『考える人 vs 菩薩』
The Thinker vs Bodhisattva

第7章

大阪地下鉄
Osaka Subway

2009/06/23 午前11時42分。まったく久々の大阪の地下鉄。大分ではいつも車で移動するので長らく電車に乗っていない。

仕事や雑事に追われ忙しくしていると、何か大切なことが抜け落ちてしまう。自分は本当は誰なのか? ここはどこなのか? 今はいつなのか?  大阪や大分というのは存在に貼り付けたうすっぺらなラベルにすぎない。

都市に林立するビルの上にも無数の星々が浮かぶ宇宙が広がる。私たちは無限宇宙に舞う小さなチリのような星に住んでいることを忘れて、どうでもいい小さなことが、ものすごく重大なことと思って生きている。

チリのなかに、ありもしない小さな境界線を引いて、境界線をめぐって殺しあう。アリのように小さい生物が。いやアリだって大きい。細菌のような生物が。いや細菌だって大きい。ウイルスのような生物が殺しあう。

11時42分というのも、効率よく労働するために人間がかってに作ったうすっぺらなラベルに過ぎない。小さなアタマが作ったラベルにしばられて忙しくする。何か大切なことを忘れて、ただ時間が過ぎ去っていく・・・

「忙」は「心を亡くす」を意味します。忙しいと心をなくす、忘れてしまう。「亡くす心」と書いて「忘」です。

「心」というものがあったことも忘れてしまう。アタマだけが作動している。何時までに到着しなくては・・・常に時間に追われる。あれやこれや無数のつぶやきが、小さなアタマのなかに現れては消えていく。

人身受け難し いますでに受く

そのように仏教は唱えます。『三帰依文 さんきえもん』です。人として生まれたことの奇跡・・・こうして息をして心臓が鼓動して、見て聞いて味わって触れて考えることができる奇跡。歩き食べ話し泣き怒り笑うことができる奇跡。

ウイルスのように小さいかも知れない。けれど考えることとはまったく別の何かもある。愛という奇跡がある。気づきの意識、醒めた意識という奇跡がある。人として生まれたということだけで、一瞬一瞬ありえない奇跡が起きているというのに、私たちは忙しさのなかで自分自身を見失う・・・

哲学初歩
Introduction to Philosophy

芸大の一回生のとき、学科の選択科目として哲学を選びました。そのときの教科書がこの斎藤信治著『哲学初歩』。カバーは破れてありません。関西の実家に長く眠っていました。2006年に実家を処分した際に持ち帰ったものの、ダンボールに入ったまま長らく眠っていた。

「初歩」という名の、よくできた哲学の入門書ですが絶版になっており、Amazonでは中古本が1,908円から7,815円の値段をつけています。絶版になっている古い本なのに、今だ求める人があることに感動します。

1960年に初版が出版され、1965年に改訂増補版が出版された。私が持っているのは増補版です。ずいぶん古い。もっといい哲学入門書が世に出ているでしょうに、なぜこの古本に7,815円という高値がつくのでしょう? g-headというかたがコメントされていることに同感します。

これは見事な本であると思う。哲学の入門書であるが、個々の思想家の論の解説を年代順に並べただけではない。『哲学とはいかにして生まれたか』あるいは『哲学の起源とは何か』といったようなより根本的な問いとの位置付けにおいて各々の思想家が引き合いに出されるため、 高校の倫理の授業などでありがちな、断片的な知識を習得して終わり、というようなことにはなりにくい。

「断片的な知識の習得」・・・それはつまらない。私たちはそれに苦しめられた。苦しんだわりには役に立たない。試験が終わったらすぐに忘れる。屁の突っ張りにもならない。糞の役にも立たない。青春の貴重な時間を、そんなつまらないことのために浪費することになる。

哲学の時間になると、禿げ頭が光る白い髭をたくわえた年配の先生が教室に現れました。18歳のときです。ずっと昔のことなんですが、つい最近のことのようにも感じます。この本を開くと私は即座に18歳の私にタイムスリップします。

愛知
Philosophia=Love of Wisdom

まさに半世紀前です。この赤い線、18歳の私が引きました。先生が線を引きなさいと言われたのか、勝手に引いたのかは覚えていません。

フィロソフィアないしフィロソフォスという言葉を、それぞれに愛知ないし愛知者という意味をこめて、最初に使いだした人が、かの有名な哲人ソクラテス Sokrates(前469頃~399)であります。

愛知県は古くからある「愛知郡」という地名に由来するので「フィロソフィア」とは全く関係ないけれど、「愛知」こそ哲学の語源であり、愛知県は「フィロソフィア県」という意味ですと白髭先生は語られた。

Philo(フィロ)=愛
Sophia(ソフィア)=知
Philo+Sophia=Philosohia=愛知・・・哲学
「知を愛すること」、それが「哲学」の語源であると説明された。次のページにこう書かれています。

かりにこれを英語で意訳すれば“Love of Wisdom”、ドイツ語では“Liebe der Weishit”ということになる。ラブもリーベも愛とか恋愛とかを意味すること、申すまでもありません。

これでいっそうはっきりすることでもありますが、もともとソクラテスでは愛知(フィロソフィア)における愛とは恋愛をモデルとして考えられていた愛にほかならなかったのです。

ところがこれを日本語で「哲学」と訳してしまいますと、とんとそういうニュアンスが失われてしまう。

失われた状態がずっと続いている、現在まで続いていると思います。海外のことはわかりませんが、日本では「愛知」というニュアンスは失われていると思います。知りたいということに対して、狂おしい恋愛感情をいだくというニュアンスがです。

心ひかれる人ができて、その人のことをもっと知りたい。ずっとその人のことを想っている。もっと近づきたい会いたいという熱い気持ち・・・そういう熱い探求が「フィロソフィア」の本来の意味であるというなら、私たち若い画学生たち相手にソクラテスのイデア論から哲学の話を始めるのでは、本来のニュアンスが失われてしまう。

それこそ私たちは恋愛のことについて知りたい。恋愛とセックスについて、それらは愛とは別物なのかどうか知りたい。私たちは芸大に入るまえからヌードクロッキーを描いたりして女性の裸体を見ている。

描くときに性的な妄想を持ち込むことはよくないと思う、でもそういうのもありなのかどうかわからない。エロい表現をしてもいいのか悪いのかそれもわからない。西洋美術は女性のエロティックな裸体画があふれている。

セクシーとエロティックと美は別物なのか、つながっているのかわからない。本屋ではヌード写真集が目に入る。どぎついポルノグラフィーも目にする。自分のなかにある性的な欲望と恋愛と愛・・・それらは別物なのか、つながっているのか、どう考えていけばいいのか、さっぱりわからない。

思うに、そういうことを話し合ってみることが哲学入門だったら熱くなれる。みんなはどう考えるのか、先生はどうお考えなのか聞いてみたい。知りたい。ソクラテスのイデア論なんて心に響かない。

ある朝登校したら、掲示板のまわりに人だかりができている。何だろうと思ったら、女生徒が自殺したという。「制作にいきづまって」という内容の遺書があった。それを見て私は落ち込んだ。私こそ制作にいきづまっている。こんな絵しか描けないんだったら、死んだほうがましだと思っていた。

死について、自殺について話し合うことが哲学入門になることだってあると思う。それが生の意味、存在の意味、宇宙の意味を探求する入口になると思う。ソクラテスのイデア論だけが入口ってことはないと思う。

当時、経済は大成長するものの、メダカやドジョウやフナがあたりまえに泳いでいた小川がヘドロ化しつつあった。公害病で苦しむ人々もたくさんあった。ヘドロ化する小川をありのまま汚く描くのか、現実を無視して美しく描くのか、どちらが本当の芸術なのだろう? そういう疑問について話し合うことが哲学入門になることもあると思う。

