『考える人 vs 菩薩』
The Thinker vs Bodhisattva

第3章

半世紀前の写真
The photo from half a century ago

↑こんな写真が残っていたこと奇跡でした。
約半世紀前。19歳の私の後ろ姿。芸大の1回生のころです。当時、私はよくここで絵を描いた。ここだと全く誰もこない。

京都は美しい古都で私も大好きだけれど、長い歴史があるぶん、すみずみまで人間の手が入っていて、どこどこまでも人がいる。私がイーゼル立てて絵を描くと、必ず後ろに人が現れる。数人に囲まれる場合もある。修行ができていない若ぞうだから、そういうのが気になった。

ここなら全く誰も来ない。山崎の茫漠とした河原です。京都府乙訓郡大山崎町と大阪府三島郡島本町の境界にあります。「天下分け目の天王山」というその天王山のふもと。サントリーの素晴らしいウイスキー『山崎』の醸造工場があるところです。あのあたり空気がウイスキーの香りがした。


京都を代表する川、桂川、木津川、宇治川の3つの川が合流して、大阪を代表する大河・淀川となるポイントです。写真はその「三川合流点」の河原です。笹や葦や雑草が繁茂しています。

絶対に誰も来ないと思っていたのに、いきなり年配の男性が現れてびっくりした。彼は「まさかこんなところに人がいるなんて思わなかった。絵を描いているんですか?」と言い、自分はアマチュアカメラマンだとていねいに自己紹介された。

さっき勝手に後姿を撮らせてもらった。その写真は後日郵送するから失礼を許してくださいと言われた。送られてきたのが上の写真です。イーゼルを立てていないので弁当を食べてるみたいに見えます。このときは小さなスケッチブックに描いていた。

その日、その時間、たまたまそのかたは三川合流点の草むらを歩いた。その日、その時間、たまたま私がそこにいた。その瞬間、2人の人生が交差した。けれど彼がカメラマンでなかったら、この写真は存在しなかった。

私が画学生でなかったら、私はこんな姿で写らなかった。そもそもこんなところに座っているわけがない。彼は写真を現像して私に送ってくれた。私は受け取りお礼の葉書を出し少し文通があった。写真は長らく実家に預けたダンボールのなかに眠っていた。

その箱を2006年に大分に持ち帰った。そのまま7年間眠っていたが、2013年に写真を見つけた。それからまた月日が流れ、今やっとこうしてWeb上にアップできた。あの日から半世紀の月日が流れた。

あの当時の私は芸大に入学したものの、自分が何を表現したいのか、どんな絵を描きたいのかがわからなくなっていた。満足のいく絵が描けない自分がもどかしかった。

「若いんだからそんなにあせるもんじゃない。自分が表現したいものをじっくり探していけばいい。今は美術の基礎技術を学んでいる段階だ」と先生にさとされたこともあった。ともかくここに来ればひとりになれるし解放感もある・・・必ずしも写生していたのではなく、色遊びもしていた。

学長の梅原猛先生の哲学本はいつも持ち歩いていた。西洋哲学を含めて西洋文明は限界にきている。実存主義やマルクス主義では現代文明の危機を救えない。 仏教の教えのなかに危機を救う鍵があると先生は説いておられた。そうであるとして、それをどう作品にむすびつけていけばいいのか?

と、その前に仏教のこと本当に何も知らないということを痛感した。香山家は浄土真宗だけれど、開祖親鸞聖人のこと何も知んらん。阿弥陀様を信じて「なむあみだぶつ」と唱えるとして、阿弥陀様って何? 仏教の開祖ゴータマ・ブッダは何を教えた人? 両親も知らない。仏壇はあるけど。

これから日本の時代がやってくる。君たちがその担い手になっていかなければならない。その準備をしなさい、と梅原先生は言われた・・・

『京都の仏像』
“Buddha statue in Kyoto”

これが広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像のモノクロ写真が載っていた本、京都新聞社編集局編集『京都の仏像』(河出新書)です。長らく段ボール箱のなかで眠っていたので保存状態がいい。この本の「あとがき」にこうあります。

昭和三十年十一月十一日から、百二十四回にわたって、京都新聞夕刊第一面に連載。紙面企画として、ひとつの冒険であったが、読者はこれを異常の熱心さで、支持し歓迎した。

百をこえる京都の仏像の連載企画を新書版にした本です。この本と出会ったとき、大学受験が目前に迫っていました。こんな本を読んでいる場合じゃなかった。

私が目指していたのは、恩師である中島先生や宮崎先生の出身校である京都市立芸大で、実技と学科の試験がある。学科は普通の大学と同様に国語、数学、英語、生物(化学か物理か生物を選択)、日本史(世界史か日本史を選択)の試験がありました。

実技の勉強はともかく、学科の勉強にうんざりしていた。勉強が嫌いなのではなくて暗記が嫌でした。生きものは幼いころから大好きだったし、小説、詩、歴史の本も大好きでした。教科書の無味乾燥が嫌だった。

歴史の登場人物が、その時代にどんなふうに感じ、どんなふうに考え、どんな表情、どんな声だったかを想像するのが好きでした。その時代にタイムトリップして、その時代の人と対話してみるのが。

