第一候補地だった。地形的に原爆の効果を計測するのに都合が良く、そのために空襲などで破壊しない状態で原爆投下しようとしていたという。
京都に原爆が投下されていたら、上の写真は無かったでしょう。
037 花祭り
Buddha’s birthday festival
京都市下京区アソカ幼稚園、1959年(昭和34)5月8日。仏教系の幼稚園の定番、釈迦の誕生日を祝う「花祭り」。これは年少組の記念撮影で、私は前列右から3番目。
仕事だから仕方なくやっているカメラマンが撮ったのかも知れません。みんなつまらなさそうな顔をしています。加藤先生も伏し目になっている。
現在も存在している幼稚園です。私の両親は信仰があって仏教系幼稚園に入園させたのではなく、単に近かったからだと思います。
仏教を庇護したインド・マウリア朝のアショーカ王(紀元前304 - 紀元前232)に由来するとWebサイトに書いているアソカ幼稚園と、「憂いがない」を意味するサンスクリット「アソカ
aśoka」に由来すると書いている園がある。
憂いを意味する「ソカ śoka」に、それを否定する接頭語「ア a-」が付いて「憂いがない」という意味になる。WikiDharmaによると
「a-」は、英語でいえばnon-とかun-とかin-といった、否定概念を作る接頭語に相当する。
インドの言葉には、この「a-」をともなう言葉が非常に多く、通常肯定的な概念で表現する場合も、否定形で表現することが多い。
たとえば、「aśoka」は、心楽しく安らかなことであるが、「無憂」と否定的な表現をする。
宗教文献となると、この傾向はさらに顕著となる。おそらく、「真理・真実は、言葉によっては表現できない」との考えがインドでは支配的であったからであろう。
ウパニシャッドの有名な文句に、「neti neti」(しからず、しからず)がある。これは、本当の自我(ātman)は、いかなる言葉でも指し示せないためであろう。
また、龍樹(ナーガルジュナ Nāgārjuna 紀元150頃‐紀元250頃)は、言葉のもつ限界、自己矛盾を徹底的にあばいている。「不生不滅」に始まるいわゆる「八不の偈」は、真実を前にして、言葉では何も表現できない事を示している。
仕方がないこととはいえ、ザビエルたちは古代から続くインドのスピリチャルな探求を知らない。ヨーガの瞑想、ナーガルジュナの深い洞察、古代中国の老子や荘子の深遠な理解も知らないと思います。
老子は『道徳経』の冒頭で「語りうる道(タオ)は真の道(タオ)ではない。名づけうるものは本当の真理ではない」・・・・・真理は言葉で表現できないと宣言しています。それは時代と地域を超越した理解だと思います。
紀元前2500年頃のインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡には、すでに瞑想する神像が多く発掘されています。そのころアーユルヴェーダ医学も生まれていたという。
ともかくザビエルたちがインドにキリスト教の宣教に行ったとき、その国の高度な精神文明に対して無知であったことは大きく影響したと思います。インド文明や中国文明の影響を受け、それらを神道と融合させつつ独自の文化を育ててきた日本でも、そのことが大きなすれ違いを生んでしまった原因のひとつではないでしょうか。
悪気はなかった、どころか高い理想に燃えて良かれと思って勢い込んで家のなかに入ってきた。が、足もとを見たら土足のままだった。みたいなことが起きたのではなかったかと想像します。
白人による植民地支配からアジアを解放するという理想を掲げた帝国陸海軍部&帝国財閥もまた、アジア各国の文明を理解することなく土足で上がり込んだのかも知れません。
そういうことは古今東西、異文化が出会うときに起こる普遍的なことであり、世界史の教科書にもたびたび登場します。今も常にどこかで起きていることです。
天上天下唯我独尊のポーズをとる仏像に甘茶をかける儀式です。3年間この幼稚園に通い、3年間優しい加藤先生(右上)のお世話になりました。
京都は仏教寺院や神社の密度が非常に高く、幼稚園も仏教系だったので、どっぷり仏教的神道的な精神風土に生まれ育った・・・・・はずなんですが、父母に信仰が無かった影響か、私も仏教や神道の影響を強く受けたという気はしません。
なぜ仏教や神道の影響をあまり受けなかったのか? 私が生まれるまえにちょっとトリップしてみます。
038 池本君からの葉書
The postcard from Ikemoto
終戦間近の1945年5月10日に池本君が香山君(私の父 1930 - 2002)宛に出した葉書。76年前に15歳の旧制中学生が書きました。未整理の父の遺品のなかにありました。父は15歳のときに受け取ったこの葉書を死ぬまで残しておいた。
貴兄には益々元気にて、工場へ御通勤の事と存じます。私も元気にて近き日には工場へ出かけるつもりです。
当時父は学徒勤労動員で戦闘機工場で働いていました。5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏したばかり、池本君はそのことをふまえて書いています。
「伊太利のムッソリーニ殺され、今また獨逸のヒットラー戦死し、獨の無条件降伏報ぜられ欧州戦は終わったと云ってよいでせう。 五カ年間に渡る獨のふん闘も空しくアイツグ枢軸側のぼつ落。いや我々は沖縄の戦ひに勝てばよいのであります。お互いに勝利の日迄頑張りませう。
20万人を超す死者を出し、沖縄の4人に1人が亡くなる悲惨なかたちで6月23日に沖縄戦が終わることを、その時点では池本君は知りようもありません。
ましてや京都が原爆投下の有力な候補地になっていたことなど知るよしもありませんでした。父はお国のために戦闘機にのって死のうと考えていたので、戦争が長引いていたら、私が父の子供として生まれることはなかったでしょう。
039 大谷中學校航空訓練隊
Otani Junior High School Aviation Training Corps
この手紙は父の父親、つまり私の祖父が1944年9月に送りました。
父は旧制大谷中学の生徒だった。大谷中学は東本願寺を本山とする浄土真宗大谷派が経営する学校。
父はその時期、京都府綴喜郡井出町(つづきぐん・いでちょう)で航空訓練を受けていた。Googleで検索しても、井出町に航空訓練所があったとの情報は出てこない。「大谷中学學校航空訓練隊」も全く出てこない。このまま無かったことになってしまうのでしょうか?
ずっとあとになって、父に頼まれて自動車を運転して航空訓練所があった付近を一緒に探索してみたことがあります。当時父母は奈良市の最北部、京阪電鉄・高の原駅のエリアに住んでいた(私も6年ほどそこに同居)。
驚いたことに、グライダー実習を含む航空訓練があった木津川の河原まで20数分で到達しました。そうと知らずに、父は旧制大谷中學時代に航空訓練のために来ていた河原からかなり近いエリアで暮らしていたんです。父は60代半ばになって、そのことを知り、不思議の感に打たれました。
下京区から京都府井出町までそんなに遠くはありません。今なら自動車で40分ぐらいで行ける距離。
もう4~5日で退所できるけれど、気がゆるんでケガなどしないようにと注意している。帰宅日の直前にそんな連絡を送った。9月7日付の手紙だから寒くはないと思うけれど、「寝びえをせぬように」と心配している。父は3兄弟で妹がふたりいたけれど、男の子は父だけ。
040 昭和20年8月15日
1945/8/15
航空兵に志願して死ぬ覚悟でいた。君に忠、父母に孝をと教えられた私たちは死ぬことがその本分を尽くす道であると信じていたのだ。
父の遺品から見つけたメモ書き。終戦の日のことを書いている。君に忠・・・・・主君にひたすらつくす、仕える。この時代、父の書いている「君」は天皇のこと。
父は京都府の日本海側、風光明媚な丹後由良の京都府下中学生選抜航空訓練所でその日を迎えました。そのような訓練所があったこと、ネット検索しても一切出てきません。
グライダーに乗れると思って楽しみにしていたのに毎日の訓練といえば海軍ばりの清掃とランニング、体操ばかりであった。
古くて性能の悪いラジオだったので、8月15日正午からの玉音放送がちゃんと聞き取れなかった。
041 同志社大学
Doshisha University
学生時代の父。同志社でキリスト教と共産主義思想に出会った。私が子供のころ、父はときどき「新島先生は・・・」と創始者・新島襄(にいじまじょう 1843
- 1890)のことを話題にしました。
病弱だった自分の上の妹(私の叔母)にキリスト教の入信を勧めたのは父だった。叔母からそのように聞いた。叔母は終生キリスト教徒だったけれど、父は共産主義に惹かれていった。妹には勧めておいて、自分はキリスト教に染まらなかった。
同志社は戦後、自由なる学園の象徴として脚光を浴びた。同志社に合格出来なければ立命館に入るつもりでいたが、 立命館は戦中、禁衛隊を組織したりなど軍国主義的であったため評価を落としていて、入りたくなかった。
15歳のときには、お国のために死ぬ覚悟をしていた軍国少年が、18歳のときには、戦中に軍国主義的であった立命館に入りたくないと思った。敗戦によって天地がひっくり返った。
昨日まで「鬼畜米英」や「忠君愛国」「天皇陛下万歳」を説いていた教師が、敗戦を境に突然、反軍国主義や民主主義を説く人に変貌したのにはショックを受けたと母は語った。昨日まで正しいとされていたことが、今日は間違っているとされ、教科書に墨を塗った。
父は同志社が創立当時から教育理念として掲げる「自由主義 Liberalism」に惹かれ、その延長で「アプレゲール(戦後派)」的な時代の気分を味わったり、マルクス主義に惹かれていった。
042 アプレゲールの時代
Age of Après-guerre
この頃、同人雑誌らしきものを発行して「ヒロポンかアドルムか焼酎かカストリか」という書き出しでエッセイを書いたことがある。太宰治や織田作之助の小説がよく読まれ、いわゆるアプレゲールの時代であった。あらゆる“権威の否定”をする戦後派に自分も加入した気分でいた。
自分たちは「アプレゲール世代」だったと母が私に話したのは、私が高校生のときでした。そのとき初めて「アプレゲール」という言葉を知りました。私がそれを理解する年頃になったと思ったのでしょう。
父は15歳、母は16歳のときに、「神は死んだ」(ニーチェ)の体験があり、すべてに対して不信感をいだいた。そのニヒリズムの体験を深めていけばニーチェになれたかも知れないけれど、狂人ニーチェになりたい人などまあいない。