私は間水君が哲学に失望した気持ちがわかる。西洋の偉い哲学者の学説を学ぶことが哲学の授業だったら、今自分が身もだえするほど悩んでいること、胸をかきむしるような思いでのたうちまわり、真っ暗闇でどこをどう進めばいいかわからないこと、強く疑問に感じても答えが見出せずぐるぐる迷路をさまようようなこととは無関係じゃないか。

けれど先生は、勉強ができて成績が5だったかも知れないけれど、間水君と同じように苦しみもだえたかどうかはわからない。西洋の学説をきちんと学ばれ、教壇に立ったときそれをきちんと教える・・・そのような学問が哲学だと思っておられるかも知れない。

希哲学
Ki-Tetsu-Gaku

↑このかたが「愛知」(フィロソフィア)を「哲学」と訳された西周(にしあまね 1829 - 1897)。[西周哲学著作集, Public domain, via Wikimedia Commons] 

天地がひっくり返るような幕末から明治の激動の時代を生きた。西郷隆盛(1828 - 1877)より一歳年下。坂本龍馬(1836 - 1867)より7歳年上。

西周は石見国津和野藩の藩校で蘭学を学び、江戸幕府の「蕃書調所」(ばんしょしらべしょ)の教授兼助手の仕事につき、文久2年(1862)にはフィロソフィアのことを「所謂希賢の意に均しかるべし」と推定したという。『哲学初歩』はこう書いています。

希は希望の希で憧れ求める、愛するに通じますゆえ、フィロを希にあてソフィアを哲にあてて「希哲学」という訳語をあみだしたということは、これは必ずしも不当な訳語でもなかったと申せましょう。

鮮明に覚えています、その日の授業のことを。半世紀という時の流れが無かったかのように。奇妙キテレツな「キテツガク」という言葉こそ「フィロソフィア」の正統的な訳語だった。

ところがその後どういうわけか、西周はこの「希哲学」から希をはぶいてフィロソフィアのことを単に「哲学」とよぶようになった。

「キテツガク」では語感が悪かったのではないでしょうか? 「キテレツガク」みたいな感じがする。 私は「恋知」という訳語を提案したいけれど、「廉恥」と同じ発音。

「廉恥」が無いのを「破廉恥」といい、「恋」が破れるのを「失恋」というなら、「希」を失った「哲学」は「失恋知」だといえる。

自己や存在、宇宙、生命、死、真理についての狂おしい探求を失った「学問」「知識」・・・世の中ではそのような「学問」や「知識」を「知」と呼ぶけれど、ソクラテスはそれを「無知」だと言った。

「私は知らないということを知っている」と彼は言った。知っていると思う君たちより、知らないということを知っている私は少しは賢い・・・

希哲学であってこそフィロソフィアの忠実な訳語であったはずのものが、そこから希が勝手にはぶかれたとなると、哲学だけでは賢学というのも同じことで、 フィロソフィアにおけるかんじんのフィロが写し出されていないことになってしまい、 せっかくのソクラテスの精神がいちじるしくそこなわれることになりはしなかったかというふうにも考えられるのです。

翻訳は難しい。直訳だと堅苦しい感じがして読みにくい。かといって意訳すると翻訳者の考え方や感性が混ざってくる。それは仏典の翻訳も同じで、三蔵法師玄奘(げんじょう 602 - 664)は、原典に忠実に訳そうと努力した。鳩摩羅什(くまらじゅう/クマーラジーヴァ 344 - 413)の訳は、名文・美文と讃えられるけれど彼は意訳を試み、ときには創作も加えた。

ちなみに西周は、「芸術」「科学」「技術」「心理学」「生理学」「解剖学」「理性」「知識」「感受性」「創造力」「認識力」「主観」「抽象」「概念」「定義」「命題」「原理」「分解」「本能」「理想」「共和党」「社会党」「保守党」「急進党」等々、多くの訳語を考案しました。

西周の新造語とみなされていて、のちに漢籍に典拠のある転用語と判明した訳語もあるという。「意識」「現象」「思考」「観念」「観察」「体験」「論理」「弁証」「客観」「帰納」(手島邦夫『西周の訳語 の研究』 2002) 。

ちなみに彼はオランダのライデン大学に留学しています。留学中の1864年にフリーメイソンに入会したという。 明治維新(1868)直前の話です。

ライデンといえば、シーボルト(1796 - 1866)は日本から持ち帰った植物をライデンに持ち込み、そこからヨーロッパ各地に広まった。アジサイにしろギボウシにしろノカンゾやヤブカンゾウにしろ、日本原産の植物が欧米で品種改良され、多種多様な園芸品種が生まれ、それが逆輸入され、現代日本の園芸店の主要な商品となっています。

アジサイはハイランドジアとして、ギボウシはポスタとして、ノカンゾウとヤブカンゾウはヘメロカリスとなり、私も庭で長く栽培しています。霊気療法がレイキヒーリングとして、禅がマインドフルネスとして逆輸入されているようなものでしょうか。

ライデン大学にはシーボルトが持ち帰った植物を育てた日本庭園があるという。


↑ライデン大学の植物園のなかにある日本庭園
(シーボルト記念庭園)

たくさんの訳語=和製漢語をつくった西周ですが、明治7年(1874) 『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』 を発表しています。漢字とかな文字表記を廃し、日本語をローマ字表記に変える案です。

この方が国語の習得が楽になり、外国人との交流もしやくなるでしょう。反面、日本の伝統文化の微妙なところが伝承されにくくなるかも知れません。

でも古文や漢文を読み込むのは一部のひとだから、大勢にとってはローマ字表記の方が負担が少なくていいのかも知れません。アルファベットだと26文字です。日本の場合は漢字の学習が大変すぎる。

小学校 1026字
中学校 1110字

私は車を運転しているとき「空」という漢字を見かけると、「くう」と読んでしまいます。「色即是空」の「空」です。よく見るとそうじゃないんです。駐車場が「あき」だという表示です。

「から」とも読みます。空手です。青い「そら」でもあります。 空しい(むなしい)とも読む。空ろ(うつろ)とも読む。空蟬(うつせみ)はセミの抜け殻。同じ「空」という漢字にいくつもの読みがある。

「思惟」もそう。「しい」と「しゆい」では意味が違ってくる。日本語、難しすぎ!

思考 vs 愛
Thinking vs Love

H君とN君は覚えていないでしょうが、私はまだこんなことを鮮明に覚えています。一生忘れないと思います。[写真は昭和のビアガーデンのイメージ]

ずっと昔のこと、3人は20代前半、たぶん23歳だった。西洋哲学の学徒であった友人H君は、大阪梅田の街を歩きながらN君と私相手に愛について哲学的に語った。

主にドイツロマン派の哲学者や詩人が描く愛について話題にしながら1時間以上語っていた。特に「純愛」の素晴らしさ美しさを説いた。暑い季節だった。生ビールを飲もうということになった。

駅前ビルの屋上ビアガーデンに行くことにした。驚いたことに大音響のBGMに合わせて、ショーとしてトップレスの若い女性が舞っていた。 夜の特殊なお店ではなく、一般客相手の真昼間・・・今の時代なら考えられないことですが、あの時代そんなことがあった。 いや、あの時代でも普通はそんなお店はなかったと思う。

H君はセクシーなダンスに目が釘づけになり、愛の話は吹っ飛んだ。ダンスも楽しみたっぷり飲んで酔いがまわったので、もう行こうと私は言った。が、H君は席を立とうとしない。さっきまで純愛を説いていたのに、ゆれる乳房を見たら純愛の話題なんて、どうでもよくなった。[写真はイメージ]

だんだん不愉快になってきて私は「帰る」と言った。H君は「もうちょっと楽しもう」と言い、N君は笑った。N君はいつも笑っている。私はいらだって席を立った。

彼と会わない月日が流れ、ある日けろっとした顔でH君が私の家に現れた。私の家と彼の家は500mほどしか離れていなかった。親しい友達ではなかったけれど、小学校のときから知っている近所の幼馴染だった。芸大の4回生のとき、たまたま阪急電車で再会し、それから親密な交流が始まった。