美術より歴史学をめざそうかと迷った時期もある。けれど高校生のときわかった。歴史学は空想ではない。学問だから。私には学問は向いていないと自覚した。

「京都新聞編集局之印」という本物の朱肉印が押してあります。昔はそうだった。ちなみにこの本、Amazonにも出品が無い。「日本の古本屋」にも無い。

この年に新版が出版されたようで、それはAmazonで85円で出品されていた。なんと8,002円で出品されているお店もあった。翌1957年にはその続編も出版されており、それは225円から5,197円で出品されている。いずれにしろ復刻されることはないでしょうね。写真が白黒だし、今となったら解説文の時代背景が遠い過去のものになってしまった。

大日本帝国はアジア太平洋地域への軍事侵攻を繰り広げていきましたが、沖縄戦、日本全土への空襲、広島・長崎への原爆投下、ソ連対日参戦を経て無条件降伏したのが1945年(昭和20)8月15日。

そのとき私の父母は旧制中学の生徒で、16歳の母は兵庫県姫路市で、15歳の父は京都府の日本海側、丹後由良の京都府下中学生選抜航空訓練所で終戦の玉音放送を聞きました。

それから10年後、京都新聞夕刊に仏像の企画記事が連載。終戦10周年記念企画であったのかも知れません。この本は順調に売れたのでしょう。翌年の1956年(昭和31)6月には第10刷発行。発行日の2か月後、その夏8月10日に私は生まれました。

26歳の父は120円でこの第10刷版を買った。まさか将来この本を息子(私)が開いてみるとは思っていなかったでしょう。初めて開いたときは高校3年生、18歳だった。あれから半世紀の月日が流れ、今またこの本を開き、こんなかたちで話題にすることになった。

八月の光
Light in August

1956年8月10日、私は誕生しました。
写真右の「生後三日」は母の字。撮影はたぶん父。

小さなベッドの中で、ぽつりと現れて小さく息づいている赤んぼう。
おづおづと片目づつ開けて、ぎらつく様な八月の光をうかがっている。
ニヤリ笑ふかと思へば顔の片面づつ表情を変へる。
泣いてもお乳を呑んでも汗まみれになる。
この暑さをどうぞのり切ってくれます様に。

クーラーが無い時代だったから赤ちゃんも暑かった。「分娩直後の疲労の中で」、母がぼんやりしながら手帳に書き止めた内容を、アルバムに書き写したのがこれ↓

およそ世の中の親といふ親が同じ心でうたひあげたであろう感激を私達も今この子の為にうたふのだ

8月の暑い日に母が感激を手帳に書き止めた11年前に、人類が経験したことのない驚くべき惨事がヒロシマついでナガサキに起きました。帝国軍報道部員の山端庸介氏(1917 - 1966)は下の写真を撮影。[(C)東京都写真美術館蔵]↓

八月の閃光
A flash of August

朝から30度を超す暑さだった。家のまえの田んぼで草取りをしていた。額や背中にまで汗が浮き出てくるので、何度もそでで汗をぬぐいながら作業していたという。1945年(昭和20)8月9日午前11時2分。

突然、パーッとまわりが白く銀色に光って、すぐにものすごい音と風が吹きつけてきました。前に吹き飛ばされて転がりました。 しばらくうずくまったまま、おそるおそる顔を上げると、あたりはうす暗くなっていた。

上の写真のお母さんの言葉です。連綿と描かれてきた「聖母マリアと幼子イエス」につながる普遍的な母子像、それが1945年のヒロシマ・ナガサキではこんな悲劇的な姿で記録されることになった。

あの夏の日、悲惨な瀕死の母子像が水や助けを求めて焦土をさまよった。「日本史」や「世界史」を学ぶと、「悲劇の母子像」は古今東西普遍的な姿であったことがわかります。

戦争が始まると「悲劇の母子像」が生まれる。戦争が無くならないので「悲劇の母子像」も無くならない。いったいなぜ戦争は無くならないのだろう? 

人類の歴史は「階級闘争」の歴史だったとマルクス&エンゲルスは『共産党宣言』(1848)のなかで語っています。が、それは違うと思う。もっともっと根源的な何かがある。単に階級間の闘争ではないと思う。そもそも生命も意識も愛も「階級」に属さない。

確かに人間を表面的に、ある角度から見たら「階級」に属する。ある人はブルジョアジー、ある人はプロレタリアート。ある人は地主、ある人は小作人。ある人は会社経営者、ある人はその会社で働くサラリーマン。

なるほど支配する人=支配される人の関係がある。でもそれは人間存在の社会的経済的側面という、ある一側面、一部分、一表面に過ぎない。人間はそれだけではない、ハートとか魂、スピリット、意識の方が大きい。

『共産党宣言』では人を社会構造の一部、経済構造の一部として、モノとして見ている。支配する人と支配される人の間の闘争が人類の歴史だったとしたら、何とつまらない歴史だろう。

支配される人が支配する人を倒す・・・そのための戦争を「革命」というとして、支配される人が勝利して権力を奪い取ると、今度はその人が支配する人になる。

専制君主であったロシア皇帝ニコライ二世を打倒したと思ったら、今度はスターリンが専制君主の座についた。スターリンによる大粛清の犠牲者は数千万人ともいわれる。

人類の歴史なんてそんなもんだよと言われたら、確かに『共産党宣言』の言う通りかも知れない。ただしそれは権力闘争の歴史であって、人類の歴史ではないと思います。私は芸大のプレハブ校舎で梅原先生の日本文化史の授業を受けた。それは階級闘争とは関係ない精神世界の講座でした。