いとこ同士であったふたりは数年後恋愛関係になり、私が生まれ、神仏もキリストも信じないけれど、「苦しいときの神頼み」はした。母は平凡な妻・母・主婦として生き、父は平凡な夫・父・サラリーマンとして生きた。正月には初詣し、お盆にはお墓参りし、12月にはクリスマスを楽しんだ。
043 終戦前後
“Around the end of the war” by Sakunosuke Oda
『織田作之助の大阪 (コロナ・ブックス)』 の表紙の写真。 キリストと同じ年齢で亡くなった大阪市生まれの小説家・織田作之助(1913 - 1947)。親しみをもって「オダサク」と呼ばれた。1945年(昭和20)年11月に発表した短文『終戦前後』 が「青空文庫」にあります。以下引用。
小は大道易者から大はイエスキリストに到るまで予言者の数はまことに多いが、稀代の予言狂乃至予言魔といえば、そうざらにいるわけではない。まず日本でいえば大本教の出口王仁三郎などは、少数の予言狂、予言魔のうちの一人であろう。
まことにこの出口王仁三郎という人の生涯と、そのおびただしい予言とは、切り離して考えられぬ位である。ところが、いかに稀代の予言狂とはいえ獄中にあっては、予言癖を発揮する自由がなくなってしまって淋しいことであろうと思っていたら、さすがに雀百まで踊忘れずである。
王仁三郎旦那は、取調べに当った検事に向って、 「昭和二十年の八月二十日には、世界に大変動が来る。この変動は日本はじまって以来の大事件になる」
と予言して、検事に叱り飛ばされたということである。
私は予言というものを大体に於て信じない方であるが、この話を今年の六月頃に聴いた時、何となく「昭和二十年八月二十日」というものを期待するようになった。
六月といえば、大阪に二回目の大空襲があった月で、もうその頃は日本の必勝を信ずるのは、一部の低脳者だけであった。政府や新聞はしきりに必勝論を唱えていたが、それはまるで低脳か嘘つきの代表者が喋っているとしか思えなかった。
空襲後の大阪市街。左端は南海難波駅。
国民の大半は戦争に飽くというより、戦争を嫌悪していた。六月、七月、八月――まことに今想い出してもぞっとする地獄の三月であった。
私たちは、ひたすら外交手段による戦争終結を渇望していたのだ。しかし、その時期はいつだろうか。「昭和二十年八月二十日」という日を、まるで溺れるものが掴む藁のように、いや、刑務署にいる者が指折って数える出獄日のように、私は待っていた。
人にこのことを話すと、 「八月二十日にいいことがあるというのか。ふーむ。八月二十日といえば勝札の抽籤の発表のある日じゃないか」 しかし、そう言いながら、誰もかれも何となく「八月二十日を待とう」という気持になっていた。
無理もない。政府と新聞の言うことが悉く信ずるに足らないとすれば、せめて獄中の予言狂のあやしげな予言を信ずるより外に、何を信じていいだろうか。
例えば、広島に原子爆弾が出現した時、政府とそして政府の宣伝係の新聞は、新型爆弾怖るるに足らずという、あらぬことを口走っている。そしてこれを信じていた長崎の哀れな人々は、八月二十日を待たずに死んで行ったではないか。
原子爆弾と前後してソ聯の参戦があった。その発表をきいた時、私は将棋を想いだした。高段者の将棋では王将が詰んでしまう見苦しいドタン場まで指していない。防ぎようがないと判ると潔よく「もはやこれまで」と云って、駒を捨てるのが高段者のたしなみである。
「日本も遂にもはやこれまでと言って駒を捨てる時が来たな」と、私は思った。その時期はあと十日、八月二十日だ、しかし、この十日を生き伸びることはむずかしいわいと、私は思案した。
空襲後の大阪市街
ところが、戦争の終ったのは、八月十五日であった。その朝、隣組の義勇隊長から義勇隊の訓練があるから、各家庭全員出席すべしといって来た。 「どんな訓練ですか」
「第一回だから、整列の仕方と、敬礼の仕方を教えて、あとは講演です」と、いう。
「僕は欠席します。整列や敬礼の訓練をしたり、愚にもつかぬ講演を聞いたりするために、あと数日数時間しかもたぬかも知れない貴重な余命を費したくないですからね、整列や敬礼が上手になっても、原子爆弾は防げないし、それに講演を聴くと、一種の講演呆けを惹き起しますからね、呆けたまま死ぬのはいやです」
私は隊長にそう答えると隊長はあきれた非国民もいるものだ、こういう非国民が隣組にいるのは心外であるという意味のことを言って、カンカンになって帰って行った。それと行きちがいに、また隣組から、今日の昼のニュースを聞けと言って来た。
畏れ多い話だが、玉音は録音の技術がわるくて、拝聴するのが困難であったが、アナウンサーのニュースを聞いているうちに、 「あッ、戦争が終ったのだ!」
と、直感された。
1936年(昭和11年3月11日)、治安維持法違反と不敬罪で検挙され、丸刈りにされた出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう 1871 - 1948)。六本指は「無罪」を示したと言われる。
さすがの王仁三郎も五日間おくれてしまったわけだと、私は思った。しかし、彼は戦争が十五日に終ったことを聴いて、自分の予言を間違ったと思ったであろうか、それとも当ったと思ったであろうか、彼の言分を聴いてみたいと思った。
直ちに知人を訪問すると、 「大変なことになりましたが、命だけは助けていただきました」と、知人はいう。たしかに、軍部は国民を皆殺しにしようと計画していたのだが、聖上陛下が国民の生命をお救い下すったのであると、私は思った。
知人の家で話をしていると、表を子供たちが、 「――兵隊さんのおかげです……」という歌を、歌いながら通って行った。「皮肉な歌ですね。たしかに兵隊のおかげですよ」
町へ出ると、車内や駅や町角に、「一億特攻」だとか「神州不滅」だとか「勝ち抜くための貯金」だとか、相変らずのビラが貼ってあった。 私は何となく選挙の終った日、落選者の選挙演説会の立看板が未だに取り除かれずに立っている、あの皮肉な光景を想いだした。
標語の好きな政府は、二三日すると「一億総懺悔」という標語を、発表した。たしかに国民の誰もが、懺悔すべきにはちがいない。しかし、国民に懺悔を強いる前に、まず軍部、重臣、官僚、財閥、教育者が懺悔すべきであろうと思った。「一億総懺悔」という言葉は、何か国民を強制する言葉のように聞こえた。
私は終戦後、新聞の論調の変化を、まるでレヴューを見る如く、面白いと思ったが、しかし、国賊という言葉はさすがの新聞も使わなかった。が、私は「国賊にして国辱」なる多くの人人が「一億総懺悔」という標語のかげにかくれて、やに下っている光景を想像して、不愉快になった。
ある種の戦争責任者である議会人がさきに軍官財閥の三閥を攻撃している図も、見っともよい図ではなかった。がかつて右翼陣営の言論人として自他共に許し、さかんに御用論説の筆を取っていた新聞の論説委員がにわかに自由主義の看板をかついで、恥としない現象も、不愉快であった。
だが、私たちはもはや欺されないであろう。私たちの頭が戦争呆けをしていない限り、もはや節操なき人人の似而自由主義には欺されないであろう。右翼からの転向は、ただ沈黙あるのみだということを、私たちは肝に銘じて置こうと思う。
戦争が終ると、文化が日本の合言葉になった。過去の文化団体が解散して、新しい文化団体が大阪にも生れかけているが、官僚たる知事を会長にいただくような文化団体がいくつも生れても、非文化的な仕事しか出来ぬであろう。どこを見ても、苦々しいこと許りだ。
044 日本一の写真1947
The best photo in Japan
坂口さん、これだ! 今日は日本一の写真をうつす。
坂口安吾(1906 - 1955)の数年来の飲み仲間であった写真家・林忠彦(1918 - 1990)は、安吾の書斎を一目見るなり、「これだ!」と叫んだ。 「今日は日本一の写真を写す」と勇み立った。そのときの様子が安吾のエッセイ『机と布団と女』 (1948)に記録されています。
「さア、坂口さん、書斎へ行きましょう。書斎へ坐って下さい。私は今日は原稿紙に向ってジッと睨んでいるところを撮しに来たんですから」
彼は、私の書斎が二ヶ年間掃除をしたことのない秘密の部屋だということなどは知らないのである。
彼はすでに思い決しているのだから、こうなると、私もまったく真珠湾で、ふせぐ手がない。二階へ上る。
書斎の唐紙をあけると、さすがの林忠彦先生も、にわかに中には這入られず、唸りをあげてしまった。
彼は然し、写真の気違いである。彼は書斎を一目見て、これだ! と叫んだ。
背中のうしろの万年床が、文字通りの座布団になっているのがすごい。
1948年(昭和23)正月、坂口安吾は未知の人から、こんな年賀状をもらったという。
しかし、先生は正直ですね。
おだてるのではないが、全く、正直ですよ。
そのショウコが、昨年三十一日、私は小説新潮を見ました。モウレツな勢いで机に向っているのが出ていました。写真がですよ。机の四方が紙クズだらけで、フトンもしきっぱなしになってました。
私は見ているうちにニヤニヤしました。やってるな、なかなか、いいぞ。あのフトンの上に女の一人も寝ころばしておけば、まア満点というもんだが、安吾もそこまで手が廻らんと見える。けれども、とにかくいいぞ。度の強い眼鏡の中の鋭い目玉、女たらし然と威張った色男。ちょッといけますな。この意気、この意気。
先生の小説が騒々しいのによく似てる。ガサツな奴は往々にして孤独をかくしているという、それなんですね、先生は。
あれは天下一品の写真だから買おうと思いましたが、二十円だから、やめました。いやどうも失礼なることを書きならべ申訳ありません。
ほんの2年4カ月ほど前まで、「進め一億火の玉だ」みたいな戦時色一色の世の中だったのに・・・・・手紙の主は、「二十前後、どうも十八ぐらいの年齢じゃないかと思われる」と安吾は書いている。1948年正月、3月生まれの父はそのとき17歳でした。
↑『進め一億火の玉だ』(1942/昭和17)
作詞 大政翼賛会
作曲 長妻完至
行くぞ 行かうぞ ぐわんとやるぞ
大和魂 伊達ぢやない
見たか 知つたか 底力
こらへこらへた 一億の
堪忍ぶくろの 緒が切れた
靖國神社の おん前に
拍手うつて ぬかづけば
親子兄弟 夫らが
今だ たのむと 聲がする
おいらの胸にや ぐつときた
さうだ一億 火の玉だ
一人一人が 決死隊
がつちり組んだ この腕で
守る銃後は 鐵壁だ
何が何でも やり拔くぞ
進め一億 火の玉だ!
行くぞ一億 どんと 行くぞ!