彼が愛すべき人物であることはわかっていた。私も彼と同じ欲望がある。彼は正直な人間なので、自分をいつわることができない。プライドの高い人なら、そこでビールを飲まないでしょう。純愛について力説したばかりなのだから、セクシーなダンスのせいで話が吹っ飛んでしまうのはカッコ悪る過ぎる。

彼はものすごい読書家だった。家に本があふれていた。私も読書家のつもりだったけれど彼に比べたら、しょぼいことがわかった。ジャンルを問わない幅広い知識と、ねばり強く考え抜く集中力と、関西人らしいジョークのセンスがあって、話題も豊富だった。話好きで疲れることなくいくらでも情熱的に語ることができた。

H君のような人が哲学の先生になったら、きっと生徒たちを退屈させることはないだろうと思った。彼もそのような職種を希望していた。彼には自信があって、たびたび自分のことを天才だと言った。ただしN君と私だけに言ってただけかも知れない。

彼は数年後、母校とは別の大学院に入り哲学を深めた。哲学科の助手、講師の仕事もするようになった。哲学の話題になったら、私の思考がまったく浅いことがわかった。思考力でも知識でもまったくかなわない。自分が幼稚園レベルであることがわかった。H君は、はるか先に進んでいた。

ところが愛に関しては、以前のH君となんら変わっていないように見えた。そもそも愛と思考は別物であり、思考が深まったからといって、愛が深まるわけではないということを彼から学んだ。

緻密な思考・実験・計算を積み重ねることで、高層ビルや高速道路、自動車、ジェット機、新幹線、パソコン、インターネット、スマホが生まれた。快適・便利な科学技術文明が栄えている。

それはものすごくありがたいことに違いないけれど、愛に関してはお寒い現実であることは、日々の世界情勢、国内の現状、身近な現実を見ればわかります。 科学が驚異的に発展したからといって、愛とは何の関係もない話であるとしか思えない。

プラトン的恋愛
Platonic love

あの当時、私には気になっている女性がいました。芸大の4回生のとき「僕の作品には深みがありません」と、高校時代にお世話になった宮崎先生に言ったら、君の若さで深みを望むのはむりかも知れない。私だってそれを探求しているところだと言われた。[写真はイメージ:フリー素材を加工]

けれどもしアドイスが欲しいのであれば・・・「醜いものも見てまわりなさい」「旅をしなさい」そして「恋愛しなさい」と言われた。後から考えてみると、その女性との出会いは宮崎先生が仕組まれた。

自分の弟子の一人がグループ展を開くからぜひ行って、いろいろ指導してやってほしいと先生が言われた。学生に過ぎないのに指導なんてとんでもない。そんなことはできませんが、必ず行きますと答えた。

大阪のギャラリーで彼女の油絵を見て少し話をして、他のお客さんもあることだしすぐ帰ろうとしたら、話の続きを聞きたいから、会える日を決めたいと彼女は言った。それが初めての出会いだった。

彼女と会うときはいつも私が一方的にしゃべることになった。彼女がじょうずに聞き、じょうずに相槌を打ってくれるものだから、私は話し続けることになってしまった。そうやって2時間でも3時間でも話した。

図にのって上機嫌で話し続けたのではなく、一生懸命努力して話した。それは「プラトンの対話篇」ではなかった。彼女にも話してほしかったけれど、私の話は面白くないからと言って聞き役ばかりした。そうして意図せずインタビューみたいなものになってしまった。

私は饒舌でも雄弁な人間でもないのに、彼女と会ったときだけは長時間話した。その無駄なおしゃべりのせいで、私たちにはいつまでも距離があった。距離を縮めたいなら言葉はいらないと、ずいぶんあとになってわかった。

男女を問わず、この人生でそんなに一方的に話した相手は彼女しかいない。私の話に退屈しないかと心配したら、別れるときには、いつも彼女が次に会う日を決めようと言ってくれた。

友人に彼女との関係を聞かれてプラトン的恋愛だと答えておいた。今の時代、プラトニックラブという言葉が死語になったかどうかは知らない。少し年上で美術教師をしながら絵を描き続けている彼女に対する尊敬、尊重、敬愛の気持ちが強かった。そんなふうに芸大4回生のときから数年間彼女とおつきあいがあった。

ふたりの待ち合わせの場所が、彼女が勤務している学校の校門だったことがある。直前になって彼女が電話でそうしてほしいと言った。土曜日だったのでしょう。お昼の時間にたくさんの生徒たちが下校していく。

彼女が現れて私と連れだって行く様子を見て、生徒たちが騒いだ。「うわー、先生が男の人と、うわー、スキャンダルだー」。そんなところを待ち合わせ場所にしたら当然そうなってしまうこと、どうして思いつかなかったんだろう。

ふたりは逃げるように駅に急ぎ電車に乗った。ずっと後になって、そのとき彼女は意図的に校門で待ち合わせるようにしたのかも知れないと、ふっと思い出して胸が痛んだ。

私は高校3年のときから鬱的な暗い気分・心情に悩まされていました。ときどき死にたくなったり、人と一緒にいるのが苦痛だったり、それで山崎の三川合流点みたいな誰も来ない寂しいところに足が向いたりしていた。

後から思うと、憂鬱な気分から抜けでることができたのは彼女のおかげだった。ほほ笑んだり、声をたてて笑ったり、心配そうな顔をしながら、ただ聞いてくれて・・・

結果的にカウンセラーみたいな役割をはたしてくれたのかも知れない。彼女といると気持ちが楽になり、何か穏やかな前向きな気持ちに包まれて、死にたいと思うことが無くなっていった。

ずっと後になって、彼女がクリスチャンだったのかも知れないと思った。いつも肌を露出しないエレガントな服を着ていた。いつもロングスカートだった。そして私はといえば、いつも絵具がこびりついた上下ブルージーンズ姿だった。何というちぐはぐなふたり。

そのころの私は彼女が何を着ているかとか、クリスチャンかも知れないとか、そんなこと思ってもみなかった。自分がどんな格好をしているか、どんな髪型かとかもかえりみなかった。

仏教でいう「愛」
“Love” in Buddhism

↑1993年、インド・マハラシュトラ州のアジャンタ遺跡で撮影。断崖絶壁にこの仏像があった。全身を撮りたくても危なくて、これが限界でした。

アジャンタのすべての仏像がそうなんですが、どこかよそで仏像を作って、それをここに持ってきたのではありません。ひとつの巨大な岩盤を削った。 柱もお堂も瞑想ルームも仏像も、ことごとくみんな同じ岩盤を削っていった。何世紀もかけて。

本来仏教は、よろこばしい意味では「愛」という言葉を使わなかった。京都帝國大学文学部梵語学梵文学科のご出身で仏教学者・古代インド文学者の岩本裕博士(いわもと ゆたか 1910 - 1988)は、「愛」についてこう解説されています(岩本裕著『日常佛教語』中公新書 1972=絶版)。

現在では「愛」といえばほとんどすべての場合「男女間の愛情」の意味に用いられ、わずかに親子・兄弟姉妹・師弟など親密な間柄をあらわすのに用いられるが、もともとは「あわれむ」とか「めでる」、あるいは「大切にする」という意味の語である。

ところが、佛教では梵語トゥリシュナーの訳語とされ、一般に「渇愛」と訳される。それは、梵語トゥリシュナーがもともと「のどの渇き」を意味し、そこから「渇望」とか「貪欲」の意味を持つに至ったからで、愛着(あいじゃく)・愛執(あいしゅう)などの熟語の場合の「愛」は、この意味である。

従って、佛教でいう「愛」とは「ものをむさぼり、それに執着すること」とか、あたかものどの渇いたものが水をほしがるように「欲望の満足を求める心情」を意味する。

親鸞の『教行信証』(信巻)に「愛心つねにおこりて、よく善心を染汚す」とあるのは、まさにこの意味である。

仏教では「愛」は欲望、執着、煩悩であり、ネガティブな意味で用いられてきました。異性、わが子、親、友達、家、財産、地位・・・何であれ、外側の対象に対する欲望・執着を良しとしない。