悲しみの聖母
The Virgin Mary of Sorrows

スペインの画家、ルイス・デ・モラレス(1510? - 1586)の「聖母子」。1562年から1567年頃の制作。© Luis de Morales,Madroid, Museo Nacional del Prado

ただただ美しく慈愛にみちた聖母の絵が多くあるなかで、上の絵のように憂いの表情を浮かべる聖母の絵が少なくありません。33年後のわが子の処刑を予見するが故の憂いだという。十字架から降ろされた瀕死のイエスを抱く「悲しみのマリア」も数えきれないほど描かれてきました。

“The Virgin Mary of Sorrows”・・・そうか、ゴッホが描いた「悲しみ Sorrow」は、悲しみのマリアをイメージしたのかも知れない。 聖母マリアと娼婦シーンを重ねた。だから「偉大なレディ」と書いたのでしょう。

↑ゴッホは、生まれた子供に乳を飲ませるシーンを描いた(1882)。[Vincent van Gogh, Public domain, via Wikimedia Commons]

↑ルイス・デ・モラレスが描く、十字架から降ろされたイエスを抱くマリア(1570)。[Academia de Bellas Artes de San Fernando, Public domain, via Wikimedia Commons]

私は2002年1月9日に長崎原爆資料館を訪ねたとき、初めてこの被爆母子の写真を見ました。当時Webサイトにこう書きました。

長崎原爆資料館に一歩踏み入ると息が重苦しくなり、頭も体も重くなりました。絶望的な気分、人間不信的な感情にとらわれました。こんなひどいこと・・・ こんなひどいことが起きたというのに、われわれは何も学んでいない。

この世の地獄
Hell on earth

長崎大学のWebサイトのなかに「原子爆弾救護報告書」がアップされています。 これは『長崎の鐘』や『ロザリオの鎖』、『この子を残して』の著者、永井隆・医学博士(1908 - 1951)による報告です↓

市民は先ず異状な爆音を聞きすぐついで非常に明るい白色の閃光を見た。地表は美しく紅色に光ったという人もある。之を市民は「ピカリ」と名付けたが全く晴天の霹靂の如くピカリと眼を射た。

而も爆発点に向っていた者も反対方向を向いていた者も同じく、即ち何の方向を向いていた者も同様にこれを見たのであったから閃光は恐らく空一面に散光となって拡がったものであろうか。 爆心近くのものは同時に熱を皮膚に感じた。次で暴風の如き原爆が襲来した。
物理的療法科助教授第11救護隊長 永井隆

「此世の地獄」
地上一切のものは瞬時に粉砕せられ地球がになった!

1キロメートル以内では木造建築物は粉砕せられた。鉄筋コンクリートは倒壊した、工場は押しひしゃがれた。墓石は投げ倒された、草木の葉は吹き消され、大小の樹木悉く打ち倒された。

戸外にあった生物は昆虫から牛馬人間に至るまで即死し屋内にあったものは倒壊家屋に埋没せられた。ただ「あっ」と叫んだ間に浦上一帯はかく変相していたのである。

唯一瞬間に。火点は各所に発生し消火活動すべき生存者無きにまかせて忽ちのうちに一面火の海となり、死者も負傷者もおしなべてこの猛火のため見る見る焼かれてしまったのである。

生き残った者も強力な放射線の全身照射を受けて一種の放射線中毒状態に陥って、体力も気力も鈍り戦闘意識を振起することを得ず、活動は極めて不活発であった。

余等は今尚酸鼻の極を呈したこの一刻の光景を眼底より払い去ることが出来ない。しかも又之をよく筆に尽すことも出来ない。古く言伝えられた世の終りの姿と云うべき将又地獄の形相とでも云おうか。

火を逃れて山に這い登る人々の群のむごたらしさよ。傷つける者また瀕死の友を引きずり、子は死せる親を背負い親は冷き子の屍を抱き締め必死に山を這い上る。 皮膚は裂け鮮血にまみれ誰も誰も真裸だ。

追い迫る焔をかえり見、かえり見、何辺か助かる空地はないか。誰か救いの手を貸す知人はいぬか、口々に叫びつ、呻きつ息も絶え絶えに這い登る途中、遂にこときれて動かなくなるものが続出する。

その最中を狂人となって走り回るものもある。焔近く燃えている倒壊家屋の中より救いを求める声は彼処からも此処からも哀れである。 丘の上、谷の道は通り行くに足の踏み場もない程死人怪我人打倒れ、助けて下さいと叫び水を下さいと訴う。
原子爆弾救護報告書
物理的療法科助教授第11救護隊長 永井隆

この子「義博ちゃん」は、この時すでにお乳を吸うチカラを失っていたという。原爆投下から12日後にこの子のお兄ちゃんが亡くなり、この子も21日後に亡くなった。お母さんは泣くばかりで葬式にも出られなかったという。

彼女は91歳まで生きぬいたけれど、亡くなった子供たちのことは何年たっても忘れられなかった。原爆投下から半世紀後、彼女はこう語ったという。

原爆のことは思い出すのもいやです。忘れてしまいたいですと。だれにも話したくもありません。 ただ、8月9日の慰霊祭のときだけは、市内まで出かけて二人の息子のためにひたすら祈るとです。