↑ 『みんなそろって翼賛だ』(1941/昭和16)
作詞 西條八十 (1892 - 1970)
作曲 古関祐而(1909 - 1989)
進軍喇叭(ラッパ)で一億が
揃って戦へ出た気持ち
戦死した気で大政翼賛
皆捧げろ国の為国の為ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ
角出せ槍出せ鋏出せ
日本人なら力出せ
今が出し時大政翼賛
先祖ゆずりの力瘤力瘤ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ
おやおや赤ちゃん手を出した
パッパと紅葉の手を出した
子供ながらも大政翼賛
赤い紅葉の手を出した手を出したホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ
岩をも付き抜く桑の弓
一億一心起つところ
御稜威仰いで大政翼賛
やがて東亜の春が来る春が来るホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ
045 もう軍備はいらない
“No more armaments” by Ango Sakaguchi
写真は東京大空襲直後の東京。右上の川は隅田川。橋は両国橋。坂口安吾は『もう軍備はいらない』(1952)というエッセイを書いています。
原子バクダンの被害写真が流行しているので、私も買った。ひどいと思った。
しかし、戦争なら、どんな武器を用いたって仕様がないじゃないか、なぜヒロシマやナガサキだけがいけないのだ。いけないのは、原子バクダンじゃなくて、戦争なんだ。
東京だってヒドかったね。ショーバイ柄もあったが、空襲のたび、まだ燃えている焼跡を歩きまわるのがあのころの私の日課のようなものであった。公園の大きな空壕の中や、劇場や地下室の中で、何千という人たちが一かたまり折り重なって私の目の前でまだいぶっていたね。
1945/05/25 東京大空襲 : 港区青山
サイパンだのオキナワだのイオー島などで、まるで島の害虫をボクメツするようにして人間が一かたまりに吹きとばされても、それが戦争なんだ。
私もあのころは生きて再び平和の日をむかえる希望の半分を失っていた。日本という国と一しょにオレも亡びることになるだろうとバクゼンと思いふけりながら、終戦ちかいころの焼野原にかこまれた乞食小屋のような防空壕の中でその時間を待つ以外に手がなかったものだ。
三発目の原子バクダンがいつオレの頭上にサクレツするかと怯えつづけていたが、原子バクダンを呪う気持などはサラサラなかったね。
オレの手に原子バクダンがあれば、むろん敵の頭の上でそれをいきなりバクハツさせてやったろう。
1945/03/10 東京大空襲
何千という一かたまりの焼死体や、コンクリのカケラと一しょにねじきれた血まみれのクビが路にころがっているのを見ても、あのころは全然不感症だった。
美も醜もない。死臭すら存在しない。屍体のかたわらで平然とベントーも食えたであろう。一分後には自分の運命がそうなるかも知れないというのが毎日のさしせまった思いの全部だから、散らばってる人々の屍体が変テツもない自然の風景にすぎなかった。
人を殺すのが戦争じゃないか。戦争とは人を殺すことなんだ。
1945/03/10 東京大空襲 : 石川光陽撮影「年若い母と子の命を奪つた3月10日の猛火の跡」。子供を背負っていたので、母親の背中は焦げていない。
腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。
めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。
何百万何千万人の兄弟を殺したあげくにようやく戦争に勝ったというようなことが本当の勝利であろうか。
人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。
1945/03/10 東京大空襲 : 福島靖祐さんの絵(墨田区文化資料館)。
空襲の写真は、あまり残っていないが、生存者が数年後に描いた。
1945/03/10 東京大空襲 : 牛込市ヶ谷付近、石川光陽撮影。
戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。
日本ばかりではないのだ。軍備をととのえ、敵なる者と一戦を辞せずの考えに憑かれている国という国がみんな滑稽なのさ。彼らはみんなキツネ憑きなのさ。
戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない。
046 マルクス主義に惹かれる
Fascinated by Marxism
学生として社会の真実を探求し如何に生きるべきかを追求していくに従って、私はマルクシズムという偉大な社会思想や社会科学の体系にひかれていった。
父がマルクス主義に惹かれた背景には、ロシア革命(1917)が非常に素晴らしい革命だったという思い込み、ソビエト社会主義共和国連邦は理想の国家であるという思い込み、幻想があったと思います。
当時父たちは、スターリン(1878 - 1953)による「大粛清」を知らなかった。1930年代の大粛清では、250万人が逮捕され、そのうち68万余が処刑、16万余が獄死したとされる。スターリンによる粛清の死者が800万~1000万人あったとする説もある。
1945年8月9日、長崎で原爆が炸裂した日、ソビエト連邦の赤軍が「対日参戦」。8月15日の終戦が過ぎても侵攻は拡大し、約58万もの日本兵(民間人を含む)をシベリア送りにした。うち5万8千人が寒さと飢えと過酷な強制労働によって死亡したという。
当時父はそのことを知らなかった・・・と思う。シベリアから帰還した日本兵もシベリア抑留の悲惨さを語らなかったという。父が亡くなって久しい今となっては、本当に知らなかったのかどうかを確かめるすべはありません。
いつごろからみんなが知るようになったのか、それも解りません、いろいろ検索してみたけれど、釈然としなかった。
↑[JNN]忘れられた戦争~シベリア抑留の記憶
↑シベリア抑留~米ソ極東戦略~
ナチス・ドイツが無条件降伏したあと、侵攻してきたソビエト赤軍がおそらく200万人のドイツ女性をレイプしたという情報がWikipediaにアップされています。
▶Rape during the occupation of Germany
▶ソビエト連邦による戦争犯罪
戦争で連行されたドイツ軍の捕虜約265万人の内、ソ連の拘留下で47万人が死亡したとされる。100万人死亡説もあります。
ソ連軍に捕まった日本兵だけが悲惨な目にあったのではなく、ドイツ兵もドイツ女性も悲惨な目にあった。敵だけでなくソ連の同盟国の女性たちも強姦の対象となったようです。
学生時代の父は、ナチスや日本軍の悪事は知っていたけれど、ソ連は目指すべき理想の国家であり、ソビエト赤軍は正義の味方だと信じていました。
047 インターナショナルの歌
The Internationale
S26.9.8対日平和条約、日米安全保障条約が調印され、その少し前の7/21には破防法、公安調査庁設置法が公布されている。いわゆる単独講和に反対する学者、労働組合、学生は猛烈な反対運動を展開した。
私もこの頃から学生の街頭デモに参加することになった。「インターナショナル」「平和の歌」「赤旗の歌」「世界をつなげ花の環に」などの労働歌も覚えた。
↑インターナショナル(ロシア語)
↑インターナショナル(日本語)
↑赤旗の歌
↑インターナショナル in 北朝鮮 2023
私が小学生だったころまで、お酒を飲んで気分が高揚したとき父はこういう労働歌・革命歌を歌うことがあった。母はマルクス・レーニン主義の本は読まなかっただけでなく、こういう歌も好きではなかった。共産主義思想も革命も信じてなかったと思う。
母はカーキ色を嫌った。軍服の色だから、と言って。軍人が勇ましく行進する姿も嫌った。戦争を連想させるものはことごとく嫌いました。現実には革命は戦争でした。レーニンも毛沢東もそのように語っています。
↑上にリンクしたロシア語版「インターナショナル」のなかに「私たちは悪の世界を破壊する」という歌詞がありますが、みんながこういって戦争します。プーチン大統領もNATOの悪と戦っていると言っている。
悪の支配から東亜を解放する聖戦だと帝国軍も言った。悪と戦う・・・それは世界史・日本史その他諸々のイザコザに至るまで、この言い草は定番、決まり文句です。
私が子供のころ父母は、ロシア民謡を二人で楽しげに歌っていた。お酒が入らなくても楽しそうだった。明治以来、日本人はトルストイやドストエフスキーやチェーホフを敬愛し、チャイコフスキーやラフマニノフを愛した。ロシアに対する好感度が大変高かったと思います。
父は旧制大谷中學を卒業したあと、最初は同志社外事専門学校のロシア語科に入学したのでした。共産主義を信奉しレーニンを尊敬していたから、ロシア民謡についても特別な思い入れがあったと思います。
048 血のメーデー1952
the 1952 Bloody May Day Incident
S27年の5月1日 独立語最初のメーデーにおいて、東京では皇居前広場に集まったデモ隊が警官隊と衝突して銃撃を浴び、血のメーデーとなった。
京都でもデモの解散予定地の丸山公園近くで警官隊との衝突があり、私もこの渦中にあってプラカードを警官隊に投げつけたりしている。
父は話し言葉も書き言葉もていねいで、穏やかな性格だったんですが、「血のメーデー事件」の時は22歳、燃えたぎるものがあったと思います。
父たちにとってみれば「鬼畜」だった宿敵・米国と戦って死ぬつもりだったのに、その米国が平和と民主主義をもたらしてくれた。戦時中刑務所に入れられていた社会主義者もGHQが釈放してくれた。労働運動も奨励した。日本共産党も敗戦後、GHQを「解放軍」とみなすほど革命的な働きをしてくれた。
けれどソ連との冷戦が激化し、朝鮮戦争(1950 – 1953)が勃発すると、GHQの占領政策は一変。「逆コース」と呼ばれる。
この昭和24年(1949)頃から世の中が暗くて何か重苦しくてならず・・・
と父は書いている。
『戦後史ノート』(恩地日出夫著 1976)にも「朝鮮戦争勃発前後の何とも重苦しい状況」にあったとしているから私だけの感想ではなかったのである。
戦後、食糧危機をはじめ乏しい暮らしの中でも自由と権利が認められ、民主日本の再建を目指していた私たちは早くも逆コースの道に直面せざるを得なかった。
アメリカの共産圏封じこめ作戦による占領軍の権力による圧迫と旧日本・保守勢力の復活と圧迫によるものであった。
S25年、朝鮮戦争が勃発し、我が国も再軍備の方向に歯車が進みだし警察予備隊なるものができた。そして革新的な労働者に対してはレッドパージで職場から追放した。
新聞、放送などの言論機関、公務員、さらに民間労働者までレッドパージで弾圧した。マッカーサーは共産党の非合法化を示唆し、共産党幹部の公職追放を指令した。
こうした動きに再軍備反対、平和を守る勢力もまた大きくなり、学生運動は次第に先鋭化していった。
強い反発や怒り、危機感があって、父は京都丸山公園近くで、警官隊にプラカードを投げつけた。
警官隊だって家に帰ればよき夫であり、夫を愛する心優しい妻があり、まだ幼い可愛い子供があるかも知れないことを、キリスト教理念を掲げる大学の学生(22歳の父のこと)は考えなかった。
↑Tokyo Riots 1952 (British Pathé)
049 暴力革命
Violent Revolution
私も同志社の破防法粉砕闘争委員会推薦で自治会委員候補になっていた。すでに同志社平和に生きる会という団体に入っていたからである。
この団体はもとより、当時の学生運動を完全に支配していたのが暴力革命を主張する共産党主流派であった。党員学生は「革命は明日にでも起こる」という革命の幻想に支配されていたし、私のように党とは一定の距離を保っていた者も、この雰囲気のなかにあったのである。
これはS25年1月にスターリンが「コミンフォルム批判」を発表して主流派を公然と支持し、反主流派を非難し、共産党に武装蜂起を指令してきたからである。
ソ連との冷戦の激化と朝鮮戦争勃発によって、GHQは日本を共産主義への防波堤とする政策転換を行う。一方のソ連共産党は、日本共産党がGHQを解放軍とみなしたのは過ちだと指摘。
日本国内に騒乱を引き起こし、それに乗じて革命を起こす・・・・・それがソ連共産党が指導する「コミンフォルム」(共産党・労働者党情報局)の指令でした。
そのご、日本共産党は1955年の党大会で暴力革命路線の放棄を決議して以来、選挙で多数を獲得することによって民主主義的な改革をめざす政党になっていますが、父が警官隊にプラカードを投げつけた時代は、暴力革命路線だった。