原始仏典『法句経』(ダンマパーダ)も、「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず」という言葉があります。 けれど出家する以前、ゴータマ仏陀自身も、愛欲におぼれる生活をしていたという。

ブッダはまた、こう語っている。
「わたしは、さとりに到達する以前にも、愛欲は楽しみが少なく、苦しみが多く、悩みが激しく、わざわいの甚だしいものであることを実際に知っていた。

しかし、愛欲のほかには善からぬことの楽しみ、喜びを知らなかったし、それよりほかの善いことをよく知らなかったので、その間わたしは愛欲だけを追求していた」(岩本裕『佛教入門』中公新書 1964)

私がおつき合いをした 女性のこと恋愛のことに迷ったとき、仏典や禅の本にあたってみたら、いい答えは何も見つからなかった。ゴータマ・ブッダの肉声を比較的伝えている原始仏典で、女性のことを「見るな」とブッダが発言していた。

ブッダは女性のことを「糞袋」だと形容し、「この世における愛欲など、身体に対する欲を離れるべきである」とも語っていた。

一方、密教経典である『般若理趣経』には「妙適淸淨句是菩薩位」という文言がある。「セックスのエクスタシーはボーディサットヴァの境地である」という。 ボーディサットヴァとは、この『考える人 vs 菩薩』で話題にしている「菩薩」のことです。

一方で愛欲を絶てという発言があり、一方でセックスの快楽が菩薩の境地であるという文言がある。どちらもプラトン的恋愛をしていた当時の私の心に響くものではなかった・・・

佛教入門
Introduction to Buddhism

岩本裕博士の『佛教入門』。私は仏教の入門書と思って買ったんですが、全く仏教の入門書なんかではなかった。若かった私は火傷を負った。これは若い人にはお勧めしません。心配しなくても、とうに絶版になっていますが。

Amazonでも人気がある中古本は、数倍の値段がついたりしていますが、この『佛教入門』は、10円とか48円となっている。レビューを見て思わず吹きだしてしまった。 ozawa39というかたが書かれています。

仏教に精神的救済や人生の答えを求めている人には不向きな本です。逆に宗教的なものを突き放して見られる冷静な頭と、冗談を笑って受け流すセンスのある方に向いてます。

「仏教入門」という題名だったら、仏教の素晴らしさを説き、仏教を勧める本だと思うじゃないですか。 この本はそうではないんです。仏教が素晴らしいとは一言も書いていない。仏教を広めようとしていない。

この本の帯には「佛教は現代の我々にとってどのような意味をもっているか。本書は宗派的あるいは護教的解説ではなく・・・」と書かれている。確かに「護教的」ではない、を通り越して批判的であるように見える箇所も多い。ビン・ラーディンというかたがレビューに投稿されています。

インド学者による突き放した立場からの仏教論で、独自の見解を出しているようだが基礎知識のない者にとっての入門書としては癖が強すぎると思う。それにいかにも古典文献学者らしい語源や語義の詮索がやたらと多くてややうんざりする。

記述の殆どが釈迦仏教、原始仏教に費やされ、大乗仏教についてはわずか1章(全体の6分の1以下)しか割かれていない。故に日本仏教については殆ど触れていない。

でも「佛教とセックス」や「佛教と社会」の章では当時の仏教教団が持っていた女性蔑視や賤民排除の傾向を暴いていたのが目新しい所か。

私も「仏教とセックス」と「仏教と社会」の章に衝撃を受けました。それについては、後で話題にします。仏教を勧めたい人は、あえてこんなことを話題にしないでしょう。だから岩本博士の問題提議が希少で貴重だと思います。ただ若いときに読む本ではないかも知れません。

博士の「冗談」については私の好みの範疇です。1ページ目にいきなりこんなことが書いてあります。

禅の真髄とは何か、というようなむつかしい問題はいましばらくおくとして、欧米の人々までが時にはゼンガクレンを禅の一派とまちがえたりしながらも、禅という東洋神秘主義に関心を持っているという。

しかし、色々と話を聴けば、結局はサロンの話題に過ぎないようだ。これもまたトランキライザー的な役割であるにすぎない。

今となっては、「ゼンガクレン」といったって、何のことやらという人が大半だと思いますが、「全日本学生自治会総連合」、略して「全学連」です。

岩本博士が『佛教入門』を書かれたころ、「全学連」による反体制的・左翼学生運動が活発だった。それを「禅学連」という禅の一派の活動だと間違える人は日本にも欧米にもいなかったと思います。たぶん、岩本先生一流のジョークでしょう。

それってサダム・フセインのことを間水君が「布施院」と書いた、まあそのテのジョークかなと思います。

ちなみに、岩本著『日常佛教語』で「布施」がとりあげられています。サンスクリットの「ダーナ」(贈与・贈り物)の訳です。大阪方面にお住まいのかたは近鉄「布施駅」をご存知だと思います。

ダーナの音写(写音)が「檀那」「旦那」。英語の Donation (ドネーション)やDonor(ドナー)と同語源(インド・ヨーロッパ語族)だという。


日曜参禅会
Sunday Zazen Practice

雪舟(1420 - 1506)作『慧可断臂図』(えかだんぴず 1496)。[雪舟, Public domain, via Wikimedia commons]

面壁する達磨と、弟子にしてもらうことを願う慧可(487 - 593)。しかし達磨は振り向かず相手にしない。慧可は左腕を刀で切って覚悟を示す。これほどの人物を達磨は待っていた。片腕を切ったこの人は達磨の後継者となった。岩本裕著『佛教入門』の1ページ目はこう続きます。

禅宗のある本山で、毎週土曜日の夕方から日曜日の午前中にかけて、禅の講習会を開いた。たちまち数十人が集まり、とまりこみで講習を受けているという。

朝は早くから叩き起こされて作務(さむ)もするし、わけのわかったようなわからぬような提唱(ていしょう)も聴き、聴講者も満足しているらしい。 しかし、これとても結局トランキライザーであることは言うまでもない。

「わけのわかったようなわからぬような」というところが嫌味たっぷり。芸大時代に京都の禅寺のこういう一般市民向け参禅会に参加したことがあります。高校時代にわずらった気管支喘息の後遺症で、体が弱く持久力がなく、そのくせ夢中になって徹夜で絵を描いたりしては体調をくずしていた。

母が何か重い物を運んでくれと頼んだ時、たいして重くないはずなのに持てなかった。「近ごろ筆より重たいものを持っていないから仕方がないか」と母は言った。

私には、たった一泊だけの参禅会でもキツかった。軟弱きわまりない若者だったと思う。30分の座禅が数回と雑巾がけと読経・提唱だけなのに、けっしてトランキライザー=精神安定剤にならなかった。

足が痛い、肩がこる、背骨も痛い、頭痛がする、頭のなかに様々な思考が暴走し混乱する。思考がうるさくて無我どころではない。精神安定剤と正反対、体も心も不安定になった。岩本裕著『佛教入門』はこう続きます。

こうして、禅は現代の社会では精神安定の一つの手段になっているようだが、考えてみると、 現代の社会に達磨(だるま)の面壁九年(達磨が九年のあいだ壁に向かって座禅していたこと)というようなことが通用するわけではなし、こうした精神安定剤の役割を果たすことにこそ禅の生きる道があるのかもしれない。

これを博士は高度経済成長期のまっただなか、1964年(昭和39)に書かれた。大衆化というか、禅が安易に薄まっていくことに対する警鐘&嫌味として「精神安定剤」という表現をされたのでしょう。

「マインドフルネス・ストレス低減法(Mindfulness-based stress reduction)」の創始者カバット・ジン(1944 -)については後で話題にしますが、彼は1966年から禅やヨーガを実践し、 ケンブリッジ禅センターの創設メンバーだったそうです。