「ゆっくり眠りなさい」とね・・・・。でも、何で半世紀過ぎても戦争がなくならんとですかな。 今でも世界のあちこちで殺しあいしとるでしょう。本当に人間はしょうのない生き物だと思いますよ。
京都教育大学・平和資料集「ナガサキのお母さん」

1945年8月6日、原爆が人類の頭上に投下された最初の地がヒロシマでした。続いて8月9日にナガサキに投下。大日本帝国が無条件降伏したのが8月15日。死者の魂が家に帰ってきて(8月13日)、また去っていく(8月15日)というお盆の時期に重なっている。

毎年8月のその時期になると、母は戦争の恐さ悲惨さの話をしながら涙を流した。教科書的な話ではなく、自身の体験を感情的に、ときには激しく泣いて子供に聞かせた。

戦争中に幼くして肺病で亡くなった母の妹の話もその時期に毎年聞いた。だから私の誕生日8月10日は、子供の頃から誕生を祝う時というより戦争や死者のことを思う時でした。

笑う
Smiling

↑生後4カ月の私。
生後52日のとき、母はこんなふうに書いています↓

笑ふ様になった。急になった。いや、もう以前から笑っていたけれど、新生児の頃のいわゆる“虫笑ひ”だと思ってたのだ。

「虫笑い」というのは、医学的には「新生児微笑」とか「生理的微笑」という名称がついていて、何やら難しい科学的なメカニズムがあるらしい。「天使の微笑」という“非科学的”な名称もあるけど。

「虫の知らせ」とか「虫が好かない」、「腹の虫がおさまらない」というふうに、私たちの中にある種の虫が棲みついて、 それが意識に作用するという考え方は“非科学的”なタオイズム(道教)に由来するらしい。

生後4カ月。1956年12月。
「ウックン、ウギン、アブン、聞いてると急に色んな事を言ふ様になった」と母は書いている。「ウーブ、ウバウバと何やらしゃべる」とも。

京都新聞社編集局編集『京都の仏像』の「あとがき」にはこうあります。

水爆の脅威にさらされながらも、ようやく生活の安定を得て来つつある今日、日本の人たちが、 その心のいこいを閑寂典雅な古代美にもとめようとするのは、きわめて自然のことであり、そこにこの企画の魅力と、成功の、大きな理由があるといえるであろう。

そして幸いなことには、古都のいたるところに、私たちの求める素材、現代人の琴線に強く響くものが無数に見出された。

すすけた厨子(ずし)の奥深くまつられ、千年のホコリを浴びて、住職すらも拝んだことのない秘仏、悠遠の気韻をこめて、 香煙のかなたから微笑されている如来さまなど、はじめて公開されたものも、いくつかまじっている。

神護寺観音菩薩
Avalokiteśvara in Jingo-ji temple

この本に掲載されている仏像は私が見たことのないものばかりでした。この観音菩薩頭部は昭和7年(1932)、高尾神護寺再建の時、多宝塔の下から発掘されたという。天平時代(729 - 749)の作らしい。

今回Web検索してみましたが全くヒットしません。古い本なので印刷が悪い、もっといい写真を見てみたいと思ったんですが、なぜか完璧に出てきません。いったいどうなってしまったのでしょうか?

当時の私が知らなかっただけでなく、どういうわけか現在も多くのひとが知らない仏像だということです。「住職すら拝んだことのない秘仏」がいくつかまじっていると『京都の仏像』のあとがきに書かれている、そのときのままだということでしょうか? 

インド美術がご専門の京都大学の上野照夫教授(1907 - 1976)は、「春の面影」と題して上のような小文を寄せられています。

ホオやクチビルのふくよかさも、あどけない童子の感じ。 豊かな耳、円やかな宝髻(ほうけい=頭上に結んでいるもとどり)柔らかいマユにも、のどかな春の面影がある。 このお顔が観音かどうか、私は確かめていない。しかしこのお顔は観音にふさわしい女性的なやさしさである。

京都帝国大学文学部梵語学梵文学科のご出身で仏教学者・古代インド文学者の岩本裕博士(いわもとゆたか 1910 - 1988)は、「観音」についてこう解説されています(岩本裕著『日常仏教語』中公新書)。

観世音菩薩は・・・中央アジア方面あるいは西アジア方面におけるある女性神格が佛教に採り入れられて、変性男子(へんじょうなんし)の教説に基づいて男性化し、現世利益のほとけとして尊敬されるに至ったことが知られる。(略)

観音というほとけは信者の願望に答えるために種々な姿をしなければならず、さらに他の宗教像とくにヒンドゥー教の神々が投影されて、それぞれに特異な姿像をとるに至った。十一面観音・如意輪観音はその前者の例であり、千手観音・馬頭観音などは後者の例である。(略)

三十三観音には、青頸(しょうけい)観音や葉衣(ようえ)観音のようにインド起源のものもあれば、楊楊(ようりゅう)観音や水月(すいげつ)観音のように明かに中央アジア起源のものもあり、中国起源の馬郎婦(めろうふ)観音もあれば、わが国での起源と考えられる滝見観音もある。 中国において観音信仰の中心となった白衣(びゃくえ)観音もその一つである。