そもそもレーニン(1870 – 1924)が暴力革命を主張した。選挙に基づいた政権交代ではなく暴力革命でなければならないと主張。当時の帝政ロシアの専制政治体制には議会制民主主義なんてないのだから、それを打倒し革命政権を樹立するためには武装闘争しかないということでしょう。
毛沢東(1893 - 1976)は蒋介石の国民党軍との内戦に勝利して中国共産党政権を樹立しました。「革命は銃口から生まれる」と彼は言った。革命は「お絵描き」みたいなものじゃないんだ、と赤い表紙の『毛語録』に書いてあるのを高校生のとき読んだ。そうか、だから血の赤なのかと思った。
日本共産党のWebサイトのなかに、党の設立についてこんな説明があります。
共産主義インタナショナル(コミンテルン)は、1919年3月、レーニンの指導のもとにつくられた国際組織で、43年の解散まで、各国の共産党は、その支部として活動しました。1922年創立された日本共産党は同年11月のコミンテルン第4回大会で日本支部としてみとめられました。
日本共産党は、コミンテルン日本支部として創立した、ということは認識しておきたいと思います。後の章で、画家のポール・ゴーギャンのことを話題にするとき、レーニンについて少し触れるつもりです。
050 住谷教授
Professor Etsuji Sumiya
後に総長になり、現在名誉総長をしておられる住谷教授は最も尊敬する教授の一人であり、社会科学概論も教えていただき思想的影響も充分に受けた。 住谷ゼミをとるものはアカが多く就職は困難であるといわれていたが先生をしたって、あえてこのゼミをとった。
住谷悦治先生(1895 - 1987)は1933年、治安維持法で逮捕されて同志社大学教授を辞職された。1949年に同志社経済学部の先生として復帰され、1963年には同志社総長に就任、3期12年総長を務められた。
同志社の創始者・新島襄と同郷の群馬県のご出身で、東京帝国大学で吉野作造(1878年 - 1933)から学んだ。敬虔なクリスチャンであり社会主義者でした。
▶父を語る「子の見た父の肖像」(住谷一彦) [下に一部引用]
昭和二十年の春、旅順にいた私のところにとどく父の便りには、戦いが終わりに近づいていること、 生命を大切にすることがつねに書かれており、私は便りのとどくたびに非国民的な父を持ったかどでなぐられた。
だがそれこそは父の変わらぬ真情であり、この核があったればこそ、敗戦を迎えたとき、 あたかも堰を破った奔流のごとく、平和と民主主義の新生日本の夜明けに向って恒藤恭・滝川幸辰・末川博各先生らとともに日夜めざましい啓蒙活動に邁進できたのではなかろうか。それは子である私たちからみても眼を見張るものがあった。
▶抗議文1969年6月5日/同志社総長 住谷悦治 [下に一部引用]
現在の大学紛争といえども、国家権力の介入によって 根本的解決をみるものではない。国家権力の介入はかえって学内紛争をこじらせ、学問の自由、大学の自治、学生の民主的自治活動をおびやかすとともに、特に私学の独自性、自主性のみならよき伝統を破壊する虞れがある。依ってわが学園は、ここに大学臨時措置法案に反対の意思を表明し、即刻撤回されるよう強く要求するものである。
051 京大天皇事件
1951/11/12 Kyoto University Emperor Incident
神様だったあなたの手で我々の先輩は戦場に殺されました。もう絶対に神様になるのは止めて下さい。「わだつみ」の声を叫ばせないで下さい。
京都大学学生一同
「血のメーデー事件」の前年1951年(昭和26)、昭和天皇が京都大学に行幸されたとき、このようなプラカードが学内に立てられたという。学生たちは五か条からなる「公開質問状」を作成し、天皇に渡すことを計画していたが拒否された。
一、もし日本が戦争にまきこまれそうな事態が起るならばかつて終戦の詔書において万世に平和の道を聞く事を宣言された貴方は、個人としてでも拒否するように世界に訴える用意があるでしょうか。
二、貴方は日本に再軍備を強要される様な事態が起った時、憲法に於て武装放棄を宣言した日本国の天皇としてこれを控否するよう呼びかけられる用意があるでしょうか。
三、貴方の行幸を理由として京都では多くの自由の制限が行われ、又準錆のために貧しい市民 に遡るべき数百万円が空費されています。貴方は民衆のためにこれらの不自由と空費を希望されるのでしょうか。
四、貴方が京大に来られて最も必要なことは教授の進講ではなくて大学の研究の実状を知り、 学生の勉学、生活の実態を知ることであると思いますが、その点について学生と会って話し合っていただきたいと思うのですが、不可能でしょうか。
五、広島、長崎の原爆の悲参は、貴方も終戦の詔書で強調されていました。その事は私たちは 全く同意見で、それを世界に徹底させるために原爆展を制作しましたが、その開催が貴方の来学を理由として妨碍されています。貴方はそれを希望されるでしょうか。又私たちはとくに貴方にそれをみていただきたいと思いますが、見ていただけるでしょうか。
[あとがき]
私たちはいまだ日本に於て貴方の持っている影響力が大であることを認めます。それ故にこそ、貴方が民衆支配の道具として使われないで、平和な世界のために、意見をもった個人として努力されることに希望をつなぐものです。
一国の象徴が民衆の幸福について、世界の平和について何らの意見ももたない方であるとすれば、それは日本の悲劇であるといわねばなりません。私達は貴方がこれらの質問によせられる回答に心から期待します。
GHQは、ヒロシマ・ナガサキの惨状をオープンにしなかったようです。反米感情が高まるのを避けたかったんですね。でもそれは民主主義的なルールではない。情報統制はGHQが批判する大日本帝国下の新聞・ラジオがやっていたことです。同じことをGHQがやる。
それで京都大学の学生たちが「原爆展」を開催した。その展示会はたくさんの京都市民が来場したという。学生たちはそれを天皇にも見ていただきたいと考えた。
当時の父はたぶん、こういう質問状を書いた京都大学の学生たちに強く共鳴していたと思います。父の書棚には当然『きけ わだつみのこえ』がありました。
052 わだつみの像
Statue of Wadatsumi
ロダン(1840-1917)に強い影響を受けた高村光太郎(1883年 - 1956)に師事し、自身もロダンの影響を受けた本郷新(ほんごう しん
1905 - 1980)の代表作「わだつみの像」。朝鮮戦争が勃発した1950年(昭和25)制作。
京都新聞編集局編「京都の仏像」のなかには、仏像ではない「わだつみの像」が入っています。当初東京大学構内に設置される予定でしたが、不穏な時代背景もあって設置は取り消されました。
翌年の1951年、立命館大学の末川博総長(1892 - 1977)が「わだつみの像」を引き受ける意思を表明。1953年(昭和28)12月8日、太平洋戦争開戦の記念日に立命館大学での建立除幕式が行われた。
私の父が同志社大学を卒業したのが1953年3月でした。平均点80点の成績だったけれど就職が決まらないまま卒業したという。文字どおり「大学は出たけれど」という状態・・・と父は書いています。
「若人の怒り」と題した立命館総長・末川博先生の一文。
理知をみがきつつあった学徒。それが、理祖を無視し知性を否定する戦争に貴い生命をささげねばならなかったいたましい矛盾。その矛盾をつきぬけようとあせりながら、しかも遂に矛盾のために矛盾のうちに散った学徒。その心情の切なさをここに見ることができる。
未来を信じ、未来に生きる。そこに青年の生命がある。その尊い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのが、この像である。
『現代の対話』(1966)という本のなかで、当時立命館大学の先生をされていた哲学者の梅原猛先生と末川総長の対談が収められています。以下そのなかのやりとりです。梅原先生は、私が在学当時の京都芸大学長でした。
梅原
戦争というものの惨禍というものですか、そいういうものを先生も私も腹の底から体験した。何とか今後の人類というものは、日本人ばかりでなく、戦争だけはしてはいけない。それは絶対譲れん線ではないかと思うのです。
末川
僕も、いつもそれが頭にあるのです。それだから立命館の校庭に「わだつみの像」を持ってきたり、いつでも大きな声で戦争反対、平和ということを叫んでおるのです。
↑学徒出陣 昭和18年 文部省映画
↑『きけ、わだつみの声 Last Friends』
1995年東映製作の戦後50年記念作品
↑ 「日本戦没学生手記」“きけわだつみのこえ”
↑「日本戦没学生手記」“きけわだつみのこえ”
053 ロダンの「アダム像」
Adam by Rodin
仏像ではないといえば、京都新聞編集局編「京都の仏像」にはロダンの「アダム像」も登場します。昭和41年(1966)まで京都市役所前にあったという。現在は京都市美術館蔵となっている。
こちらは2013年11月21日、東京上野の国立西洋美術館の前庭で撮りました。
実はロダンの「考える人」は単体で制作された作品ではなく、ダンテの「神曲・地獄篇」やギリシャ・ローマ神話をモチーフとした壮大な彫刻群「地獄の門 The Gates of Hell」に登場する群像の一体です。このアダムもその群像のなかの一体。「地獄の門」の左に配置されています。
この「地獄の門」、とてつもなく大きい。高さ5m40cm、幅3m90cm。ロダンの創造力と哲学の集大成です。門の左にアダム、右にイブが立っています。当日、日暮れまでに次の目的地へ向かいたかったので、群像のひとつひとつは撮れなかった。
高山義三(よしぞう)京都市長(1892 - 1974)が「現代の苦悩」という一文を寄せています。
戦後十年、たくましい精神と肉体を回復した青年たちの清らかな希望と、一方で彼らを取りまき、彼らの希望をぶちこわそうとする不安な世相と・・・・・・
数千万の死者数をだした第2次世界大戦の反省から、人類は世界平和に向け大きく歩みだした・・・・ということにはならなかった。
東西冷戦がグローバル化し、核兵器を中心とするより強力な武器の開発競争が始まった。世界各地で米ソの代理戦争が勃発し、それは今なお続いています。
昨年の2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵略以降、米国によるウクライナへの軍事支援の総額は約298億ドル(約4兆円)にのぼっています(2023/02/21現在)。
ウクライナのシュミハリ首相は26日までに、平時の国家予算のほぼ全額を軍関連の分野に投入しているとの現状を明らかにした。昨年の赤字幅は約311億ドルに達したと記者団に説明。資金繰りは支援国に頼っており、大半はEU、G7、米国やIMFを含めた国際金融機関からの援助で賄っているとした(CNN
2023/02/26)。
054 母のラブレター
Love letter by my mother
父がメーデーでプラカードを警官隊に投げつけた年の翌年、1953年3月に父は23歳になった。母は上のような誕生日のお祝いメッセージを送った。正月に撮った写真から父だけをハサミで切り抜いたと書いている。
「心ばかりのお祝いのごちそうをお上がり下さい」とあります。どこかから切り抜いた料理の写真を加えています。アメリカ嫌いだった母が英語を書いている。
“欲望と云ふ名の電車”の中でビィビィアン・リイ扮するところの人物が「この月の生まれの人はダイナミックな性格で・・・」とか云って、 誕生日で性格を占うところがありましたね。 で、三月生まれと云ふのは、いみじくも心やさしく、みやびやかに、平和で美しい感じがするのです。
↑A Streetcar Named Desire (1951) Trailer
これってラブレターだと思います。父は母から届いたラブレター系手紙を数通残していたんです。2002年に72歳で亡くなるまでです。父しか使わない引き出しに大切にしまってあって、母もその存在を知らなかった。
「038 池本君からの葉書」でアップした葉書や、「039 大谷中學校航空訓練隊」でアップした祖父の手紙もそこにありました。
2006年、母がひとり暮らししていた実家を処分することにし、私も片づけのために実家に帰り、ほとんどのものは業者に廃棄してもらった。この手紙はそのとき私が発見し、母にも内緒でダンボールに入れて持ち帰り、長らくそのままになっていた。
アメリカ憎しの発言ばかりしていた母が、戦後すぐに、“I wish you・・・”なんていう誕生日祝いを書いて、ヴィヴィアン・リーのセリフを話題にしていたなんで驚きでした。
055 母のお見合い写真?
Matchmaking photo of my mother?