2017年に公表された米国での調査結果によると総人口の4.1%、約 943万人が瞑想(マインドフルネスを含む)を継続的に行っているという。

さらにマインドフルネスや瞑想の臨床活用については総人口の14.2%にあたる3,371万人が利用したと回答している(Clarke et al., 2018)。2012年度には4.1%に過ぎなかったことから 5年間で3.5倍に増加しており、関心が窺える。
▷大谷彰著『マインドフルネスの歴史と展望』2021

驚くべきことだと思います。近年、アメリカ合衆国の衰退についての話題をよく目にします。それは主に経済や治安の話です。経済とは別の重要な潮流が生まれていると思います。経済の衰退という話なら、日本だって経済ゼロ成長時代が続き「失われた20年」が「失われた30年」になっています。

瞑想アプリ「RussellME」を取り扱っているラッセル・マインドフルネス・エンターテインメント株式会社が2021年に実施した調査によると、日本では、マインドフルネスを月に1回以上実践する人口は約193万人だと推定している。

私の場合はアタマがうるさいばかりで精神安定剤になりえなかった。けれど、これによってトランキライザーを減らすことができるというエビデンスがあるという。このエビデンスのおかげで、「マインドフルネス」は「ストレス軽減法」のメソッドとして世界的に認められている。

思うに「精神安定剤」になったらなったで大いに結構なことだし、「精神不安定剤」になったらなったで、アタマの雑音がどのように私たちを害しているかということに気づくきっかけになる。

私はアタマの騒音がいかに自分を混乱させ消耗させているかということに気づくことができた。どうやったら、アタマの騒音を消すことができるのか?  そういう問題意識が生まれた。それまではその騒音に向き合うことなく生きてきた。騒音を苦痛と思わないで生きてきた。苦痛の原因がその騒音だと気がついた。

日常佛教語
Thinking vs Love

ヒーリングや瞑想というと、エビデンスの無い非科学的な、うさんくさいインチキだとおっしゃる立派な先生方がおられますが、そのような先生方がエビデンスのある「科学葬」をされたという話は聞いたことがありません。

仏壇や位牌や墓や読経なんて、非科学的でけしからんと主張してほしいです。もっと科学的理性的な現代的な方法論があると言ってほしい。岩本博士は『日常佛教語』のしょっぱなにこう書かれています。

佛教がわが国に伝来したのは、公式の記録では『日本書紀』の記述によれば、欽明天皇の十三年すなわち西暦552年という。事実はさらに半世紀ぐらい以前に遡るようである。

いずれにせよ、佛教がわが国に伝来して以来、今日まで千五百年足らずの間に、佛教はわれわれ日本人の生活に密着してきた。

そして善い意味においても、悪い意味においても、また好むと好まざるとにかかわらず、われわれ日本人は佛教の雰囲気のなかに生きてきた。そのことを端的に証明するものが、われわれの日常の言葉のなかに残る佛教的な語彙である。

しかも、われわれはそれが佛教用語であることを知らずに用いており、それほど深くひろく佛教が日本人のあいだに浸透していることは、まぎれもない事実である。

私の両親はふたりとも信仰がなかったけれど、家に仏壇や位牌があることに何の疑問もなかった。家の宗教は浄土真宗で、祖父母が亡くなったときには、宗派のお坊さんに読経していただいた。

私は芸大時代に岩波文庫版現代語訳『浄土三部経』を読んで、シュールな内容に驚嘆しました。そのことを父母に伝えたら、ふ~んという、つまらなそうな反応だった。読んでみようかなとは言わなかった。

そもそも信じてないので興味がない。信じてないけど、きまりごとだから従っている。それが仏教由来なのか儒教なのか道教なのか神道なのかなんて、まあ何でもいい。バチが当たるのは嫌だし、人から非難されるのも嫌だから「しきたり」に従っておくだけ。

「極楽」や「地獄」「往生」「三途の川」「彼岸」「輪廻」「因果」「閻魔」「和尚」「智慧」「縁起」等々。

ちょっと宗教臭さを感じるものだけではありません。
「迷惑」「安心」「おおげさ」「おかげ」「だいじょうぶ」「ちくしょう」「ちょうだい」「くしゃみ」「ぐち」「がまん」「ばか」「あいさつ」「油断」「利益」「図に乗る」「不思議」「親切」「正直」「冗談」「根性」「差別」「出世」「開発」「演説」「覚悟」「人間」なども仏教起源です。

一冊の辞書ができるほど、日本文化のなかに仏教語が溶け込んでいる。ただし宗派の経典をちゃんと読みこんでいる人は少ない。仏教が本当はどういう教えなのか原典をあたってみる人は非常に少ないと思う。

日本特有の不思議な話があります。文化庁によると・・・
神道・・・8790万人(48.5%)
仏教・・・8390万人(46.3%)
キリスト教・・・190万人(1%)
その他の宗教団体・・・730万人(4%)

宗教の信者数が日本の人口より数千万人も多い。
複数の宗教を信じている人があり、「寺の檀家」でもあり「神社の氏子」でもあるという人も多いからだという。

一方で2008年に読売新聞が行った世論調査によると
「あなたは、何か宗教を信じていますか」という問いに対して
信じている・・・26.1%
信じていない・・・71.9%

「信じていない」が71.9%というのは大きい数値だと思います。私の父母と私もこれに含まれます。たぶん父方の祖父もここに含まれる。というと祖父は「おれは信じてる」と言うでしょうが、やっぱり信じてなかったと思います。

なぜって、明治生まれの祖父が私相手に「人生は虚しい」とたびたび愚痴を言う。愚痴というより嘆きかな。悠々自適に暮らしている祖父が、なぜ虚しいと言うのか? 

浄土真宗を信じていたら、「極楽浄土」が約束されているはず。まもなく「この世」よりずっと素敵なところに行けるのだから、孫である私なんかにぼやく必要がないと思う。

「宗教に関することの中で、あなたがしていることや、したことがあれば、いくつでもあげて下さい」という問いも興味深い。

盆や彼岸などにお墓参りをする・・・78.3%
正月に初詣でに行く・・・73.1%
しばしば家の仏壇や神棚に手をあわせる・・・56.7%
子供のお宮参りや七五三のお参りに行く・・・50.6%
座禅など、瞑想して精神統一をはかる・・・2.9%

岩本先生、心配ご無用です。座禅や瞑想をする人なんて、ほんの少しの人数でした。それが精神安定剤になっているなんて警鐘ならす必要もないほどです。ほとんどの人は風俗習慣でした。

「あなたは死んだ人の魂は、どうなると思いますか。回答リストの中から、1つだけあげて下さい」についての解答です。
生まれ変わる・・・29.8%
別の世界に行く・・・23.8%
消滅する・・・17.6%
墓にいる・・・9.9%
魂は存在しない・・・9.0%

仏教の信者が8,390万人もあるけれど、仏教の「輪廻転生説」を信じている人は必ずしも多くない。「別の世界に行く」というのは「極楽浄土」とか「天国」とか「あの世」とか言われるものをさすのでしょうか、それを信じる人も多いとは言えない。

つまり71.9%もの人が「信じていない」。その表れだと思います。仏教がただの「風俗習慣」となっている。 そうだとするとクリスマスやバレンタインデーや教会の結婚式とたいして変わらない。かといって「消滅説」も少ない。 誰もが死について、よくわからないまま生きている・・・

月が綺麗ですね
The moon is beautiful, isn't it?