Wikipediaによると、観音菩薩とゾロアスター教の女神アナーヒターや女神スプンタ・アールマティとの関連を指摘する学説もあるという。

日本は海に浮かぶ孤立した島国であると思い込んでいる人もあるけれど、古代の日本人が、大乗仏教として受容してきた仏教のなかにも世界の多様な精神文化や美学が融合しています。「シンクレティズム Syncretism」です。

常照皇寺観音菩薩
Avalokiteśvara in Jyoshokho-ji temple

京都府北桑田郡京北町(現右京区)の常照皇寺(じょうしょうこうじ)の観音菩薩座像。鎌倉時代初期の作。 これも検索してみると、ごく小さな写真がでてくるけれど、この観音菩薩に対する愛情や尊敬が感じられない。この写真の方がずっといい。

撮影にあたった京都新聞写真部の加登藤信部長(かとうとうしん 1909 - 1996)は『京都の仏像』最終ページの「撮影者のことば」としてこう書かれています。

彫刻像はわずかな照明の変動で表現が無数に変化する。

だから照明道具をかかえて乗り込み、落ちついて、何時間もかけねば、ほんとうのものはできないのかもしれぬ。

だが、解説者の手許には、早目に早目に写真を届けねばならぬので、常に十枚ぐらいのストックの必要があり、一日に二、三枚撮影したこともある。

冒険であったが、懐中電灯一個をたよりに、薄ぐらい本堂の奥深くへふみこみ、黒い漆塗りのトビラをひらいて、フラッシュ・バルブ一、二個でうつし通した。

「フラッシュを焚く」という言葉が残っているように、昔は「フラッシュバルブ Flashbulb」を使っていた。 今の時代はストロボを使う。敗戦後10年という時代だったから、今の時代とは違う苦労があっただろうと想像できます。「撮影者のことば」は続きます。

風のように、突然古寺を訪うのだから無理もないが、なかなか厨子が開けてもらえず、住職に三拝九拝したこともたびたびだったが、 ローソクの淡い光にゆらめく仏たちの慈しみの表情にふれると、そんな苦労は吹っ飛んだ。

円福寺達磨大師
Bodhidharma in Enpuku-ji temple

京都府綴喜郡八幡町(現八幡市)円福寺にある達磨大師座像。鎌倉時代末期の作。検索すると、この写真より良いお姿は出てきません。撮影禁止になっているせいでしょうか? これは等身大の達磨像としては日本最古のものだという。

見開いた眼は「眼をさませ」という沈黙のメッセージを送り続けている。もはや、ぼんやり眠りこけている場合じゃない。眠りこけたまま経済優先にのめりこんだり、科学技術を進化させたり、武器を開発し続けたら、他の生物や地球をまきぞえにして人類も滅びる時代になりました。

科学技術や産業が発展したおかげで、今私たちが使っているパソコンやスマホ、インターネットが使えるようになったんですが、この文明は歴史上最も強力な「諸刃の剣」でした。

いつ滅びてもおかしくありません。

と、梅原先生は発言された(『近代文明はなぜ限界なのか(2008)』)。眼を覚まさないと地球規模の破局をまねく、この地球はそういう時代に突入しています。

達磨(だるま 5世紀後半 - 6世紀前半)は南インドの王子として生まれたとされますが、ペルシャ人(現イラン)説もある。実在を疑う説もある。

サンスクリットの「ボーディダルマ(Bodhidharma)」の音写(原語に近い発音を持つ漢字を当てた)が「菩提達磨(ぼだいだるま)」その略が「達磨」。

サンスクリットの「ダルマ Dharma」の音写が「達磨」または「達摩」で、仏教の教え、真理を意味します。サンスクリットの「ボーディ bodhi」の音写が「菩提」です。 真理をさとることを意味します。

「菩提」を得た人がブッダであり、さとりを求めて修行し、衆生を救う慈悲の道を歩む人を「菩薩」といいます。

「菩提達磨」というのは本名ではないということです。本名は伝わっていません。出目もほとんど伝わっていません。伝説の人ではあります。

『洛陽伽藍記』(547年)のなかに「西域沙門菩提達摩者、波斯國胡人也」(西域の僧で菩提達摩という者がいた。波斯国生まれの胡人であった)という記述があるという。それが達摩について書かれたもっとも古い記述らしい。

「波斯国」(はしこく)とはペルシャのことです。ダルマが生きたとされる5世紀後半から6世紀前半は、ササン朝ペルシャの時代だった。そんな馬鹿な。達摩がペルシャ人なけわけないでしょ、と思われるかたもあるでしょう。でもありうると思います。

↑西暦320年から550年頃のササン朝ペルシャ(朱色系)。右隣の紫はインドのグプタ王朝。左隣の深緑は東ローマ帝国。[ Copyrighted free use]

ササン朝ペルシャの北東部は、ガンダーラとバーミヤンが含まれています(赤い下線を引きました)。ガンダ-ラは大乗仏教が栄えたところ。仏像が最初に生まれたところです。バーミアンも大乗仏教の大中心地でした。

今はイスラム教過激派の支配地域になっているこのエリア、かつては仏教が栄えていた。 ササン朝ペルシャはゾロアスター教が国教でしたが、ギリシャ・ローマ文明、インド文明の影響も受けていた。

ゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教、グノーシス主義、ミトラ教、プラトン哲学、古代ギリシャの宗教、古代密儀、仏教などを融合(シンクレティズム)したマニ教もササン朝ペルシャで誕生しました。 一神教のイスラム教がやってくるまでは、中央アジアは多様な宗教、文化、美術が出会い融合するエリアだった。

↑西暦300年から500年のあいだのマニ教の広がり。[Aldan-2, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons] 
マニ教は3世紀から7世紀にかけて広まり、この時代もっとも広がりのある「世界宗教」だった。マニ教は初期キリスト教の主なライバルだったという。

『告白』や『神の国』の著作で有名なローマ帝国のカトリック教会の司教アウグスティヌス(354 - 430)は、もとはマニ教信者だった。387年にキリスト教に改宗したけれど、それは382年にローマ皇帝テオドシウス1世がすべてのマニ教修道士に死刑を宣告したあとだった。

391年、皇帝はキリスト教を国教としました。マニ教は激しい迫害を受けて、6世紀にはローマ帝国から消滅していった。

↑マニ教の4人の主要預言者を描いた中国の宗教画(1350)。左からマニ、ゾロアスター、ブッダ、イエス。[Anknown author, Public domain, via Wikimedia Commons]

↑13世紀初頭に中国で描かれたマニ教の宗教画。預言者イエス=ブッダ。

↑中世のシルクロード。[The original uploader was Captain Blood at German Wikipedia., CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons]

今みたいに飛行機や電車、自動車で長距離移動する時代ではなく、ラクダの背に揺られるか歩く時代ですから、大変な旅だったと思います。が、思ったより交流があったようです。物資だけでなく、外交官、職人、宣教師も往来した。

そんなシルクロードの旅団のなかに、 一匹狼というか孤高の人・達摩が紛れこんでいてもおかしくはないと思います。自分の理解を受けとめることのできる人を求めて砂漠を歩く。まばたきせず一言も口をきかずに旅する達摩を想像してしまいます。

↑ちょっと時代は下りますが、三蔵法師玄奘(602 - 664)もシルクロードを旅した一人です。[Tokyo National Museum, Public domain, via Wikimedia Commons]

唐の都・長安から旅立ったのが 629年、26歳のときでした。インド各地を師を求めて巡礼し学び、ナーダンダ僧院では5年間滞在して仏教の理解を深めた。 長安に帰ったのは645年、17年の長い修行の旅でした。

徳田球一と志賀義雄は『獄中十八年』を書きましたが、玄奘は17年のインド巡礼の旅『大唐西域記』全12巻を弟子に口述しました。

『般若心経』の出だしに「般若心経、唐三蔵法師玄奘訳」とあるように、持ち帰った仏教経典の翻訳に専念しました。彼の翻訳が日本にも伝わり、日本の精神世界に貢献しました。

↑西暦526年から539年にかけて、梁の元帝の首都荊州の中国宮廷に派遣されたペルシャ大使。何か達摩に似ていませんか? 
これは11世紀宋代の写本。左上に「波斯国」の文字がある。[Painting: Emperor Yuan of Liang (6th century)Photographer: undetermined, Public domain, via Wikimedia Commons ]

↑2016年10月にこんなニュースが流れました。平城宮跡で出土した木簡に「波斯」の文字があったという。天平神護元年(765)と書かれている。その当時はイスラム帝国のアッバース朝の時代になっていた。

思うに、ペルシャが一神教のイスラム教支配を受けることによって、マニ教やゾロアスター教や仏教を信奉していたいた人が、ペルシャから逃亡して新天地を求めることはありうる話だと思います。

彼らは高度な文化・技能を持っていたと思います。平城京を築くことや、東大寺大仏殿を建立することとか、ペルシャの人たちが能力を発揮したってことはありえないんでしょうか?

広隆寺薬師如来立像
Yakushi Nyorai in koryu-ji temple

「弥勒菩薩半跏思惟像」が安置されている京都太秦(うずまさ)広隆寺には、平安時代初期制作の「薬師如来立像」が秘蔵されています。

清和天皇(850 - 881)の病回復に霊験があったので秘仏とされてきて、現在も年1回だけの公開となっているという。私も拝観していません。ほとんどの人は実物を見たことがないと思います。その存在すら知らない。写真撮影禁止なのでインターネット上にも、これはというお姿がありません。

「薬師」のサンスクリット名は「バイシャジャグル Bhaiṣajyaguru」。「バイシャジャ Bhaiṣajya」は薬(メディスン)または治療(ヒーリング)を意味する。「グル guru」は「師(マスター)」。「医王仏」とも称される。

欧米では「メディスンブッダ」とか「ヒーリングブッダ」と呼ばれて、ニューエイジ系、精神世界系、ヒーラー系の人々に人気がある。

私の妻は1996年から1998年にヒーリングや瞑想を学ぶためにインドに滞在したとき、現地のヒーリングショップで下のような仏像を購入しました。エンジェルファームの水晶と一緒に安置しています。

たぶんチベットの仏像をモデルにした西洋人むけの、みやげものとして量産されているものでしょう。妻はこれが日本で「薬師如来」と呼ばれている仏像とは知らずに購入したという↓