左下に「ハラ写真館 ヒメジ モトマチ」という浮出し(エンボス)があります。検索すると姫路市元町の「フォト ハラ」がヒットします。敗戦後の世相が反映していると思います。服、髪、花、背景がかなり質素だと思います。
原さんなのでしょうか? カメラマンは、母が緊張し引きつった顔にならないように非常に苦労されたと想像します。
母は世界大恐慌が起きた1929年(昭和4)生まれ。ニューヨーク・ウォール街の株式取引所での株価暴落が資本主義世界全域に波及。銀行や企業の倒産、失業者の増大・・・・・「不安な世相」がやがて第二次世界大戦をまねくことになってしまった。
生まれてからずっと戦争ばかりだったと母は言っていた。
満州事変(1931 - 1932)、日中戦争(1937 - 1945)、大東亜戦争(1941 - 1945)という、いわゆる「15年戦争」。極めつけが、米軍戦闘機から機銃掃射を受けたことだった。何度も何度もその話を聞いた。
親が強く勧める縁談があって、お見合いすることになった。この写真はたぶんお見合い写真として撮ったものだと思います。
母は本当は大学に行きたかった。古い考えだった父親(私の祖父)は、「女は大学なんか行かなくていい。 良い人と結婚して子供を産んで、立派な人間に育てる、それが女のつとめであり幸せだ」と言ったという。
その発言に反発する激しい気持ちがあったけれど、逆らう勇気がなかったという。考え方が古いというだけで、祖父は優しい人だった。本当はそれほど大学進学を求めていなかったのだろうと想像します。
混沌とした時代だったけれど、大学進学の代わりに「嫁入り修行」として「お茶」「お花」を習うことができた。華道は師範の免許、茶道は師範代の免許を得た。両方とも母の生涯の趣味になった。
母はお見合いしたあと、一生分の勇気をふりしぼってその縁談を断った。そのご、母は父親の弟の息子、つまりいとことお付き合いします。私の父となる学生です。
父が4回生のとき婚約したという。就職が決まらない学生がなぜそんなに急いで婚約したのか、なぜ親たちはそれを認めたのかなと私は疑問に思っていたんですが、革命を夢見て警官隊にものを投げつけるようなことをしていたら、そのうち何をしでかすかわからないと祖父母は不安になったのかも知れません。結婚したら落ち着いてくれると考えて婚約を認めたのでしょう。
母にとってみたら、親の決めた結婚ではなく、自由に恋愛できる喜びがあったと思います。それにしても米軍戦闘機から機銃掃射されてからまだ6年~7年ぐらいしか経っていない。アメリカを憎んでいたはずの母が、アメリカ映画を見ていた。
母はたぶんアメリカ映画を見て自由恋愛を学んだのではないか・・・・・・親の決めた縁談にのって、好きでもない人と結婚している場合ではないと決意したのだろうと想像します。
「欲望という名の電車」はふたりで見たのでしょうか? としたら1952年の「血のメーデー事件」で「ヤンキー・ゴー・ホーム!」を叫んだ若者が、同時にアメリカ映画を楽しんでもいた。
056 京都市立七条第三小学校
Kyoto City Shichijo Third Elementary Primary School
私が入学した京都市立七条第三小学校の木造校舎。担任は杉原先生。私は後列の中ほどにいます。学校まで歩いて10分ほどでした。クラスのみんなは近所の子たちばかりで、幼稚園のときから知っている子がほとんどでした。
ところが父の希望で1年生の2学期に、みんなと別れて大阪府茨木市に引っ越ししました。父はもっと自然の豊かなところで子育てしたいと考えた。確かに当時の茨木市は田畑が多く、一級河川の安威川も、名もなき小川も水がきれいで魚がいっぱい泳いでいました。
家に隣接する畑にモンシロチョウがたくさん舞っているのを見て大感動しました。ここは楽園のようなところだと思った。京都の子供たちと別れた淋しさを感じるひまもなく、新天地のワンパク少年たちが私を誘いに来た。虫とり、魚とり、カンケリ、カクレンボ、鬼ゴッコ、メンコ、草野球・・・放課後は毎日暗くなるまで遊んだ。
新しい家は駅に近かったので、阪急電車とタクシーを利用すれば1時間ちょっとで西七条の実家に戻れた。父は淋しがりやの祖父に配慮して実家に帰るのが便利なところを選んだのでした。
孫(私と弟)の顔を見せたあと、美術館、博物館、動物園、植物園、寺院、神社、嵐山に行きました。私としては美術館や博物館や神社仏閣より、野山の方がうれしかったけれど。
私は出身地を聞かれると「京都市」と答えます。「大阪府茨木市」と答えると「茨木」を知らないひとが多かった。「大阪」と答えると道頓堀や通天閣のようなところをイメージされたりもする。
京都市は幼稚園のころから父に連れられてあちこち見て回ったし、学生の4年間、そして卒業後もよく京都を歩いたので馴染み深い。わかりやすく「京都市」と答えるようにしていますが、本当は茨木市こそ私が育った場所かも知れません。
057 茨木小学校
Ibaraki Primary School
茨木小学校の校庭。かしこまった記念撮影ではありません。私は前列右端にいます。後ろのオンボロ校舎は使っていない校舎です。担任の松田先生は若くて、お兄ちゃんみたいな先生で非常に人気があった。たぶん3年かな。
この写真を見て、12名ほどの名前を覚えています。というのは、このメンバーの多くが、4年生のときにできた新設小学校に移り、そこでも同じクラスになって、卒業まで一緒だったからです。
茨木小学校は、茨木城跡に立てられた学校です。かつて中川清秀(1542 - 1583)というお殿様が茨木城の城主でした。この城は江戸時代初期に廃城になりました。
このことはあとになって知ったんですが・・・・・私が2002年にiターンした旧岡藩・大分県竹田市は、中川清秀公の次男・中川秀成(ひでしげ 1570
- 1612)が初代藩主でした。
茨木市出身の中川公が家臣団を引きつれて、兵庫県三木に移り、そのご大分県竹田市に移って来たのでした。4000騎で竹田に入ったという。一人の武士が何人の家族を連れてきたのか、それを考えるといわば「民族の大移動」だったのだと思います。
中川公は1594年に竹田にiターンした。そうとは知らず、私はその408年後の2002年に竹田にiターンしたわけです。
私は1年の2学期から3年生まで、茨木城跡に建てられたという茨木小学校に通いました。そのあとは・・・
茨木市立茨木小学校→茨木市立大池小学校→茨木市立東中学校→大阪府春日丘高校と進学しました。春日丘高校はJR茨木駅からすぐです。
京都芸大へは茨木市から通いました。芸大卒業後、父の希望で今度は奈良市に移転したんですが、それまで17年ぐらい茨木市民だった。どっぷり茨木育ちだったということです。
058 ザビエル像
Xavier Portrait
教科書にも載っているザビエル像です。大阪府茨木市の北部山間部の隠れキリシタンの民家の屋根裏に隠されていました。当時そのエリアは信仰深いキリシタン大名として知られる高槻城の城主・高山右近の領地でした。
そして高山右近と茨木城の城主・中川清秀は、いとこ同士でした。茨木市と高槻市は隣接する市で、阪急電車でもJRでもすぐに到着します。高槻に友人がいたので、自転車でよく遊びに行きました。高山右近像が立っていたその姿もよく覚えています。
このザビエル像のようなこんなハートの絵、見たことがありません。「ハートが熱いぜ!」みたいな漫画チックな表現です(悪い意味ではありません)。熱いハートから十字架が飛び出て輝いているのか、輝く十字架がハートに刺さっているのか、それを色違いの羽を持つ天使が雲間から観ています。
「文化遺産オンライン」に下記のような説明があります。
トルセリーノ『ザビエル伝』は、インドのゴアで目撃されたあるエピソードを紹介しています。ザビエルは早朝に教会の庭で祈っている際に、瞑想の中で神の愛に触れて意識を完全に失いました。
その後、彼が我に返ると、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて、何度も次の言葉を、かなり強い口調で繰り返したとのことです。「充分です、主よ、充分です(Satis
est Domine, Satis est.)」と。
その言葉はこのザビエル像の口のそばに描かれています。茨木市で発見されたザビエル像は、イタリアの歴史家・イエズス会士、オラツィオ・トルセリーノ(Orazio
Torsellino 1545 - 1599)の著作『ザビエル伝』(1594)がとりあげたザビエルの神秘体験を表現しているということです。
この『ザビエル伝』のなかに、胸に両手を当てるこのザビエル像のもとになった銅版画が刷り込まれている。それが下です。
実際にザビエルを知る人が描いた絵をもとに作られた銅版画だという。天にまします創造主を見上げる眼なんでしょうが、白目が目立ちすぎて不自然または不気味ともいえる。超自然的な眼を描くことで、ザビエルの神秘体験や強い信仰を表現しようとしたのでしょう。
茨木市に隠されていたザビエル像は、この絵をもとにしながら、ハートと十字架と天使を描き加えている。「文化遺産オンライン」はこう説明しています。
本像を描いた日本人絵師とその周辺にいた西洋人宣教師が独自に追加した表象だった可能性もあります。
この黒一色の銅版画をもとに彩色画を生みだす際に、こういう独自の創造を行った可能性があるということです。目玉も、異様な印象を受けないように描かれているので銅版画より穏やかな表情になっています。
ガンダーラで生まれた仏像が日本に伝わると、日本的な独自の表現がなされていったことと同じことがキリスト教絵画においてもなされたということです。
059 1549年8月15日
August 15, 1549
上の写真は鹿児島市の「ザビエル上陸記念碑」(C)鹿児島県観光連盟
大東亜戦争敗戦の玉音放送は1945年8月15日でした。
父は私にこう言いました。
1853年、ペリーの黒船が日本にやって来た。そのことが明治維新につながり、明治政府は欧米列強に対抗できる軍事力の拡大と近代化を急いだ。そうして日本民族が経験したことのなかった巨大な近代戦争の泥沼にはまっていった。
結局はアメリカと戦うことに成らざるを得なかった。真珠湾攻撃は黒船がやってきたときからの必然だった。戦力・国力が圧倒的に優位なアメリカとの戦争は当然のように敗北する。1945年8月15日の敗戦の玉音放送は、ペリーの黒船がやってきたときから運命づけられていた。
父の行きつけの小さな飲み屋で、そんな話をした。「おまえはどう思う?」と言う。飲み屋のおかみさんが「息子さん?」と聞いた。遺伝子のなせるワザで顔も声も似ているからすぐばれる。
「息子さんと一緒に飲めるなんていいですね」とおかみさんが言うと、父はちょっとてれたような、うれしそうな顔をした。
歴史に必然というのがあるのかな? 歴史の進行というのは決まった道筋しかないのかな? 歴史は変えられないのかな? 人間の意志や思いによって歴史の流れを変えることはできないのかな? と私は問いかけた。
父はその問いに答えられなかった。東欧の共産主義国で政変が起き(東欧革命)、中国では天安門事件が起き、ソ連の崩壊が起きていて、父の思考のなかでもマルクス主義的な唯物史観がゆらいでいた。そして自分の息子(私)は、10年やってきたグラフィックデザインの仕事をやめて、インドに行くつもりだと言う。
父の卒業論文のテーマは「明治維新」だった。幕末、明治維新から大東亜戦争への歴史の流れを考えてきた。そして敗戦後のアメリカによる占領統治、高度経済成長、公害問題の発生への道筋は父の「自分史」が交差してくる。その先の明るい未来を構想したかったけれど、ついにかなわなかった。
父が亡くなったあと、ときには父の言っていた黒船から真珠湾攻撃、ヒロシマ・ナガサキ、敗戦、高度経済成長、公害問題の歴史の流れを思い出した。フクシマ原発事故のときでした。
それで思い至ったのは、どうして黒船が日本にとってあれほど大きな衝撃だったのだろうということです。江戸時代に鎖国していて、西洋文明の近代化・産業革命がわからなかったからです。
それでは、どうして鎖国しなくてはならなかったのか、それを思うとザビエルや鉄砲伝来に行きつきました。ザビエルや鉄砲というのは大雑把な象徴ですが、父が語ったのは黒船来航の1853年。私はザビエル日本上陸の1549年までさかのぼって「運命」の話をしたい・・・
ザビエルが鹿児島に上陸した約300年後、西洋文明と日本文明はもっと熾烈な衝突をしていく。1863年8月15日には、薩摩とイギリス艦隊の戦争が勃発(薩英戦争)しました。
私が父に問うた「歴史的必然」や「運命」があるかどうかは別にして、ザビエルやイグナチオ・デ・ロヨラたち6名がフランスのパリ・モンパルナス丘陵のサン・ドニ聖堂で神に生涯を捧げることを誓ったのが1534年8月15日、その日が「イエズス会」の創立日となっている。
そしてザビエルが初めて日本に上陸したのが1549年8月15日。8月15日は聖母マリアが昇天したとされる祝日であり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げたという。その日からちょうど396年後の8月15日、大日本帝国は西洋近代文明に対して無条件降伏したのでした。
060 ザビエル vs 忍室
Xavier vs Ninshitsu
上の写真(C)KAGOPIC(鹿児島市の観光スポット)
鹿児島市にある薩摩藩主島津氏の菩提寺、曹洞宗福昌寺。その第15世住持である仏照大円禅師忍室(?-1556)の墓(写真中央)。肖像画が残されていないのかも知れません。ネット上に発信されていないようなのでお墓の写真をお借りします。
特に大きなお墓でもなく風化していて、表示がなければ、これが忍室和尚のお墓であるとはわかりにくいようです。
1549年8月15日、フランシスコ・ザビエル(1506 - 1552)が日本に上陸。それが鹿児島市でした。薩摩藩主島津貴久(しまづ たかひさ
1514 - 1571)に謁見し、宣教の許可を得ました。
ザビエルはナバラ王国(現スペイン領)出身、忍室は薩摩の人。
ザビエルはキリスト教の神父、忍室は禅の老師。
ザビエルは43歳。忍室は80歳。
今ならそういう出会いもあるでしょうが、1549年当時は奇跡的な出会いだったと思います。忍室和尚は、ザビエルに対して友好的に接した。ザビエルもこの老師が尊敬にたる人物だと思った。
ザビエルは忍室和尚に誘われて、和尚が指導する福昌寺の僧堂を訪ねる。このときザビエルが見た奇妙な光景をイエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532
- 1597)が伝えています。
僧侶たちは一年のうちに百日間、一定の一時間ないし二時間静慮に耽る慣習をもっている。彼等はこれを坐禅と称し、無の法則について静慮して巧みに良心の呵責を抑えようとする。
彼等はその姿勢に、何かこの世のものならぬ静観に恍惚としているかのように、慎みと専念と安らかさとを示していた。
ある時、ザビエルが住職であるこの老僧といっしょに、僧侶たちが皆静慮に耽っている一堂を通って行った時、「この修道者たちはここで何をしているのですか」と忍室に聞いた。
すると、忍室はにっこり笑って、「ある者は過去数ヶ月間に信徒たちからどれだけ収入があったかを勘定しており、ある者は自分たちのためにもっとよい着物や待遇がどこで得られるかを考え、
またある者は気ばらしや閑つぶしのことを考えているので、要するに、何か価値のあることを考えている者は一人もありません」と答えた。
驚くべき返答。ザビエルはビックリ仰天したのではないでしょうか?