2017/07/08 エンジェルファーム から見た満月。
この話、学校では習わなかった。インターネットで知った話です。夏目漱石(1867 - 1916)が教師をしていた時代の話です。

というと東京高等師範学校時代(1893 - 1895)か、松山尋常中学校時代(1895 - 1896)か、熊本第五高等学校時代(現熊本大学 1896 - 1900)ですね。

2002年から私が住んでいます大分県竹田市は、熊本県との県境に位置するので、よく熊本方面に日帰りで遊びに行きました。なぜ日帰りかと言うと、たくさんの動物家族をかかえていたので、世話するために帰る必要がありました。

熊本時代の夏目漱石が住んでいた家を訪ねたり、彼が愛した仏像のある墓地を訪ね、写真も撮りました。あとの章で漱石に触れることになったら、その写真をアップします。今は寄り道せず先に進みます。

教師時代に、生徒たちに“I love you”を訳させたというんです。生徒は「我君を愛す」「そなたを愛おしく思う」などと訳したらしい。 何も間違っていない。ふつうの先生なら、“Good!”と言うはずです。

さすが夏目漱石。「日本人はそんなことを言わない」と言ったという。「月が綺麗ですね」とでも訳しておきなさいと言った・・・これが本当の話だったら、素晴らし過ぎる。(ただこの話、エビデンスは無いらしい)

素晴らしい、と私は感動するけれど、学科主任の先生や教頭先生、校長先生はどう思われるでしょう? 教育委員会の人はどう思うかな? 文部科学省の人はどう思うのでしょう?

こんな先生の言うこと聞いていたらいい点数は取れない。“I love you”を「月が綺麗ですね」と解答したら、間違いなく「×」ですね。逆に言うと、5段階の5の成績を獲得する成績優秀な人たちは、けっして「月が綺麗」なんて解答しない。ということかな?

私は“I love you”って誰にも言ったことがないかも知れない。“I love you”と誰からも言ってもらったことがないかも知れない。

ということは、私は誰も愛さなかったのか。誰からも愛されなかったのか。でも月や星や桜が綺麗と言った。梅の香りが素敵だと言った。ウグイスのさえずりが美しいと言った。それが“I love you”の日本語訳になりうる・・・

大切なことは、言葉・言語におきかえられない。そもそも愛は言葉でもなく思考でもないはず。16世紀に日本に布教にやってきたキリスト教宣教師たちはイエスが言う愛を、当時の日本語でぴったりくる言葉が見つけられなかった。

「愛」は煩悩のひとつとされ、愛欲、愛執、執着の意味だった。そこで宣教師たちは「御大切」と訳した。素晴らしい訳だと思います。そう言うしかなかったんですね。 今でも「御大切」は、“Love”の最高の日本語訳かも知れません。

死んでもいいわ
I don't mind dying

↑Amazonで販売されているツルゲーネフ著『Ася』(ロシア語版)

二葉亭四迷(ふたばていしめい 1864 - 1909)が、“I love you”を「死んでもいいわ」と翻訳したという話、これもインターネット上で見かける情報です。こんなことが日本で話題になっていること、ロシアの人々は知らないでしょうね。

ロシアの作家、ツルゲーネフ(1818 - 1883)の自伝的小説『Ася(アーシャ)』(1858)を二葉亭四迷が訳したとき、 題名は主人公の女性の名前であるアーシャではなく『片恋(かたこい)』(1896)とした。片思いです。

“I love you”を「死んでもいいわ」と訳すなんてすごすぎる・・・そのか所はこうなっているという↓

私は何も彼も忘れて了って、握ってゐた手を引寄せると、手は素直に引寄せられる、それに随れて身躰も寄添ふ、ショールは肩を滑落ちて、首はそつと私の胸元へ、炎えるばかりに熱くなつた唇の先へ來る・・・

「死んでも可いわ・・・」とアーシヤは云つたが、聞取れるか聞取れぬ程の小聲であつた。 私はあはやアーシヤを抱うとしたが・・・

↑二葉亭四迷[著作権不明]。ただ原作には“I love you”はなかったという。ロシア語で“Ваша”となっていた。英語だと“Yours”。「あなたのものよ」と書かれているところを「死んでもいいわ」と意訳した。これって創作じゃないか、と思います。

「死んでもいいわ」とすることで主人公アーシャの強い恋心が伝わります。「あなたのものよ」とすると、「私のこと好きにしていいのよ」みたいな何やら性的なニュアンスを帯びそうです。原作はそうだったのかも知れません。

二葉亭四迷がこの翻訳を出版したのは明治29年(1896)。江戸時代が終わってまだ29年、その時代の日本の女が男にむかって「愛しているわ」とか「あなたのものよ」とは言わなかった、そういう表現は違和感があったのだろうと想像します。そのように訳すとピンときてもらえなかったのかな。

「死んでもいいわ」は、残念ながら“I love you”の訳ではなかったけれど、ひとりの女性の強い恋心、“I love you”の気持ちを表す言葉として、原作以上の迫力、インパクトがあると思います。

↑ツルゲーネフが生涯恋したスペイン系フランス人の声楽家ポーリーヌ・ヴィアルド( 1821 – 1910)。[Pierre Petit, Public domain, via Wikimedia Commons] Wikipedia日本語版にはこんな記述があります。

ポーリーヌの人気は、芸術家や人間としての魅力で勝ち取ったものであり、見た目の美しさによるものではなかった。 半分閉じたような目、厚い下唇をした大きな口、その陰でへこんだ顎といった不器量さは広く知られ、 「びっくりするほど醜い」とか「身の毛がよだつほど不細工」などと言われていた。

・・・かどうかは別にして、本の表紙をデザインするとき、表紙のイメージ画像は上のロシア語版「アーシャ」のような女性の絵を選ぶでしょうね。 デザイナーはこの写真を選ばないと思います。 こういう写真もあります。[著作権不明]↓

ポーリーヌはジョルジュ・サンド(1804 – 1876)の家で、サンドと彼女の恋人ショパン(1810 - 1849)と一緒に多くの楽しい時間を過ごしたという。ショパンとふたりでピアノを演奏した。ショパンと一緒に演奏するなんてすごすぎると思いませんか?

彼女は幼いころからピアノ演奏に優れ、若きフランツ・リストからピアノのレッスンを受けたことさえあった。彼女は作曲家でもあった。リストは「世界はついに天才的な女性作曲家を見つけた」とポーリーヌのことを評したという。

ポーリーヌには夫があったけれど、ツルゲーネフは彼女に対して強い恋心をいだき、それは死ぬまで続き、そのために一生独身で通したという。彼女の容姿にひかれたのではなく彼女の内的な美しさ魅力にひかれた。

↑美化して描かれたポーリーヌの肖像画[著作権不明]。これならツルゲーネフの本の表紙のイメージ画像として使える。 写真技術が生まれていなければ、こういう絵画が後世に残り、美人の歌姫だったと後世に伝えることができた。

でも見た目がこのような美人であっても内的な魅力がなければ、ツルゲーネフが生涯ひかれるというようなことなかったでしょう。 現代インドの禅師オショー(1931 - 1990)はツルゲーネフのことを高く評価しています。

私はずっとツルゲーネフの小説が好きだった 。ツルゲーネフはロシアの小説家で、世界最高の作家の一人だ。10 冊の名著を選ぶなら、間違いなくツルゲーネフに 1 位を与えなくてはならない。
OSHO“The New Dawn”

こんなことも語っています。

革命前、ソ連はレフ・トルストイ、ゴーリキー、 ツルゲーネフ、チェーホフ、ドストエフスキーといった作家を輩出した。 文学に関する限り、この5人の名前は非常に偉大で、もし全世界で10人の偉大な作家を見つけたいなら、この5人が最初の5人になるだろう。

彼らの作品は非常に偉大だ。ドストエフスキーというたった1人の人物だけで、世界中のすべての小説家を打ち負かすのに充分だ。しかし、何が起こったのか? 革命後、ゴーリキーも、 ツルゲーネフも、ドストエフスキーも、トルストイもいない。

一体何が起こったのか? この70年間、ソ連はそのような資質を持つ人物を一人も生み出せなかった。理由は明らかだ。ソ連国民は魂を失い、意識を失い、人間の魂は物質の副産物に過ぎないというカール・マルクスの言葉を盲目的に信じてきた。

魂が物質の副産物に過ぎないのであれば、俳句の可能性はなく、詩の可能性もない。私は革命前と革命後に書かれた詩を読んだ。 革命後の詩は高みにのぼるべきだったが、そうはならなかった。 OSHO『共産主義と禅火禅風』(1989)