この文章のために庭で撮りました。左手に薬壺を持っている。それが薬師如来の特徴。妻は1998年に約2カ月インドに滞在しました。その翌年、「ノストラダムスの大予言」で話題になった1999年、彼女はアメリカ人の女性ヒーラーと共に九州旅行することになり、その流れで私は妻と初めて出会いました。九州大分・奥豊後で。

↑こちらはネットで見つけた薬師如来©Museum of Himalayan Arts。タンカと呼ばれるチベットの緻密な仏画のスタイルで、ネパールかインドで描かれたものでしょうか。私がネパールに行ったとき(1993)、こういう手描きの仏画をたくさん目にしました。

観光客むけに制作されたものでも、一枚仕上げるのに非常に長い時間がかかる。ものによっては何カ月もかかると聞きました。筆と絵具で丁寧に手描きするものだから時間がかかる。そうすることで印刷物や写真やPhotshopでは表現できない深みがにじみでてくる。

上の薬師如来の仏画は、マスター・ロチョというかたが作者で、作成に3か月かかったと記述されています。これを安置する場所についての提案もなされています。

家庭、オフィス、病院、診療所、アーユルヴェーダおよび自然治癒センター、医師、治療家に最適です。

美術館、博物館、ギャラリーではないんです。メディスンやヒーリングを意味する「医王」の仏画ですから。

作成には3か月かかりました。 薬の仏陀または治癒の仏陀はバイアジャグルとして認識されており、彼が薬の達人であり「魂と体の医者」であることを示しています。

釈迦牟尼仏と同じように、彼は頭のてっぺんに霊力を象徴するウシュニーサを持ち、僧衣を着てパドマサナに座っています。バイアジャグルは、大乗仏教における釈迦牟尼仏の治癒の一面を象徴しています。

薬師仏陀は常に深みのあるラピスラズリの青で描かれ、左手は薬鉢を持った瞑想ムードラに置かれ、右手は右膝に置かれ、ミロバラン植物(薬用植物)の茎または果実を握りしめています。

「ミロバラン」はインド、ネパール、ブータン、スリランカ、タイなどに自生する樹木で、実をアーユルヴェーダ薬として利用したり、染料として利用するようです[京都市下京区・田中直染料店]。

この薬師仏はラピスラズリ(粉にして顔料化したもの)で描かれているという。確かにチベットの薬師仏は、青く描かれる。それがラピスラズリの色でした。

↑こちらは1993年にインド・マハラシュトラ州プネー市で買ったラピスラズリ。

結局私は、あのときグラッフィクデザイナーの仕事をやめる決断をしました。そしてまずは、以前から行きたかったインドに行ってみよう、そのごのことはインドに行くことで見だすことができるかも知れない。そう思ったのでした。

出発は1992年2月でした。ビザが切れたのでいったん帰国して再びインドに戻り、のべ1年半ぐらいの滞在になりました。それは、かけがえのない貴重な旅でした。

その旅が無かったら・・・ということが考えられません。自分の人生にどうしても必要な旅だったと思う。それが無ければ生きている意味が無いというような。

もしあのとき将来のことが心配で、あれこれもっともらしい理由を考えて安全安定のためにデザイナーを続け、インドに旅立たなかった人生を想像してみると恐ろしくなります。でもあのとき旅立たない選択もありえた。それはそれで違った人生がありえた。どちらの選択もできた。

今もそう、この文章もそう。文章は小さなことだけれど、どう流れるのか、どのような選択もできる。右にも左にも上にも下にも行ける。

思い出した。それって、絵筆を走らせるときの感覚・・・一筆一筆、瞬間瞬間、次々新しい展開がある。チャレンジがある。その感じがあるときは描くことが楽しかった。感動があった。

でも初めに結論が決まっていて、その結論に導くために文章書いたり絵を描くとしたら、それはちょっとしんどい。それがグラッフィクデザインの仕事だった。

そうそう、結婚という結論が決定されているなら、それは恋愛とはいいがたいと思う。恋愛ならどうなるかわからない、どう進んでいくのかわからない。わからないけれど会いたい。

その気持ちが2人をどこに連れて行くのかわからない。わからないから確かめあうのであって、最初から結婚が決定されていたら、確かめるまでもない。結論に向かって作業していくだけになってしまう。

会ってみると、実際にはもつれたり、すべったり、もやもやしたり、がっかりしたり、うきうきしたり、輝いたり・・・そうするなかで、もっと近づきたいと感じたら何とかして一緒に暮らしたいと思うし、それほどでもないと感じたら離れていくし・・・

結婚が決定されているなら、みんな省略され結論ありきになる。そうすると絵を描くのもつまらなくなる。それが石膏デッサンだった。写実的にそつなくきれいに描く、それだけでしょ、石膏デッサンって。

なんだったかな、そうそうラピスラズリの話だった。大乗仏教の経典「無量寿経」や「阿弥陀経」に、極楽浄土の美しさをイメージする、「金・銀・瑠璃・玻璃 (はり=水晶)」 という表現がありますが、瑠璃(るり)はラピスラズリのことだった。

瑠璃という言葉は「吠瑠璃(べいるり)」の略で、サンスクリット「Vaiḍūrya(バイドゥーリヤ)」、 またはその口語・俗語形であるパーリ語の「Velūriya(ベールーリヤ)」の音写でした。