ザビエルたちイエズス会の修道士は、神やイエスやマリアを観想し、それとひとつになろうとする。トルセリーノの『ザビエル伝』の銅版画も、茨木市に隠されていたザビエル像もそれを表現している。
ところが忍室和尚が言うには、禅僧たちは、お金のことや服のことや気晴らしのことを考えている・・・・・価値のあることを考えている者はいない。そんなふざけた話があるでしょうか????
061 アタマのなかのオシャベリ
Chatter in our head (Inner Chatter)
参禅会・座禅会などに参加した方は体験されたかも知れません。座禅してみると、「無念無想」どころじゃない。アタマの中にとりとめのないオシャベリが勝手にやってきて、それがうるさくて「無の境地」なんて程遠い。
むしろ座禅のせいで、アタマのなかのオシャベリがひどくなったような気がするほどですが、自覚しようとしまいと、私たちのアタマというのは、一日中、オシャベリが往来する。
カナダのクイーンズ大学 Jordan Poppenk & Julie Tseng 2020 の研究によると、人間は1日に約 6,000回の思考を行っているという。とすると、1分間に約 6.5回の思考があり、9秒ごとに思考していることになります。
上記研究者は“Thought”(思考すること)という言葉を使っています。私はこのタイプのアタマのオシャベリのことを「思考」と呼ばないことにします。
正確に計算したり、方程式をといたり、論文を書いたり、人前でスピーチしたりするときにときに行う能動的な緻密な知的集中を「思考」と呼んでおきます。
コントロールできない脈絡のない断片的なアタマの無意識的オシャベリと、意識的論理的にコントロールして結論を出していく明晰な「思考」を、ごっちゃにすると誤解が生まれます。
私自身が誤解した時期があって、思考を遠ざけることにやっきとなった。そうしたからといって、アタマのオシャベリに悩まされることが無くなることはなかった。ただ思考力の低下を招いただけだったと思います。
エビデンスを確立していく論理的な科学的思考と、恣意的・偶発的・断片的・心理的思考を一緒にされたら、科学者だったら怒ると思います。なぜクイーンズ大学の先生は、“Thought”という言葉をお使いになるのでしょうか?
と思って調べたら、“Thought”には「ランダムに思い浮かぶ考え」「突然浮かんだ考え」「一時的な考え」「思いつき」みたいなニュアンスがあるようです。
だったら“Thought”でもいいかと思いますが、日本語訳だと“Thinking”と同じ「思考すること」「思考」になってしまうので、私が書く場合は「アタマのなかのオシャベリ」と表現しておきたいと思います。
これからロダンの「考える人」Thinkerについて話題にしていく際に、「アタマのなかのオシャベリ」について、もっと詳しく書いてみるつもりです。
1日に、6000回どころじゃない、1万2千〜6万回思考しているという説がある。その思考の8割はネガティブなもので、95パーセントが、同じことを繰り返し考えているらしい。
アメリカ国立科学財団の研究(2005年)だというので、きちんとした研究かなと思ったら、論文が出てこない。スピリチャル・瞑想系・メンタルヘルス系・自己啓発系の海外サイトにしばしば引用されているけれど、どうやらアメリカ国立科学財団という権威を借りたガセネタらしい。
ガセネタだとしても、全くありえない話ではない。日本のサイトでもたくさんのサイトが、このアメリカ国立科学財団説を引用しています。アタマのオシャベリの多くがネガティブなもので、同じことを繰り返しオシャベリするといわれたら、多くのかたが心当たりがあると思います。
近年、欧米では「マインドフルネス」という心理療法的な瞑想法が流行し、日本でも広がりが起きていますが、アタマのなかのオシャベリにどう向き合うか、ということも当然無視できない課題とされています。
↑心の中の声を落ち着かせる方法 エックハルト・トールの教え
062 無意味なさまよう思考
Senseless wandering thoughts
「アタマのなかのオシャベリ」をどうするのか、どう向き合ったらいいのか、それは非常に重要な問題だと思います。私たちは幼稚園のときから、社会で生きていくための膨大な基礎教養を学んでいくわけですが、これほど大事な問題については、何の教育もなされていません。なぜか?
解決する方法を教師も知らないからです。おそらく万人がこの問題を持っているんですが、どうしていいかわからないまま、死ぬまで引きずっていくことになります。
今から475年前、1549年に鹿児島の忍室和尚がザビエルに語ったのは、「アタマのオシャベリ」のことだと思います。「何か価値あることを考えている者は一人もありません」と忍室が言ったこと、今なら欧米の人たちが仰天するような話ではなくなりつつあると思います。
例えば「Inner Chatter」等を検索すると欧米発信のWebサイトがいっぱい出てきます。
「SuccessConsciousness.com」というWebサイトでは、
「Senseless wandering thoughts」(無意味なさまよう思考)と述べている。「Useless,unimportant thoughts」(役に立たない、重要でない思考)とも述べている。
忍室和尚が笑いながら言った「何か価値あることを考えている者は一人もいない」と同じことを述べているわけです。ザビエルとは別の意味で驚いてほしいと思います。忍室和尚がそう言ったのは1549年、しかも言った相手が「聖ザビエル」。ザビエルはまったく理解できなかったどころか、人々から尊敬されている80歳の禅の老師に「洗礼」を勧めたという。
ジョージ・サンソム卿(1883 - 1965)は、『西洋世界と日本』(1949)のなかで、ザビエルがその時のことをどう報告したかを書いています。
ザビエルは忍室に「洗礼」を受けるよう促した。けれども忍室はこれを拒んだ。 忍室は自分の就いている高僧の地位と、自分が受けている尊敬と、自分の持っている富とを捨てたくないのであり、「救われずに、悲惨な姿をして、地獄に堕ちる方がいい」からであった。
「地位や名声や財産を失うぐらいなら地獄に堕ちた方がましだ」・・・忍室がそう考えているとザビエルは判断したんです。ザビエルは忍室のことを全く理解できなかったようです。
ザビエルと忍室和尚の出会いを美談にしたい人は、「親しく交わった」とか「尊敬し合った」とか「親友」だったとすら書いているけれど、ザビエルやフロイスの報告書(手紙)の都合の悪い部分はカットされている。
私は本当のことを知りたい。美化されたフィクションなんて聞きたくない。というわけで10数年前に大分県立図書館で『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』を開いてみた。今はもうそれを開く余裕はないので、手元にある本やネットから引用させてもらいます。
063 グロリア(栄光)
La Gloria by Tiziano
上の方に、父(神)と子(イエス)と聖霊(鳥の姿で象徴)が描かれている。左上の青い衣装で立っている婦人はマリア。その左隣に上半身裸のバプテスマ・ヨハネ。
下の方で緑系の衣装をまとう後ろ姿の若い女性はマグダラのマリア。その左横で船(ノアの箱舟)を持ち上げるノア。ダビデやモーゼも描かれている。キリスト教のオールスターが登場する天国への導きの絵、という感じでしょうか。
神聖ローマ皇帝兼スペイン王、カール5世が1550年ないし1551年にティツィアーノに依頼し、1554年に完成。 『グロリア(栄光)』または『聖三位一体』、『最後の審判』、『パラダイス』とも呼ばれる。
カール5世( 1500 - 1558)、ザビエル(1506 - 1552)、ティツィアーノ(1490年頃 - 1576)、この3人は同時代人だった。
この絵の中に、カール5世と妃であるポルトガル王マヌエル1世の娘イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン(1503 - 1539)、息子のフェリペ2世(1527
- 1598)が描かれています。
宮廷画家の宿命だと思いますが、パトロンの希望によりそい、ときには「ヨイショ」しなくてはならない。1540年にカール5世から年金として銀貨200枚受け取り、のちに倍増されたという。
当時の銀貨200枚が、今の貨幣価値でどれくらいのものなのかわからないけれど、1550年以降死去までの26年間、フェリペ2世のもとで制作することが多かったというから、高待遇だったのでしょう。
この絵をカール5世が依頼したとき、妃のイザベルは35歳で亡くなって約10年が流れていたけれど、自分の隣に描いてもらった。カール5世は再婚せず、死ぬまで亡き妻を思い続けたという。
白装束つまり「死に装束」姿で手を合わせる左の人物がカール5世。地位を表す王冠を脱ぎ、膝元に置いている。その右隣の白装束の女性がお妃のイザベル。
イザベルの右隣で両手を合わせているのが息子フェリペ2世。「天正遣欧少年使節」が謁見したのがフェリペ2世でした。
ふたりはスペインの領土が最も拡大したスペイン黄金時代の偉大なる王であり、熱烈なカトリック教徒でした。
どうやって「太陽の沈まぬ帝国」が築かれたのか、それはもちろん戦争です。同じキリスト教徒同士でも戦ったし、イスラム教徒のオスマン帝国とも戦った。
ふたりの王はアジアやアフリカ、アメリカ大陸までは行かなかったけれど、兵たちと宣教師が遠征し(私たちは「大航海時代」と習った)、たいした武器を持たない「野蛮人」を殺戮し奴隷化した。そのことによって巨大な富を得た。
「野蛮人」を教化する。それは当時のローマ教皇とも利害関係が一致する。「野蛮人」とは何か? 今はこれ以上脱線せず、あとの章で話題にします。レヴィ・ストロースの『野生の思考』に至る話題です。
カール5世は、人生の多くの時間を戦場で過ごした。たくさんの人を殺した。兵士たちにたくさんの人を殺させた。自国の兵士もたくさん死んだ。けれどふたりの王は、パラダイスに昇天できると信じていた。教皇からも大感謝されてるし。
カール5世は最晩年になって、この絵をともなって修道院に隠棲し、この絵を見ながら亡くなったという。
064 最後の審判
Last Judgement by Michelangelo
ミケランジェロの代表作、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇画。
背景の空の青はラピスラズリが使われているという。
こんな大がかりな作品 (13.7m × 12m)を、61歳から約5年(1536 - 1541)もかけて制作するミケランジェロ、すごすぎる。心血を注いだこの作品、大きいだけじゃない。「西洋美術の最高傑作」のひとつと評されています。
それにしても、よほど財力・権力のあるパトロンがいないと実現不可能だったでしょう。それがローマ法王でした。ミケランジェロはまず、ローマ教皇ユリウス2世(1443
- 1513)からシスティーナ礼拝堂の天井画を依頼され、1508年から1512年にかけて『創世記』をテーマにした作品を完成させた。