ソ連崩壊前夜のオショーの発言です。明治維新後、日本の多くの作家・芸術家がトルストイ、ゴーリキー、 ツルゲーネフ、チェーホフ、ドストエフスキーを愛し影響を受けた。

あとの章で、熊本出身の徳富蘆花(1868 - 1927)が、パレスティナを巡礼したり、ロシアを旅してトルストイに会ったことを話題にしたいと思っています。

実はプーチン大統領も、ツルゲーネフを称賛しています。ロシア政府は近年、モスクワ南方の地方都市ムツェンスクにあるツルゲーネフの田園屋敷を多大な費用をかけて大改修しました。

けれどツルゲーネフは当時のロシアに対する辛辣な批判を多く書いています。もし彼が今の時代に生きていたら、きっとウクライナ侵攻に対してきびしい批判を行ったと思います。もちろん国外から。 国内にいたらプーチン政権を批判したナワリヌイ氏のように獄死あるのみでしょう。

ウクライナ侵攻が始まったとき、「戦争反対」と言いながらデモしただけで若い女性も年配のご婦人も、みんな荒々しくしょっぴかれた。 YouTubeで市民が撮ったそんな動画がたくさん流れていました。「戦争反対」を言うだけで逮捕されるなら、ツルゲーネフのような人は国外に逃れてもヤバイかも。

Love=愛
Love = Ai

↑ヘボン式ローマ字で知られる米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師、ヘボン(1815 - 1911)。[明治学院, Public domain, via Wikimedia Commons]

この『考える人 vs 菩薩』でもヘボン式ローマ字表記を採用しています。ローマ字を習ったのは小学校何年だったかな? アルファベットや英文字と言わず「ローマ字」と言うし、ヘボンという語感からラテン系の人かな・・・ずっとイタリア人かと思っていた。

それとは別に「訓令式ローマ字」表記もある。ややこしいですね。今も「訓令式」を使っている日本人もあります。そうでなくても日本人は「漢字」「ひらがな」「カタカナ」を覚えなくてはならないのに、さらに「ローマ字」も学ばなくてはならず、そのローマ字も「訓令式ローマ字」と「ヘボン式ローマ字」がある。

訓令式で「し」は「si」ですが、ヘボン式では「shi」です。私の名前は「Shigeki」で、パスポートにはそう書きます。サインもそのようにしますが、訓令式だと「Sigeki」になります。「Sigeki」を使っている人もあります。

このヘボン氏、実は「ジェームス・カーティス・ヘップバーン James Curtis Hepburn」というアメリカ人だった。英語で「ヘップバーン」と名のったら、日本人には「ヘブン」と聞こえた。彼は「平文」と書いた。

「マクドナルドでひと休みしよう」と言いますが、英語の「マクドナルド Mcdonald」と日本語の「まくどなるど」は、あまりにも違い過ぎる。正直に言いますと、私は “Mcdonald”を英語で発音することができません。聞くこともできません。私の耳には「メタノー」と聞こえてしまいます。

あそうそう、ちなみに私が住んでいます大分県竹田市にはマクドナルドはありません。ファーストフードのお店は一軒もありません。コンビニはあります。前は無かったんですが、今は4軒もあります。

ヘップバーンというと「オードリー・ヘップバーン」を思い出しますが、彼女とのつながりはないらしい。けれどなんと「キャサリン・ヘップバーン」とは親戚筋だという。ずいぶん昔、彼女が主演する映画『アフリカの女王』をテレビで見ました。

私たちは「へっぷばーん」と発音しますが、WeblioやGoogle翻訳で英語の発音を聞いてみると、「ヘップバーン」とは聞こえない。やっぱり「ヘブン」と聞こえます。 Pは発音しないらしい。

↑日本最初の本格的な和英辞典、平文先生編訳『和英語林集成』1867年初版 ©明治学院大学図書館所蔵 。

明治学院大学(明治大学とは別)は、ヘボン先生が1863年に横浜で開いた英学塾「ヘボン塾」が発祥。日本最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)だという。

『和英語林集成』が出版された1867年は明治維新の一年前です。エンジェルファームのメインの建物は築明治元年つまり1868年。柱だけを生かすような大改装工事を2006年に行ったんですが、熊本地震(2016)のときも、びくともしなかった。ここ竹田でも震度5があったのに。1867年なんてそう昔のことでないんです。

ヘップバーン、いやヘボン宣教師は1872年(明治5)、数人の優れた宣教師と協力して『新約聖書』の日本語訳を出版することができた。 最初はこんなふうに糸でとじるような製本だった。これは『約翰傳』(ヨハネ伝)©関西学院大学

↑驚くべきことに、「ロゴス」を「言霊」と訳している。

元始(はじめ)に言靈(ことだま)あり
言靈(ことだま)は神(かみ)とともにあり
言靈(ことだま)は神(かみ)なり

旧約聖書はヘブライ語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれた。ヨハネ福音書の最初の一行はギリシャ語で「ロゴス」となっている。そこを何と「言霊」と訳している。

非常にユニークというか、そんな訳し方は明治5年出版のこの聖書だけだと思います。 ロゴス=言霊、ありえないと思うけど、ひょっとしたらそういうのもありか? 

↑アメリカ議会図書館がアップしている『我等救世主耶穌新遺詔書』(1840)。イギリスのロンドン伝道協会の宣教師ロバート・モリソン(中国名:馬禮遜 1782 - 1834 )による漢訳聖書。「我等が主であり救世主であるイエス・キリストの新約聖書」です。

ヘップバーン、いや平文先生は実は最初は中国で布教活動をされた。マラリアにかかるなど困難があってアメリカに帰国され、そのあと長らく日本で布教された。

日本で布教活動するにあたって、聖書の日本語訳を考えたとき、まずは漢訳聖書を日本語訳すること思いついた。というのも当時の日本の知識人は漢文が読めた。

で、先生の聖書和訳には、漢訳聖書の影響があります。まずは「神」です。漢訳でも議論があった。「デウス」の訳として「天帝」や「上帝」の案もあった。でも「天帝」も「上帝」も儒教の匂いがぷんぷんする。

中国だっていろんな「神」があり、一神教のデウスを「神」と訳すのは無理があった。もともと中国には仏教でつちかった「音写」の伝統があるのでデウスを音写すればよかった。

鳩摩羅什や三蔵法師玄奘なら、きっとうまくやったと思う。素晴らしい訳語を生み出し、それがそのまま日本に伝わったと思います。ところが最初の漢訳聖書が作られた時代は「アヘン戦争」の時代です。鳩摩羅什や三蔵法師玄奘のようなすごい訳経僧いや訳経修道士がいなかったのかも知れない。

欧米宣教師がデウスの訳語を「神」としてしまった。で、日本で布教していた宣教師たちもその影響でデウスを「神」と和訳した。最大の誤訳ですね。

漢訳聖書が「愛」と訳していたので、ヘボンたちもそのように“Love”を「愛」と訳した。漢訳聖書は「仁」とか「仁愛」とも訳したけれど、「仁」も儒教の匂いがぷんぷんする。

英語では“Love”だけど、ギリシャ語では「アガベー」だった。アッカンベーではありません。仏教ではアッカンベーな言葉だった「愛」が、非常にポジティブな言葉として表舞台に立つことになった。

明治維新というのは大変な時代で、西洋文明を急速に受容する、そのために西洋の言葉をどんどん日本語に置きおえていかなくてはならなかった。その時代の知識人たちはまだサムライスピリットがあって、カッコイイ漢字熟語で和訳した。数万語を造語したという。それって全く新しい国語が生まれたようなものだと思います。

それをガンガンおし進めたのが、この章の初めに話題にしました西周です。そうして作った言葉は中国や韓国にも影響しました。 だから反日教育を行っている「朝鮮民主主義人民共和国」も、国名が和製漢語でできている。「民主主義」も「人民」も「共和国」も日本人が作った和製漢語です。

恋愛は人世の秘鑰なり
Love is the secret key to life

↑北村透谷(きたむらとうこく 1868 - 1894) [出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」]