薬師如来の正式なサンスクリットリット名は「バイシャジャ・グル・ヴァイドゥ・ウリィ・プラバー・ラージャ Bhaiṣajya-guru-vaiḍ-ury-prabhā-rāja」だという。つまり「薬のグル(師)・ラピスラズリ光のラージャ(王)」。ラージャ(王)なんです。だから「医王」と称される。

「ラピスラズリ光のラージャ」というところが、中国・日本では「薬師瑠璃光如来」となり、それが薬師如来の正式なお名前となっている。 薬師には瑠璃色の光のイメージがあって、チベット系の仏画の瑠璃色はそれを表現しているわけです。

松田聖子の「瑠璃色の地球」が流行ったとき、それはソ連軍のアフガニスタン侵攻(アフガニスタン紛争)が長引いている1986年でした。


↑松田聖子「瑠璃色の地球」

争って傷つけあったり
人は弱いものね
だけど愛する力も
きっとあるはず

ガラスの海の向こうには
広がりゆく銀河
地球という名の船の
誰もが旅人

ひとつしかない
私たちの星を守りたい

朝陽が水平線から
光の矢を放ち
二人を包んでゆくの
瑠璃色の地球
瑠璃色の地球

4,400年後の未来
4400 years in the future

↑現在、イスラエルと紛争中で、かつ内戦もやっている中東のシリア。そのシリア東部にあった古代都市国家マリの統治者エビフ・イルの像。[Louvre Museum, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons]

ハートに手をあて、唇は微笑をあらわしている。眼はぱっちり見開いている、その眼玉がアフガニスタン産のラピスラズリです。

私はこのかたに圧倒される。なぜって、このかた紀元前2400年頃に生きた行政官なんです。今、2023年。このかたが生きたのは紀元前2400年、ということは約4400年前の政治家です。

背中にクサビ形文字が刻まれていて、彼が「エビフ・イル」というお名前であることがわかっている。この像を見るとヘーゲルやマルクスの「進歩史観」がぶっ飛ぶ。

4400年分、現在のわれわれより劣っているかと思いきや、ヒゲの表現、手やスカートの表現等、べつに劣ってはいない。もし「エビフ・イル」が4400年後の現代にタイムスリップしたら、どう感じるでしょうか? 

最初は自動車や高速道路や新幹線や飛行機や高層ビルや都市の夜景に驚き感動するかも知れない。テレビやスマホやインターネットにも驚くでしょう。でもシリアに今、何が起きていますか? ひどいことです。これが4,400年ぶんの進歩ですか?

人間はそれほど変わっていないと感じるかも知れません。「エビフ・イル」から観たら、私たちは4,400年後の未来人です。未来人である私たちは今、何をしているだろうか? 何を考え、どのように生きているだろうか? 賢明になっているだろうか? 4,400年ぶんの知恵を持っているだろうか? 

ということは・・・これは考えたくないことですが、現代の私たちが4,400年後の未来を想像するとき、きっとものすごい進歩をとげていると思いたいところですが、未来人もソファに座ってテレビの恋愛ドラマを見ながらシュークリームを食べているかも知れません。

そして政治家はあいかわらずミサイルを発射したり、自国ファーストだとわめいたり、裏金をもらったり、不倫したり、そして国民はそんな週刊誌ネタでゲラゲラ笑ったりしているかも知れません。


想像してみよう。これから4,400年後の未来を。
成熟した賢明な人々が戦争がない平和な世界を実現しているでしょうか? 貧困や差別や病気を克服し、みんなが歌い踊り歓び幸せに暮らしているでしょうか?

ラピスラズリは古代文明の時代から宝石や顔料として利用された。その原産地がアフガニスタンでした。アフガニスタンのラピスラズリは新石器時代から採掘された。奈良正倉院宝物殿にもアフガニスタンのラピスラズリがはめこまれたベルトが保存されている。

アフガニスタンといえばバーミアンの仏教遺跡が有名ですが、かつては仏教文化が花開き、たくさんの仏像が作られた。ソ連、アメリカ、他のイスラム教国が軍事介入したアフガニスタン紛争の結果として、過激派タリバンの台頭を許し、仏像の多くがその勢力によって破壊された。

戦乱と干ばつに苦しむアフガニスタンで医療活動していた中村哲医師(1946 - 2019)は、かの国に平和と豊かさと健康をもたらすには、100の診療所より1本の水路が必要だとさとり、それを実行されました。

彼はクリスチャンだけれど、宗教とか人種とかで人を見ていない。宗教、人種、民族、国籍、階級、イデオロギー・・・それが一致する人を愛し、一致しない人は殺してもいい、それを「聖戦」だとか「正義」とか言うのはお粗末すぎませんか?

中村先生は現実の生きた医王、ラピスラズリ光のラージャだと思います。


↑アフガニスタン 永久支援のために 
中村哲 次世代へのプロジェクト


↑アフガンに遺した「命の水」【関西テレビNEWS】


↑良心の実弾〜医師・中村哲が遺したもの〜

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考える人 vs 菩薩 目次
The Thinker vs Bodhisattva Index
頭頂眼+松果体+第三の眼
Parietal eye+Pineal gland+Third eye
京都市立芸術大学創始者・田能村直入
Founder of Kyoto City University of Arts
Tanomura Chokunyu