それから約20年後、教皇クレメンス(1478 - 1534)からこの祭壇画を依頼された。そしてクレメンスの次代のパウルス3世もミケランジェロを高く評価する教皇であり、この教皇の時代に完成させた。
400名以上の人物が描かれているという。その中心にイエス・キリストがいて、人々を裁いている。マタイ伝によるとイエスは「裁くなかれ」と言われた。が、この絵では人びとはイエスに裁かれ、ある者はパラダイスへ昇天し(左側)、ある者は地獄に堕ちる(右側)。
ミケランジェロ(1475 - 1564)と教皇パウルス3世(1468 - 1549)は、ザビエル(1506 - 1552)より少しだけ先に生まれていますが、同時代を生きました。忍室和尚(?-1556)もです。教皇パウルス3世と忍室和尚は同時代人だった。全然違う人生だけれど。
この絵は、当時のローマカトリック教会のキリスト教信仰の世界観を表すものであると同時に、西洋美術の頂点にたっしたミケランジェロのセンスが混合されている。ザビエルがこれを見たとしたら、なぜこんなにヌードが多いんだと思ったかも知れないけれど、ザビエルもだいたいこういう世界観だったのでしょう。
忍室和尚的にいえば、これがザビエルのアタマのなかの世界だった、ともいえる。上のティツィアーノの「グロリア」もそうでしょう。忍室和尚にとってみたら、あなた(ザビエルさん)のアタマが描く天国に行きたいとも思わないし、あなたのアタマが描く地獄に堕ちたら困るとも思わない、というところでしょうか。
パウルス3世のことは、「考える人 vs 菩薩」第1章で少し話題にしました。
イグナチオ・デ・ロヨラとザビエルたちが結成した男子修道会・イエズス会を公式に認可したのがパウルス3世でした↓
この方の孫娘ヴィットーリア・ファルネーゼの嫁ぎ先が、ティツィアーノの描いた「ウルヴィーノのヴィーナス」を所有したウルヴィーノ公爵グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514
- 1574)でした。
魅力的な女性の姿・・・・・ザビエルのアタマのなかには無かったのでしょうか? 忍室和尚が指導する若い禅僧たちのアタマのなかにはあったことでしょう。
私は20代前半に鍵田忠三郎先生主宰の日曜座禅会に参加していたとき、当時交流のあった女性のことがアタマに浮かんで、コントロールできなかった。コントロールしようとすればするほど、彼女のことが浮かんできた。
座禅会に参加するんじゃなかった。彼女と一緒にピクニックに出かけたらよかった。野山を歩いたり、スキップしたり、ソフトクリームを食べたり、おしゃべりしたり、笑ったりしたらよかった。こんなふうに黙って座っていたって何になるだろう。そんな「アタマのオシャベリ」に悩まされた。
右下に描かれた地獄に堕ちた群像。この地獄、それほど怖くない。私たちの時代、現実は天才のイマジネーションを超えた。
第1次世界大戦(1914 - 1918) による戦死者1600万人、戦傷者2,000万人以上となったけれど、ホモサピエンス(自称賢いヒト)は、次なる大戦を選択し、もっと途方もない規模の犠牲者を出したあげく、誰も経験したことのない原子爆弾に行きついた。
その悲惨さは古今東西幾多の画家たちが描いてきた「地獄」のイメージを遥かに超えていた。
↑「地獄なんてもんじゃない」
「現実ですからね」と中沢啓治は語った。
こちらも地獄の群像。
「救われずに、悲惨な姿をして、地獄に堕ちる方がいい」と忍室は思っているに違いない、とザビエルは考えた。そのとき、ザビエルは、忍室和尚がこのような地獄に堕ちるイメージがあったのでしょう。
ミケランジェロが本当にこういう「最後の審判」や天国・地獄があると信じていたかどうかはわかりませんが、この仕事に全力を尽くしたことは確かだと思います。この作品の登場人物の多くは、彼が理想とした古代ギリシャ・ローマの神像彫刻のように体格が良く筋肉が発達している。
けれど死後に「最後の審判」があるのだと思うんですが、死後の霊体を描くのに、なんでこんなに筋肉リュウリュウの姿に描く必要があるのでしょうか? だからでしょうか、神秘的な感じ、スピリチャルな印象は受けません。
筋肉質の裸体を描くということに関しては全くミケランジェロの強い意志であったに違いない。で、古代ギリシャ風に陰部をもリアルに描くことについては、反対意見もあったという。
ミケランジェロの死後、彼の弟子ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ(1509頃 - 1566)は、師の偉大な絵の問題部分に、外衣や腰巻や木の葉を描くよう命じられた。そのためダニエラは「ふんどし画家」(Il
Braghettone)という不名誉なあだ名をつけられることになった。
それにしても、世界中次々と人間は死んでいく。毎日どれほどたくさんの人が死んでいくのだろう。それを裁くなんて大変忙しいお仕事です。
ヒロシマ・ナガサキのように一瞬に数万の人が亡くなる。地獄に落とすか天国に上げるか迷っていたら、裁きを待つ霊たちの長蛇の列ができてしまうに違いない。
065 「考える人」と「最後の審判」
“Thinker” & “Last Judgement”
システィーナ礼拝堂の祭壇画の右斜め下部分に、地獄に引っ張られている筋肉質の男性が描かれている。それがロダンの「考える人」に似ていると言われています。
ミケランジェロは、この祭壇画を構想するとき、ダンテ(1265 - 1321)の「神曲・地獄篇」を映像化することにした。ミケランジェロを師とあおぎ、強い影響を受けたロダンも「神曲・地獄篇」をイメージして「地獄門」を構想し、地獄に堕ちる人々を見つめるダンテ像を彫刻した。それがのちに「考える人」という名前になる。
「考える人」というネーミングは、ロダンが亡くなったあとに生まれた。ロダンは「詩人 Le Poète」と名づけていた。つまり詩人ダンテのことです。「考える人」の源流のひとつがこの「最後の審判」でした。
それにしてもなぜミケランジェロもロダンも、ダンテの神曲のイメージを借りなくてはならなかったのか? 自分が見たものではないからですね。「はだしのゲン」がすごいのは、中沢啓治が自分の肉眼で見たものを描いている点だと思います。
▶藤谷道夫著 ダンテ『神曲』地獄篇対訳(上)
▶藤谷道夫著 ダンテ『神曲』地獄篇対訳(下)
060 『地獄の思想』
“Thoughts of hell” by Takeshi Umehara
梅原猛先生の『地獄の思想』。ビニールカバーが劣化して、文字が鮮明に写らない。当時、私のカバンにはいつも先生の哲学本が入っていました。電車の待ち時間に読み、満員電車の中でも読み、ひまがあったら読んでいました。
そのせいもあって、当時電車のなかでよく忘れ物をしました。傘も忘れた。定期券も落とした。思考に夢中になって、目のまえの現実、足元が見えなくなることを体験しました。
梅原先生も、ある着想に夢中になって、カバンだと思ってマクラを持って芸大に出勤してしまった話をされた。その時は武勇談として聞いたけれど、思考の怖さも知った。
それにしても、「思想」も英語にすると“Thought”になる。とりとめない「アタマのなかのオシャベリ」を“Thought”というなら、哲学者の思想を同じ“Thought”という言葉を使うのは無理があるし、誤解を招くと思います。
コトバンクは「思想」をこう説明しています。
一般に、哲学や文学、芸術、あるいは政治や社会認識、宗教や科学など、さまざまな分野の知識体系と、その根底にある総合的な観念体系を指していう。
とすると、混沌とした「アタマのなかのオシャベリ」とは別物だと思います。別物であるものを同じ言葉で表現すると誤解が生まれ、理解しあうのが困難になる。
仕事の現場や社会や科学や哲学の分野のように、明晰な思考、思想を理解し合うことが必要である場合は、言葉の「定義」があまりにもかけ離れていると、正確な理解は難しいと思います。
愛や友情のある者どうしの、言葉を介在しない直感的理解があるじゃないか・・・・・ということはあると思います。けれどそういうテレパシー的コミュニケーションがあたりまえになるには、もう少し我々が進化しなくてはならないと思います。
今の我々がそこまで進化していたら、夫婦喧嘩やその延長線みたいな国際紛争もなんとか解決できるかも知れませんが、ウクライナ紛争を見てもわかりますように、この戦争はなかなか終わりません。
マルクス主義が言ってきた「階級闘争」ではない。この戦争はプロレタリアートとブルジョアジーの戦いではない。「民族紛争」でもない。「宗教対立」でもない。白・黒・黄の肌色対決でもない。
世の中には、平和を説く立派な宗教があるけれど、誰もウクライナ戦争を止めることができない。立派な宗教は昔から「戦勝祈願」をしてきた。ロシア正教会トップのキリル総主教は、ロシアのウクライナ侵攻を「祝福」しました。
国連が戦争を止められないのは誰でも知っている。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争等々・・・・・国連が世界平和をもたらすと思うひとは、まあないと思います。戦争の当事者が国連の常任理事国ですから。世の中そんなに甘くないことを多くのひとは知っていると思います。
ビニールの劣化で、表紙の帯紙の文字がぼけてしまいます↓
多くの現代人は、地獄といえば極楽を思い出し、それは仏教の迷信であると考える。死んでから行くところ、そんなことはまったくナンセンスだ。生きているうちが大切なのだ。死後の世界などはくそくらえ。
こうして現代人は、死後の世界も、死のことも考えようとせず、生に没頭する。そして生のさまざまな歓楽に、情欲や権力欲や出世欲の追及にいそがしい人間は、おのれ自身の死についてはもちろん、おのれ自身の生についてもほとんど考えない。
そして、そういう生への没頭とともに、過去の日本人に地獄、極楽という幻想を与えた仏教をせせら笑う。
私は1975年(昭和50)に京都芸大に入学したんですが、そのとき梅原先生(1925 - 2019)は50歳、私は19歳でした。先生は私の父母より4~5歳だけ年上。ほぼ親みたいな世代です。
1955年から、立命館大学文学部で先生をされた。70年安保をひかえた大学紛争の直前の1969年に辞職。1972年、京都芸大美術学部教授になられ、私が入学する前年1974年に芸大学長に就任された。
『神々の流竄』(1970)、『隠された十字架 法隆寺論』(1972)、『水底の歌 柿本人麿論』(1973年)、『黄泉の王 私見・高松塚』(1973)、『さまよえる歌集―赤人の世界
(1974年)・・・・私が入学する前に、たて続けに問題作を発表してベストセラーになり「梅原日本学」「梅原古代学」なんていう言葉が生まれた。
父はその時代、それらすべてを読み、梅原先生のファンになった。私が読まなかったのは、そこまで手が回らなかったせいで、実は今も手が回らない。
先生の上記ベストセラー本は、いわゆる日本学、古代学の本であり、ご専門の哲学本ではありません。私は先生の哲学本に魅せられた。圧倒的な影響を受けました。今もなお影響があります。この「考える人
vs 菩薩」もです。
4年間も京都芸大で学んで、非常に残念なことですが、美術の実技の先生からはほとんど影響を受けなかった。先生のせいじゃないです。素晴らしい先生方がおられたんですが、私の情熱の方向性が変わってしまったのだと思います。