明治元年に生まれた北村透谷が『厭世詩家と女性』(明治25 1892)というエッセイの冒頭でこう書いた。

恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり
恋愛ありて後人世あり
恋愛を抽ぬき去りたらむには
人生何の色味かあらむ

秘鑰(ひやく)とは秘密の鍵だそうです。「恋愛は人生の秘密を解く鍵だ」「恋愛あってこそ人生がある」「恋愛抜きの人生にどんな味わいがあるんだ」と言う。

サムライが頭にチョンマゲをゆっていた時代からたった25年で、25歳の若者がこんな発言をする。25年まえだったら、「おぬし、それでもサムライか? 恥を知れ。切腹しろ」と責められたかも知れない。

島崎藤村(1872 - 1943)は小説『桜の実の熟する時』で透谷のこの発言をを引用して「これほど大胆に物を言った青年がその日までにあろうか。これほど大胆に物を言った青年がその日までにあろうか。すくなくも自分等の言おうとして、まだ言い得ないでいることを、これほど大胆に言った人があろうか」と主人公に言わせている。やはり大胆な発言ではあった。

「恋愛」という造語は明治20年代に広まったという。古典文学には「恋愛」という言葉は出てこない。「愛」と「恋」を結合して男女の“Love”の訳とした。新時代の意識変革を感じます。

一方、北村透谷の『漫罵』(まんば 明治26年)というエッセイにはこんな記述があります。

われ橋上に立つて友を顧りみ、ともに岸上の建家を品す。或は白堊を塗するあり、或は赤瓦を積むもあり、洋風あり、国風あり、或は半洋、或は局部に於て洋、或は全く洋風にして而して局部のみ国風を存するあり。

更に路上の人を観るに、或は和服、或は洋服、フロックあり、背広あり、紋付あり、前垂あり。更にその持つものを見るに、ステッキあり、洋傘あり、風呂敷あり、 カバンあり。ここに於て、われぶぜんとして歎ず、今の時代に沈厳高調なる詩歌なきは之を以てにあらずや。

橋に立って、洋風和風入り乱れ混沌としている様子を見て、これを嘆いている。今の時代「沈厳高調なる詩歌」が無いのはそのせいだと言う。 それは現代の日本も変わらない。ミサワホームの隣に漆喰の古民家が建っていて、その隣には消費者金融のどぎつい看板が並んでいる。 風景画を描くにはちょっと辛い。

今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつつあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。

革命にあらず、移動なり。人心自おのづから持重するところある能はず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自から殺ろさざるもの稀なり。

今起きていることは物質的な革命だと言う。精神が奪われていると言う。本当の革命じゃない。単なる変化だと言う。 この変化の激動のなかで自分自身を見失い、自分自身を殺している。

国としての誇負(プライド)、いづくにかある。人種としての尊大、いづくにかある。民としての栄誉、いづくにかある。 たまたま大声疾呼して、国を誇り民をたのむものあれど、彼等は耳を閉ぢて之を聞かざるなり。

今の時代に創造的思想の欠乏せるは、思想家の罪にあらず、時代の罪なり。物質的革命に急なるの時、いづくんぞ高尚なる思弁に耳を傾くるの暇あらんや。いづくんぞ幽美なる想像に耽るの暇あらんや。

彼等は哲学を以てらんみんの具となせり、彼等は詩歌を以て消閑の器となせり。彼等が眼は舞台の華美にあらざれば奪ふこと能はず。彼等が耳はひわいなる音楽にあらざれば娯楽せしむること能はず。彼等が脳膸は奇異を旨とする探偵小説にあらざれば以て慰藉を与ふることなし。

物質主義的な革命を急いでいるとき、高尚な思想に耳を傾けるひまはない。想像にふけるひまもない。 哲学も詩歌も舞台も音楽も小説もみんな気晴らしの娯楽となっているじゃないか。

然れども汝は幽遠の事を語るべからず、汝の幽遠を語るは、寧ろ湯屋の番頭が裸躰を論ずるに如しかざればなり。

汝の耳には兵隊のあしおとを以て最上の音楽として満足すべし、汝の眼には芳年流の美人絵を以て最上の美術と認むべし、汝の口にはアンコロを以て最上の珍味とすべし、 ああ、汝、詩論をなすものよ、汝、詩歌に労するものよ、帰れ、帰りて汝が店頭に出でよ。

彼がこれを書いたのが明治26年(1893)。翌年明治27年に日清戦争が起きました。「兵隊の足音を最上の音楽として満足しらいい」と26歳の若者がののしっている。叫んでいる。『漫罵』(まんば )とは「ののしり」だった。

「芳年流の美人絵」を最上の美術と評価したらいいじゃないかとののしる。芳年とは月岡芳年(つきおかよしとし 1839 - 1892)のことです。

↑最後の浮世絵師と言われる月岡芳年の「風俗三十二相」(明治21/1888)。 [Yoshitoshi, Public domain, via Wikimedia Commons]
月岡芳年は才能ある非常に優れた絵師だと思いますが、若き北村透谷はののしりたかった。『漫罵』を書いた翌年の明治27年(1894)、透谷は自殺してこの世を去った。

島崎藤村は『北村透谷の短き一生』(大正2/1913)というエッセイでこんなふうに書いています。

明治年代も終りを告げて、回顧の情が人々の心の中に浮んで来た時に、どういう人の仕事を挙げるかという問に対しては、いつでも私は北村君を忘れられない人の一人に挙げて置いた。

元々私はそう長く北村君を知っていた訳では無い。付き合って見たのは晩年の三年間位に過ぎない。しかし、その私が北村君と短い知合になった間は、私に取っては何か一生忘れられないものでもあり、同君の死んだ後でも、書いたほごだの、日記だの、種々いろいろ書き残したものを見る機会もあって、長い年月の間私は北村君というものをスタディして居た形である。

明治年代に記憶すべき、大きな出来事の一つは、士族の階級の滅亡である。その階級がもてるすべてのものの滅びて行ったことである。 その士族の子孫の中から北村君のような物を考える人が生れて来たということは私には偶然では無いように思われる。

上の文章に「スタディ」という言葉が出てきますが、大正、昭和になると、新しい漢字熟語は作られなくなり、外国の言葉はそのままカタカナに移されるようになり、「ロゴマーク」とか「シンボルマーク」のような「和製英語」も生まれた。

今ではカタカナ外来語と和製英語あわせて約50万とか。それと明治維新以後に作られた和製漢語数万、それと中国から伝わった漢語、 そこには岩本裕博士が研究されている日常佛教語が含まれ、それともともと日本人が使っていた「やまと言葉」・・・私たちは今、膨大な混合言語を使っています。

やまとうたは 人の心を種として よろずの言の葉とぞなれりける

↑紀貫之(866または872 - 945)[菱川師宣 国立国会図書館蔵]が、『古今和歌集仮名序』に書いたこの言葉を想うと、私たち現代人はたくさんの言語を使うけれど、心を種になんかしていないと思います。

そもそも漢語、漢文は古代日本人にとって知性の言葉、アタマの言語だったと思います。それを理解することが高い官位を約束してくれた。維新以降は英語、ドイツ語の教養が、高い地位につくために必要だった。

が、自分の本当の気持ち、正直な気持ち、嘘いつわりのない気持を表現するには「やまと言葉」が必要だった。 やまと言葉には「言霊」が宿っていると信じていた。それゆえに貫之は、

力をも入れずして天地を動かし

と書くことができた。天地を動かすってスゴイ。それは不思議なことに、天地創造の神を信仰するヘボン先生たちの『約翰傳』の訳に響きあう。

元始(はじめ)に言靈(ことだま)あり
言靈(ことだま)は神(かみ)とともにあり
言靈(ことだま)は神(かみ)なり

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考える人 vs 菩薩 目次
The Thinker vs Bodhisattva Index
頭頂眼+松果体+第三の眼
Parietal eye+Pineal gland+Third eye
京都市立芸術大学創始者・田能村直入
Founder of Kyoto City University of Arts
Tanomura Chokunyu