梅原学長を始め、座学の先生から強い影響を受けました。色彩学、哲学、美学。美術史、心理学等です。私が在学した当時の京都芸大は、おそらく日本で一番ボロイ校舎でした。
美術の実技の校舎は老朽化していた、それはそれで味わいがあっていいけれど、座学の校舎は・・・これは校舎と呼べるようなものではなく、プレハブでした。今のプレハブではなく、ちょっと前の工事現場などに設置されていた薄い鉄板一枚のシンプルなプレハブです。
夏熱く、冬寒い、けれど好きなことを学べて何の不満もありませんでした。少し前にボヤを出して校舎が燃えたため、臨時のプレハブを我慢して欲しいという説明を受けたことを覚えています。臨時ではなかった。4年間プレハブだった。
梅原先生の『地獄の思想』に戻ります。
そして、そういう生への没頭とともに、過去の日本人に地獄、極楽という幻想を与えた仏教をせせら笑う。
私はそういう嘲笑が、じゅうぶん理由あるものであると思う。なぜなら、明治という時代において、すでに仏教はじゅうぶん堕落していた。
仏教は、葬式をつかさどるものでなかったら、地獄、極楽という幻想で、人間に道徳的恐怖をふきこむものでしかないように人びとには思われた。
今となっては、ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」や、 仏教の地獄草紙や阿弥陀浄土図の世界がリアルに実在すると思っている人は少ないと思いますが、
おそらくザビエルは、天国や地獄というものを全く疑っていなかったと藻います。
だから忍室和尚ほどの人物が、邪教を信じて下らないことを考える愚かな座禅というものを指導しているのが理解できなかった。
忍室和尚にとってみたら、極楽も地獄もどこか遠いところにある空想世界ではなく、おのれの心のなかにある。それを見つめる。
061 屋形舟
Houseboat
上の写真、母の94回目の誕生日である2023年7月11日の朝に撮りました。夕方病院から、まもなく亡くなるだろうとの連絡をいただいた。片道約1時間半車を運転し、穏やかに眠る母に最後のお別れをして、また1時間半の夜道を運転して帰宅しました。その数時間後母は亡くなった。
7月8日のお昼に、私たちが住んでいる竹田市に住むKさんが作ったこの「屋形舟」の折り紙を届けてくれた。2013年の春に、母がKさんに教えたんです。母は子供の時、自分のお母さん(私の祖母)からこの「屋形舟」を習った。
母は請われてたくさんの人に教えたけれど、誰も習得できなかった。実は教えるのが超ヘタクソだった、私も覚えようとしたけれど無理だった。母は華道の師範、茶道の師範代の免許を持っていたけれど、誰にも教えることができなかった。
ネットでいろいろ検索すると、「屋形舟」の折り紙は少しは出てくるものの、もっと単純で、そんなに面白くない。けれど母の「屋形舟」は書道の半紙一枚で、ここまで複雑なカタチを生み出しており、ここまま母の代で途絶えてしまうのは惜しいと思った。小なりといえども、伝承されてきた日本のフォークアートのひとつが、自分たちの怠慢のせいで消えてしまうのは心苦しい。
折り紙教室をされているKさんとの出会いがあり、彼女に来てもらったら、さすが一発で習得された。そのご母の認知症が進行していったので、ぎりぎりのタイミングでした。Kさんに習得していただけていなかったら、上の「屋形舟」の写真は無かったわけです。
062 母は地獄に堕ちた?
Has mother gone to hell?
天上からの神聖な光、頭部は強烈なオーラ・・・・・上の絵は1622年に描かれたザビエル。大阪府茨木市で発見されたザビエル像の基になったオラツィオ・トルセリーノの『ザビエル伝』(1594)の挿絵のバリエーションです。かなり進化しています。
ザビエルが日本で布教したのは約2年。当時の日本の民衆は、ザビエルにあれこれ質問したようです。質問攻めといってもいいほどだった。日本滞在の最後のころはこれにうんざりしていた。
ザビエルの教え方だと、キリストを信じない者は地獄に堕ちることになってしまう。が、信じるも何も、キリストの教えは今やって来たばかりじゃないか。すでに亡くなった、懐かしいおじいちゃんや、おばあちゃんたちは、キリストのことなんか知るよしもなかった。彼らはみんな地獄に堕ちたのだろうか?
気の毒だがそうだとザビエルは言うしかなかった。ある者は泣いた。自分は愛するおばあちゃんが往ったところに往く。自分だけ救われようとは思わないと言った。
ある者は疑った。教えが届かなかったのは、おばあちゃんたちの責任ではない。愛にあふれた絶対的な創造主であるにしては非力というか不条理というか、無慈悲な感じがする。優しく善良であったおばあちゃんを地獄に落すなんて、ひどいじゃないか。
キリストを信じなかった私の母は地獄に堕ちたのでしょうか? クリスチャンでない私も地獄に堕ちるのでしょうか? お気の毒だがそうだとザビエルは言ったでしょう。
ただし母はキリストを信じなかっただけじゃなく、ザビエルが目のカタキにした阿弥陀も釈迦も信じなかった。夫(私の父)が信じたマルクスやレーニンも信じなかった。ただ自分のカラダのことは大切にしていた。生活習慣病もなかったし、介護や病院関係者に驚かれるほど歯も丈夫だった。
茶道や華道を深めるために禅ぐらいは学んだら、という私のアドバイスにも耳をかさなかった。終生「アプレゲール」的な心情を持ち続けた。「なんちゃってアプレゲール」かな? 小学館『精選版
日本国語大辞典』(Web版)は「アプレゲール」についてこう説明しています。
特に第二次大戦後に育った、昔からの考え方や習慣にとらわれない人たちをいう。そのうち特に退廃的な、無責任で割り切った考えや行動をとる者や、基礎的な知識が身についていない者などに対して、非難の気持をこめて使う場合が多い。
学徒勤労動員で、農作業の手伝いばかりしていたので、自分たちの世代は基礎学力がないと母はぼやいていた。若い働き手の徴兵や軍需産業への労働力供出によって、農村も深刻な人手不足になっていた。
しかし、自分たちはあまり農作業の役に立っていなかったと母は言っていた。邪魔だからそのへんで座ってなさいと言われたこともあったという。特に母は肉体労働が苦手だった。
小学校6年生の時、健康優良児に選ばれそうになったけれど、懸垂が一度も出来なかったので選ばれなかったという、この話、数えきれないほど聞いた。よほど悔しかったらしい。
私が小学校の体育で初めて「腹筋」を教わったとき、母もそれをやってみたいと言った。すると一度も起きあがってこれなかった。大日本帝国の体育教育を受けた人だったけれど、たったの一回も腹筋運動ができなかった。
けれど、2012年11月に認知症を発症するまでは、教育勅語を暗唱することができた。神武天皇から昭和天皇に至る124代の天皇名も暗唱できた。百人一首の100の和歌を暗唱してもいた・・・・・
ザビエルのことを書こうと決意した第2章を、書けないまま以上で終わります。次章こそ、ザビエルに向き合いたいと思うんですが、あまり楽しいことではありません。むしろ苦痛かな。それは遠藤周作の『沈黙』に至る話題でもあります。
もっといいカタチで西洋文明と日本文明が出会えたらよかったのに。そうしたら、悲惨なキリシタン処刑は起こらなかったし、日本は鎖国しなくてすんだ。早く西洋文明を知り、もっと自由に海外に進出し交流し、もっと早く世界を知っていたでしょう。
もちろん西洋文明との衝突は避けられなかったでしょうが、あの段階で衝突していれば、原爆投下に至る大東亜戦争&太平洋戦争への道筋はなかったかも知れません。それは甘いか・・・日本が原子爆弾を落す立場になっていたりするんでしょうか? 世界一の軍事大国として君臨したりしてたのでしょうか?
当時、キリスト教の海外宣教はポルトガル、スペインの帝国主義的海外侵略&植民地支配とセットになっていた。左手に聖書を持ち、右手には鉄砲や大砲を持っていた。
ヨーロッパは海外進出の時代に突入し、アジア・アフリカ・アメリカ大陸と、海に浮かぶ無数の島がヨーロッパの植民地になった。
イエズス会のザビエルが鹿児島に上陸した1549年、きっかり同じ1549年にイエズス会宣教師マヌエル・ダ・ノブレガがブラジルに上陸しました。で、どうなったかというと(2010年の国勢調査:HIS)・・・・・
白人系が47.73%、白人・先住民・アフリカ系の混血43.13%、黒人系7.61%、アジア系1.09%、先住民系0.43%。
2010年の国勢調査時点の宗教の割合は・・・・・
キリスト教 : 88.77%
・カトリック : 64.63%
・プロテスタント : 22.16%
・その他のキリスト教宗派 : 1.98%
その他の宗教 : 3.19%
無宗教/無神論 : 8.04%
イエズス会の宣教、大成功じゃないですか。白人が約半数、先住民が0.4%という人口比率になり、キリスト教信者が約9割になった。
日本ではうまくいかなかった。あのとき日本ではまず豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出した。徳川政権は鎖国し、ひどいキリシタン弾圧を行った。
西洋文明と日本文明の、全く異なる豊かな出会いを想像することもできます。ルネサンス芸術と大和絵や水墨画、仏教美術との出会い、あるいはネオプラトニズムの哲学や錬金術や占星術や魔女たちと日本仏教やタオイズム、修験道との出会い。ルネサンス音楽と仏教の声明(しょうみょう)や雅楽の出会い・・・
ギリシャ文明とインド文明の衝突からガンダーラ美術が生まれたように、ザビエルの日本上陸から素晴らしい美術・音楽・哲学・科学技術が生まれた可能性があると思います。
その流産が結局、明治維新後の過激な欧化・国粋につながり、日本民族が経験したことのない悲惨すぎる大規模な戦争につながり、旧約聖書の世界を彷彿させる原子爆弾投下につながっていく。
原爆投下を命令したトルーマン大統領は「われわれは世界の歴史で最も恐ろしい爆弾を発見した」と日記に書き「ノアの箱船の後のユーフラテス渓谷時代に予言された火による破壊とは、このことかも知れない」としるした。旧約聖書の「創世記」に描かれる「ソドムとゴモラ」をイメージしたらしい。
さて、老いたる人間の義務として私たちは去年あたりから少しずつ身辺整理しています。父が死去したあと、老母が一人暮らししていた関西の実家を処分して、2006年に大分に引き取った。
そのとき実家から持ち帰った雑多な本や写真や書類をダンボールに詰め込んだままにしてあって、その中には母が書いた父宛の手紙類もあって、そのままゴミ袋に捨てることを躊躇した。
母は今年2023年3月、死亡するだろうと診断されました。が生き延び、5月17日、今夜死亡する可能性が大であると診断されましたが、それも生き延び、あと1週間か2週間のちには死亡するだろうと診断されるも、それも生き延び、結局94回目の誕生日7月11日まで生き延びました。
「考える人 vs 菩薩」の第1章と第2章は、そういう状況を背景に少しずつ書き進めました。いったいこれが何であるのか、何になるのかわかりませんが、「卒業論文」を書いているような気がしてきました。
[続く] to be continued later